3-4 お忍び視察と、想定外の役回り
眩しいほどの朝陽の下、王城の中庭には朝露をまとった花々が可憐に揺れ、噴水が涼やかな水音を響かせていた。
一行は石畳の小道をゆっくりと進みながら、左右に広がる庭を眺めていく。
「このあたりは、昨年整備を終えたばかりでね。今は薬草を中心に育てているんだ」
「まあ、薬草はどんなものを?」
ユリウス殿下の説明に、アメリア姫は興味深そうに次々と質問を投げかけていた。
(……助かる)
俺は姫の斜め後ろを、一定の距離を保って歩きながら、内心でほっと息をついていた。
視察に付き添う形での護衛任務。だが幸いにも、ユリウス殿下が終始話し相手になってくれているおかげで、俺がアメリア姫と直接言葉を交わす場面はほとんどない。どうやら、外交も兼ねたこの視察では、王太子としての立場をしっかり果たすつもりらしい。
(まあ、昨日のフォローのつもりなんだろうが……)
殿下の柔らかな口調と、姫の花が咲くような笑顔。ぱっと見は、実に和やかな視察風景だ。だが、俺としては、まったく気が抜けなかった。
説明に相槌を打ちながらも、アメリア姫の視線がちらちらと、こちらへ流れてくる。最初は気のせいかと思ったが、二度、三度と同じことが続き、俺は耐えられずに目を逸らした。
(……頼むから、こっちを見ないでくれ)
視線を感じるたび、心拍が妙に跳ねる。いや、誤解のないように言っておくが、やましい気持ちがあるわけじゃない。むしろ、全力で「何もない」のを望んでいる。
(だいたい、一国の王女が──それも視察中に──たかが護衛の動きばかり気にしてたら、変に思われるだろうが……)
周囲には、王城付きの侍女や護衛の騎士たちも控えている。こちらが不用意に視線を返すだけでも、「何かあるのか」と勘ぐられかねない空気だ。
(せめて、視察中くらいは……普通でいてくれ)
そんな俺の願いが通じることは、まあ、たぶんない。
*
午前中の視察は、拍子抜けするほどスムーズに終わった。城の中庭から薬草園、資料館と順調に巡り、アメリア姫も終始上機嫌で、ユリウス殿下の説明に熱心に耳を傾けていた。
そして最後に、広場の噴水前で立ち止まった時だった。
「午後は、王都に出てみたいですわ」
さらりと、アメリア姫が言った。
「できれば、お忍びで。護衛は目立たないよう、ヴォルフ様お一人だけでお願いできたらと思いますの」
場の空気がぴたりと止まる。
「……は?」
あまりに突拍子もない発言に、一瞬、俺の思考も止まった。
「姫、なにを仰って──」
「いや、でも護衛を減らすのは──」
ユリウス殿下とアルベルトが同時に声を上げた。しかしアメリア姫は全く介せず、ためらいのない口調で続けた。
「ご心配はごもっともですわ。でも……わたくしは、今回の親善訪問を『形式』だけで終わらせたくないのです。書面や説明だけではなく、この国に生きる人々の暮らしを、自分の目で、足で、肌で感じてみたい。それが、ほんとうの『視察』ではなくて?」
ユリウス殿下が口をつぐんだ。その隙に、アメリア姫はさらに続ける。
「もちろん、完全なお忍びは無理でしょう。でも、護衛が大勢いては民の姿も歪んで見えてしまいますわ。だから、せめて……信頼できる方お一人だけ、お付きの方としてお連れしたいのです」
その「信頼できる方」に、なぜ俺を選んだのかは考えたくなかったが。
そのとき──
「ふむ。それは実に素晴らしい心がけだな」
沈黙を破ったのは、重厚な低い声だった。思わず振り返ると、いつの間にかそこに立っていたのは、この国の王、レオポルト陛下だった。
「民の姿を知りたいというその志。まことに感服した。……よかろう。姫殿下のご希望、我が国としても最大限協力しよう」
「父上!?」
「陛下、それはさすがに……!」
慌てるユリウス殿下とアルベルトに対し、陛下は朗らかに笑いながら言い切った。
「騎士団長ヴォルフ。姫君を守るのに、貴様ひとりで十分であろう? 我が国の武の象徴なのだからな」
「……は。謹んでお引き受けいたします」
俺はぎこちない笑みを浮かべながら、深く頭を下げる。そのうえで、陛下は念を押すように付け加えた。
「ただし、何があるかわからぬ町中だ。念のため、数名の騎士を私服で配置しておこう。万が一の際はすぐに動けるようにしておく。それでどうだ、アメリア姫?」
「まぁ、それなら安心ですわね。ありがとうございます、陛下」
姫は満足そうに微笑み、俺の横顔をちらりと見た。
(……結局、こうなるのか)
「では、お忍びで外出するにあたり、服装は町娘風に着替えますわね。そして、ヴォルフ様には……わたくしの恋人、という設定でお願いしたいですわ♡」
当然のように言い放たれたその一言に、一瞬、耳を疑った。
(……は?)
ちょっと待て。恋人? 俺が?
「いや、それはまずいだろ!」
突然、ユリウス殿下の声が、鋭く飛んできた。
「こいつは結婚してるんだぞ!?」
その言葉に、アメリア姫は何食わぬ顔で答える。
「ふふ、大丈夫ですわ。あくまで『設定』ですもの。手を繋いだり、少し親しげに話す程度で構いません。……本気で仲睦まじくする必要など、ございませんわ」
(……手を、繋ぐ……?)
背筋にぴしりと妙な緊張が走った。
(いやいや、ちょっと待て。テレーゼ嬢とだって、まだ手を繋いだことなんかないぞ!)
顔に出すまいと必死にこらえるが、頭の中はすでに大混乱だ。そんな俺をよそに、アメリア姫はちらりと視線をよこし、わざとらしく小さく首を傾げる。
「それとも……ヴォルフ様の奥さまは、任務としての『設定』すら我慢できないような、心の狭い方なのかしら?」
ぐっと言葉に詰まった。
(……さすがにテレーゼ嬢は、そこまで子どもじゃない)
ただ──昨夜のことが脳裏に蘇る。俺の腕にぎゅっとしがみついてきた、あの柔らかな感触。揺れるまなざしと、小さく震えた声。
(……いい気は……しないだろうな)
そのとき、ふいに割って入ったのはアルベルトだった。
「お言葉ですが、アメリア殿下。それはさすがに、行き過ぎではありませんか」
静かに、だがはっきりとした声で言う。続いて、ユリウス殿下がため息混じりに言葉を継いだ。
「……姫、外出の『設定』に関しては、なにも『恋人』である必要はないのでは?」
あくまで穏やかに、けれど明らかに異を唱える口調だった。
「例えば、ご親族の付き添い、あるいは兄妹など、他にも方法はあります。どうか、あまり刺激的な設定は避けていただきたい」
その声には、俺の立場を慮る気遣いがにじんでいた。いや、テレーゼ嬢の気持ちを推し量ってのことかもしれない。
場の空気がわずかに変わり、アメリア姫の提案に否定的な空気が、ようやく流れ始めた、その矢先だった。
「ふむ。だが、恋人という設定であれば、自然に傍らで護衛できる。最も理にかなっていると言えるな」
重々しい低音が、空気を断ち切るように響いた。声の主はレオポルト陛下だった。
「民の中に入るならば、何より自然な振る舞いが肝心だ。奥方には……公務としての任務ゆえ、多少は目をつぶってもらうしかあるまい」
そう言って、陛下はちらりとアメリア姫と俺の方へ視線を流す。その目には、どこか底知れぬ思惑が、ほんのわずかに滲んでいた気がした。
「陛下……っ」
ユリウス殿下が必死に反論しようとするが、それよりも早く、陛下はからりと笑ってこう言い放つ。
「任務だ、ユリウス。姫殿下に我が国のことを深く知って貰える良い機会ではないか。騎士団長、しっかり頼むぞ」
「……は。謹んで」
引きつった笑みのまま、俺は再び深く頭を下げるしかなかった。




