1-2 誤解の火種
朝靄のなか、中庭の空気は澄んでいて冷たい。
剣を納めると、手袋越しにうっすらと汗が滲んでいるのがわかった。いつもの時間、いつもの鍛錬。騎士団長になっても、朝のこのひとときを手放すつもりはなかった。
王都の北東区、貴族街の外れにあるこの邸は、俺が王都に戻るとき褒賞として与えられたものだ。一人暮らしの俺には広すぎるほどの屋敷だが、広々とした中庭があるのはありがたかった。剣を振るにも、鍛錬を積むにも十分な広さがある。必要なものは最小限でいい。贅沢に囲まれて暮らす趣味はないが、この空気だけは気に入っていた。
さて、そろそろ屋敷に戻るかと顔を上げた、その時だった。裏手の方から、どこか呆れたような声が飛んできた。
「毎朝毎朝、よくもまあ飽きませんねぇ! それ以上鍛えてどうするんです、坊ちゃま。そんなに筋肉ばかりじゃ、お嫁さんが寄りつきませんよ!」
声の主は、俺の乳母上がりの使用人・マチルダだった。五十を過ぎた今も働き者で、口うるさいところは昔から変わらない。俺が伯爵家を出てこの屋敷に移る時も、「坊ちゃまの世話があるから」と当然のような顔でついて来た。
「……朝からうるさいな、マチルダ」
肩を回しながら応じると、彼女は腰に手を当てて歩いてくる。手には洗いたてのタオルと、湯気を立てるカップが乗った木盆を抱えていた。
「世間では、華奢な男性がもてるんですよ。まったく、自ら正反対を行ってどうするんですか」
タオルとカップを手渡され、俺は礼も言わずにそれを受け取る。いつものことだ。
「別に、嫁はいらない。一生独り身でも構わん。兄さんが家を継いでるから、俺が跡継ぎを考える必要もないしな」
「そういう問題じゃありませんよ、坊ちゃま!」
マチルダの声が、きゅっと甲高くなる。
「嫁の一人も迎えられないようじゃ、立派な騎士団長が聞いて呆れます。世間体というものがあるんです!」
「世間体を気にするような性格だったか、俺が?」
「少しは気にしていただかないと困ります!」
マチルダは腰に手を当て、ぐっと背を伸ばして言った。まるで年端もいかぬ子どもを叱るようなその口調に、思わず苦笑が漏れる。
「この立派な屋敷だって、坊ちゃまが辺境での功績を認められて、いただいたものじゃないですか。『いくら武勲があっても、筋肉ばっかりつけて、嫁ひとり迎えられない』なんて、そんな噂が立ったらどうするおつもりです?」
「勝手に噂を立てる方が悪いだろう」
「違いますっ!」
今にもお盆を地面に叩きつけそうな勢いでマチルダが声を張る。
「騎士団長になった今こそ、坊ちゃまは見られる立場なんですよ。王太子殿下のご近侍を務めた頃とは訳が違います」
王太子の護衛をしていたのはもう何年も前の話だ。その後、辺境で軍を率いたあと、王都に戻されて、今は騎士団長。それが、俺──ヴォルフ・グランツのここ十年の歩みだ。
「……まあ、屋敷に訓練場があるのは悪くなかったけどな。広さ以外は」
「誰のせいでそんなに広く必要になったと思ってるんですか」
マチルダは呆れたように言い捨てた。
「さ、さっさと冷める前にお茶でも飲んでください。そうやって汗をかいたままじゃ、風邪を引きますよ」
「鍛えてるから、風邪は引かん」
手に持っていたカップを一口啜る。温かい香りが喉の奥にしみた。
「ええもう、そう言ってる人ほど寝込むんですから。次の風邪の時は看病しませんからね」
ぶつぶつ言いながらも、マチルダは俺の手からタオルを取り返すと、遠慮もなくごしごしと顔をこすってきた。
……まったく、口うるさい乳母である。
ふとマチルダの動きがぎこちなく見えた。しゃがんだ拍子に、小さく「うぅっ」と呻く声まで聞こえる。
「……マチルダ。腰でも痛めたのか?」
「ええ、まあ……坊ちゃまの屋敷が立派すぎるせいですよ。毎朝毎晩、隅々まで掃除してたら、そりゃ腰もやられますとも」
手を腰に当てて、大げさにのけぞってみせる。
「お願いですから、若いメイドをひとり雇ってくださいませんかね。私だってもう五十を過ぎてるんですよ? このままじゃ、背中がくの字になってしまいます」
その言いぐさに少しだけ笑いが漏れた。マチルダは口ではこう言うが、掃除を誰かに任せても、きっと自分でやり直すのが目に見えている。それでも、まあ確かに、この広い邸を一人で掃除するのは大変だろう。
「……ふむ。明日ちょうど、王太子殿下に会う用事がある。良い娘がいないか、紹介してもらうとしようか」
「本当ですか? ああもう、坊ちゃまったら優しい!」
ぱっと顔を明るくしたマチルダが、嬉しそうに手を合わせるのを見て、ヴォルフは心の中で静かにため息をついた。
(紹介してもらえるとして、すぐに来られる若い娘なんて、そうそういるのか……?)