4-2 運命、訂正しますわ
「テ、テレーゼ様は……どうなのですか?」
アメリア姫が、初めて動揺を隠しきれない声音を見せた。
「ヴォルフ様のお気持ちがそうだとしても! 彼女は……あなたの、お身体が好きなだけなのでは?」
その問いに、俺は目を伏せて、ほんのわずかだけ息を吐いた。
「最初は……そうだったのかもしれません」
だが次の瞬間、俺は顔をまっすぐに上げる。
「けれど今の彼女は、それを含めて、俺という人間を見てくれていると……そう、信じています」
アメリア姫の表情がわずかに揺れた。噛みしめた唇の端が震え、瞳にかすかな潤みがにじむ。
「……では」
彼女は少し拗ねたような、けれどどこか寂しげな声音で続けた。
「わたくしの……この想いは、どうすればよろしいのですの?」
その声音には、王女としての気高さよりも、一人の少女の切実な胸の内が滲んでいた。
「子どもの頃から、ずっと大切に抱いてきたのです。あの日、救ってくださった方こそが、わたくしの運命の人だと……」
胸元に手をぎゅっと当てながら、アメリア姫はまっすぐ俺を見た。
「そんな想い、そう簡単に消せるはずがありませんわ」
その瞳が、ほんのかすかに揺れた。王女として何を言っても動じなかった彼女が、感情を見せている。その想いが偽りではなかったのだと、俺にもひしひしと伝わってきた。だからこそ、俺は正面から、それを受け止める。
「……申し訳ありません」
他に、かけられる言葉はなかった。アメリア姫はわずかに目を伏せ、それからまた顔を上げる。
「……では、もし」
ゆっくりと、言葉を選ぶように小さく息を吐いた。
「もし、最初に嫁いできたのがテレーゼ様でなかったとしても……あなたは、同じように、その方を愛するようになっていたと思いますか?」
凛とした声音だった。だがその裏には、諦めきれない想いに、けじめをつけようとする必死さがみえる。
俺は少しだけ目を伏せ、思わず考えてしまう。けれど、答えはすぐに出た。
「……どうでしょうね」
思案するふりをして、ふっと笑みがこぼれる。
「あんなぶっ飛んだ子、なかなかいませんから」
アメリア姫がぱちりと瞬きをする。思わず口元が緩んだ自分に気づき、俺は慌てて真顔に戻したが、姫はその様子を静かに見つめていた。
「……そんな顔を、なさるのですね」
ぽつりと、誰に言うでもなくそう呟く。
「なんだか、これ以上あれこれ言うのが、馬鹿らしくなってきましたわ」
アメリア姫はそう言って、ようやくふっと微笑んだ。
「ええ。わたくし……どうやら、誤解していたようですわね」
「お二人に愛がなければ、と思っていました。でも……愛し合っているお二人を引き裂くほど、私は浅はかではありませんわ」
その声には、静かな決意と、確かな潔さがあった。
「……ヴォルフ様」
アメリア姫がふと顔を上げ、ほんの少し照れたように笑った。
「明日、わたくしはこの国を発ちます。その前に……幼い頃、助けていただいたこと、改めてお礼を申し上げますわ」
きっぱりとそう告げる彼女の視線は、もうすでに未来へ向けられていた。
「そうそう。あの日いただいたクリームパン……本当に美味しかったのです。あとで、お店の場所を教えていただけますか?」
気さくな口調でそう尋ねながら、アメリア姫は懐かしそうに微笑む。
その瞬間、忘れていた光景がふっと蘇る。
(ああ……あのとき、たしか……)
いつまでも泣き止まない少女を前にどうしていいかわからず、俺はとっさに持っていたクリームパンを袋から取り出して、そのまま少女の口に突っ込んだ。
(今思えば……知らなかったとは言え、俺は姫様相手に、随分と無茶なことを)
思わず吹き出しそうになる。
「はい。もちろんです」
なんとか平静を装って答えながらも、頭の片隅ではその頃のことを掘り起こしていた。
あのクリームパンは、当時騎士団内で評判だった、王都の小さなパン屋の名物だった。
(以前、街歩きのときにもテレーゼ嬢にあの店を勧めたけど……)
彼女が申し訳なさそうに、「クリームパンは苦手だ」と言っていたのを思い出す。ああそうだったな、とぼんやり考えていた時だった。
「わたくし、あの日お城に持ち帰って、大切に少しずつ食べましたのよ。今でも、あの美味しさを覚えておりますわ」
アメリア姫がうっとりとした顔でそう語った、その言葉に、俺の中でふと何かが引っかかった。
(城に、持ち帰った?)
「……あの、姫」
なんとなく気になって──いや、どうしても聞かずにはいられなかった。
「先ほど『お城に持ち帰って食べた』とおっしゃいましたが、俺の記憶では、あのとき、泣きやまない少女に困り果てて、俺は半ば勢いでクリームパンを、その子の口に突っ込んだ記憶があるのですが」
「え?」
アメリア姫は、きょとんとした顔で瞬きを返した。
「そんなこと……ありませんわ」
それは戸惑いでも謙遜でもなく、本気の反応だった。困惑しながらも、彼女はきっぱりと続ける。
「わたくしは、きちんと袋に入ったままのパンをいただきました。そして、お行儀よく持ち帰って……お城で、ゆっくりといただいたのです」
言い切る口調には、一片の迷いもない。どうやら彼女の記憶は、確かなものらしい。
(……ということは)
ふと、脳裏に別の可能性が浮かぶ。
(……じゃあ、俺が助けた女の子は、姫ではなかった……?)
「……姫。そのとき、俺は他に何か、あなたに?」
「ええ。パンを下さったあと、ヴォルフ様は私の手を優しくとって、お話ししながら、一緒に侍女を探して下さいましたわ」
アメリア姫は、夢見るような目でそう語る。けれど、俺の記憶に、そんな場面は一切なかった。あの日、確かに俺は野犬に怯える少女を助けた。けれどその後すぐ、誰かがその子を呼ぶ声がして、すぐにその場を離れたのだ。手を取って歩いた覚えも、話をした記憶もない。
「だとすれば……」
そこまで言って、俺はわずかに間を置いた。
「姫……あなたを助けたのは、きっと俺ではなかったのでしょう」
「そんなはず、ありませんわ」
アメリア姫が、少し声を震わせながら顔を上げた。
「その、ヴォルフ様が腰にお持ちのナイフ。それと同じ紋章が、あのときの騎士様のナイフにも入っていましたもの」
「……ナイフ?」
俺は思わず、腰にある愛用のナイフへ視線を落とした。
(……そういえば)
遠い記憶を探るように目を細める。
「あの頃、部下のレオンにこのナイフを一時的に貸していたことがあったんです。あいつが護衛任務か何かでどうしても必要だと言ってきて……」
(ってことは──)
俺の視線が止まったのを見て、アメリア姫が小さく息を呑む。
「ではまさか……ヴォルフ様がナイフを貸していた方が、あのときの……?」
「…………」
俺は口を開きかけたが、言葉に詰まって、代わりに肩をすくめた。それだけで姫は全てを察したらしい。ふと、彼女の目から光が抜ける。
「では、わたくしの……運命の人は……ヴォルフ様では……」
「……ないですね」
俺は少し申し訳なさそうに、でもきっぱりと返した。
「…………」
「…………」
そして──
「……ふふっ」
アメリア姫が小さく笑った。その笑みはどこか寂しげだったが、同時に少し吹っ切れたようでもあった。
「おかしいですわね。ずっと運命だと信じていたのに……ほんのひとつのズレで、こんなにもあっけなく……」
彼女は小さく首を振ると、肩の力が抜けたように、もう一度笑った。
「……ヴォルフ様」
改まった声に、俺は背筋を伸ばす。
「今回のことで、あなたにも、そしてテレーゼ様にも……多大なご迷惑をおかけいたしました」
そう言って、彼女はゆっくりと頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
真っ直ぐな謝罪の言葉。そこには王女としての誇りと、一人の女性としての誠意がにじんでいた。
「気にしておりません。姫が本気で想ってくださっていたことは、ちゃんと伝わってきました」
「ありがとうございます」
しばしの沈黙が走る。けれど今度は、心地よい静けさだった。
*
「……え? 人違い?」
ユリウス殿下の間の抜けた声が、応接室に響く。アメリア姫は、すっかり落ち着いた様子でティーカップを持ち直しながら、軽く頷いた。
「ええ。どうやらヴォルフ様は……わたくしの運命の方ではなかったようですわ」
あっけらかんとしたその口調に、ユリウス殿下とアルベルトが「おお……」と小さくどよめく。
「そ、そうですか……」
ユリウス殿下が目をしばたたきながら、チラッと俺を見る。アルベルトは腕を組んだまま、うっすら苦笑を浮かべている。
「それで……その……」
アメリア姫が。ほんのり赤く染まった頬を両手で押さえ、ぽそりと口にする。
「私を助けてくださったレオン様とは……一体、どのような方なのかしら……?」
俺たち三人は、そろって固まった。
「…………」
全員が無言で顔を見合わせ、呆れたような、どこかホッとしたような表情で頷き合う。やがて、ユリウス殿下がぽつりと口を開いた。
「……呼びましょうか?」
そして続ける。
「ちなみに、レオンは独身です」
「まあっ♡」
アメリア姫の頬が一気にバラ色に染まり、とたんにソワソワと髪を整えだす。
俺たちはまた、三人そろって黙り込んだ。
(……嵐は去った、のか?)
俺はそっとティーカップを持ち上げると、ため息まじりに一口、冷めた紅茶をすすった。




