3-3 ラベンダーの誘惑
馬車の車輪が、石畳をゴトゴトと規則正しく叩いていく。街路のざわめきも夕暮れの空気に溶け込み、王都はいつも通りの平穏な顔をしていた。だが、俺の内心はそれどころではない。
(……疲れた)
体はまだ動く。けれど、気力だけをどこかに置き忘れてきたように、膝の上に置いた拳が、どうにも頼りなく感じた。
(まあ、あの場から逃げ出さなかっただけ、まだマシか)
ため息をひとつ落として、背もたれにぐったりと体を預けると、脳裏に先ほどの応接室でのやりとりがくっきりと蘇ってくる。
あの宣言──
「なら、まだ間に合いますわね」
隙のない笑顔でアメリア姫が放ったその一言が、空気を凍らせた。場にいた全員が絶句し、誰もが息を飲み、視線をそらした。あの空間を支配していたのは、沈黙という名の地獄だった。
やがてアメリア姫は、まるで何事もなかったかのように言った。
「では、わたくしは少し、お部屋で休ませていただきますわね。ヴォルフ様、明日からよろしくお願いいたしますわ」
優雅な足取りで部屋を後にする姫。残された俺たちは、しばし呆然と立ち尽くしていた。あまりにも色々ありすぎて、誰一人として、すぐには口を開けなかったのだ。
しばらくして、その空気を切り裂いたのは、アルベルトの一言だった。
「お前、レゼに何て言うんだよ」
鋭い視線が、まっすぐ俺に突き刺さる。
(いや、待て。なんで俺が責められてる空気なんだ? あの場で一番の失言をやらかしたのは、どう考えてもユリウス殿下だろ!?)
心の中で叫ぶが、声には出さなかった。今さら責任の所在を問うたところで、状況がどうにかなるわけでもない。
「とりあえず、レゼにはまだ黙っておこう。まだどうなるかわからないし、余計な心配かけさせたくないしな」
ユリウス殿下が肩をすくめると、アルベルトが黙ってうなずいた。俺も、しぶしぶそれに倣った。
「……で。明日から、アメリア姫の護衛、よろしくな? くれぐれも刺激しないように。下手すりゃ国際問題だからな」
殿下は悪びれなく、当然のようにそう告げた。
「まあでも……お前と数日一緒に過ごせば、その無骨さに百年の恋も冷めるかもしれないし? 希望はあるよ、うん」
そう言って俺の肩をぽんぽんと叩く。
(クソっ、他人事だと思って好き放題言いやがって……)
明日から始まる姫の護衛任務。すでに胃のあたりがしくしく痛い。できることなら、明日という日ごと消えてなくなってほしい。
俺はズルズルと椅子に沈み込み、背もたれに体を預けたまま、手で顔を覆う。
(……いや、マジで気が重い)
*
「おかえりなさいませ、ヴォルフ様!」
邸宅の扉をくぐった瞬間、元気いっぱいの声が飛んできた。玄関先に立っていたのは、待ち構えていたかのようなテレーゼ嬢。
(やっぱり今日も待ってたか……)
結婚当初、毎日のようにこうして出迎えられることに、正直なところ居心地の悪さを感じていた。貴族の娘がいちいち玄関に立っているというだけでも異様だし、何より、笑顔がまぶしすぎて直視できなかった。
だが、人間、慣れというのは恐ろしいもので。今では扉を開けたときに彼女の姿がないと、かえって「どうしたんだ」と思ってしまう自分がいる。
いや、だからと言って、出迎えられたからって安心してるとか、癒されてるとか、そういうのじゃ……ない。……ないと思う。たぶん。
けれど、彼女の春の陽だまりのような笑顔を見ると、ほんの少しだけ胸がチクリとした。
(……いやいや、だからなんで俺が罪悪感なんか感じなきゃいけないんだよ)
*
夕食は、いつもどおりルーディの気合いが入った筋肉飯だった。焼き加減完璧のステーキに、たっぷりの豆と野菜。テレーゼ嬢は「今日も最高ですわ!」と目を輝かせている。
それを見ながら、俺は黙々とナイフとフォークを動かしていた。
(……平和だ。非常に平和だ)
だがその「平和」は、唐突に破られる。
「そういえば、ヴォルフ様」
ふいに顔を上げると、何の気なしに、という風にテレーゼ嬢が微笑んだ。
「今日、お会いになった王女様って、どんな方でした?」
──ガシャン。
手が、ほんのわずかに震えた。ナイフの先が皿に当たって、音が響く。
「……っ」
思わず、フォークを握る手に力がこもった。
(な、なんでこのタイミングで……!)
いや、目の前の令嬢は、ただ無垢な興味から尋ねただけのはず、だ。疑っている様子も、探りを入れている風でもない。だが、その純粋さがかえって刺さる。
「ど、どうって……。別に、普通だ。王女らしい方だった」
ごく当たり障りのない言葉を選んで返す。声もできるだけ平静に保ったつもりだ。
だが──
「やっぱりお綺麗でしたか?」
「っ……」
動揺を隠すかのように焦ってナイフを動かすと、皿の上の肉が、静かにきしんだ。
「……ああ。まあ……整った顔立ちの方、だったな」
「そう、ですか」
テレーゼ嬢がふいっと目を逸らす。唇がほんのりと尖っていた。
「お優しそうでした?」
「……そう、かもしれん」
返した瞬間、彼女の表情が意味あり気に動く。
「ヴォルフ様が、他の女性を褒めるのって……なんとなく、嫌ですわ」
小さな声だったが、俺の耳にははっきり届いた。むくれている。目元も口元もほんのり膨らんでいる。
(いや、そっちが聞いたんじゃないか?)
心の中で突っ込みながらも、言葉に詰まる俺。
と、そこへ間髪入れず、マチルダの声が飛んできた。
「テレーゼ様、もしかして王女様のこと気にしてらっしゃるんですか? 大丈夫に決まってますよ。まず無いとは思いますが、仮に坊ちゃんが王女様に見惚れたとしても──」
ずい、と俺のほうに目をやりつつ、マチルダはきっぱりと言い放った。
「この筋肉の塊みたいな坊ちゃんを、王女様が好むなんて、まずないと思いますけどね〜」
「まあっ!」
テレーゼ嬢が目を見開いて立ち上がる。
「ヴォルフ様は素敵ですわ! 王女様だって、きっと……!」
「はいはい。テレーゼ様の目には、坊ちゃんがどう映ってるのか、私にはもう見当もつきませんけどね」
マチルダはわざとらしく肩をすくめながら、にやにやと笑っている。どうにもからかうのが楽しくて仕方ないらしい。
(……まずい。会って早々に長年の想いを告白された、なんて)
俺はちらりと二人のやりとりを見やりながら、胸の内で呻く。
(絶対、言えん)
*
眠れなかった。仕方なく階下へ降り、人気のないキッチンの脇で湯を沸かす。戸棚から適当な茶葉を取り出し、ポットに放り込んだ。
「……こういうのも、久しぶりだな」
思わず漏れた独り言に、辺境での詰所暮らしが頭をよぎる。慣れた手つきでポットとカップをトレイに乗せ、足音を忍ばせて談話室へ向かった。
ほのかな明かりが灯る談話室で、俺はソファに身を沈め、手の中のカップから立ちのぼる湯気をじっと見つめていた。静まり返った夜の空気が、じわじわと胸に沁みる。
明日からの任務が憂鬱すぎる。何度目かわからないため息を吐き、熱い茶をひと口。喉を通る温かさに、わずかに緊張がほどけた、その時だった。
「ヴォルフ様?」
ドアの向こうから、聞き慣れた明るい声がそっと響いた。振り向くと、ナイトドレス姿のテレーゼ嬢が、遠慮がちにドアの隙間から覗き込んでいた。
「眠れなくてお水を飲みに来ましたの。灯りがついていたので覗いてみたら……まあ、なんて幸運でしょう! ヴォルフ様と鉢合わせるなんて♡」
声をひそめてそう言うと、ぱたぱたと足音も軽くこちらに駆け寄ってくる。
「ご一緒してもよろしいかしら?」
「あ、ああ……」
頷いた俺の隣に、テレーゼ嬢が当然のように腰を下ろした。
──近い。
そして……その格好。普段のドレスとはまったく違う、薄くて柔らかなラベンダー色の布地。夜用らしく肩の力が抜けたデザインで、ふわっと広がった裾のすき間から、すらりとした足首が覗く。
髪はゆるく下ろされ、襟元からのぞくうなじには、湯上がりのような体温がほんのりと宿っているようだった。
(な、なんでそんなに無防備なんだ)
見ちゃいけない、と思った瞬間にはもう遅く、慌てて目を逸らした。胸の奥が大きく脈打ったかと思えば、まるで不意を突かれたように、鼓動が一気に跳ね上がる。さらに遠くへ視線を逸らしながら、俺はかすれた声を絞り出した。
「な、何か……その、羽織らなくていいのか……?」
すると、隣から明るい声が返ってくる。
「ヴォルフ様しかいらっしゃらないのですもの。大丈夫ですわ」
そう言って、テレーゼ嬢はくるりと少しだけ身をひねり、裾を両手で広げて見せる。
「このドレス、可愛いでしょう? お気に入りなんですの。肌触りも良くて……ほら、さわっ──」
「い、いや! いい、さわらなくていい!」
思わず手を上げて制してしまう。いや、違う。そうじゃない。俺はただ、目のやり場に困ってるだけだ。この距離、この服、この無防備さ。
(……落ち着け、俺)
理性のブレーキをかけようとすればするほど、逆に意識してしまってどうにもならない。 隣に腰を下ろしたテレーゼ嬢は、ふわりと甘い香りを漂わせながら、首を傾けて俺を見上げる。
「ねえ、ヴォルフ様。街歩きの時のように……また、腕を組んでもよろしいですか?」
(……は?)
時が止まった。喉が詰まり、言葉が出ない。脳みそまで真っ白になって、気づけば心の中で叫んでいた。
(腕を……組む!? その格好で……!?)
「ふふっ、ありがとうございます♡」
俺の沈黙を肯定と受け取ったテレーゼ嬢は、にこにこと笑いながら、遠慮なく腕を絡めてきた。
(ちがうっ! 肯定したわけじゃ……!)
しなやかな腕の感触。ふわっとした髪の香り。柔らかな肌がすぐ隣にある。しかもナイトドレス。薄手の布地越しに、肌のぬくもりが妙にリアルに伝わってきて……。
(ち、ちかいっ……! いや、近いどころじゃない。距離感おかしい……!)
心拍数が更に跳ね上がる。冷静でいようとしても、全然ダメだ。なぜなら、視線を少しでも動かせば、彼女の首筋や、ゆるく開いた胸元が、否応なく目に入るから。
(お、落ち着け……落ち着け俺。これは罠だ。いや違う。罠じゃない。けど無防備すぎる……!)
頭の中は完全にパニックだった。けれど、ふとテレーゼ嬢が目を伏せ、小さく息を吸った。
「……さきほどの、話……なんですけれど」
その声色は、さっきまでの無邪気さとは少し違う。柔らかくて、けれど、まっすぐで──ほんの少しだけ、震えていた。
「冗談ではなくて……わたくし、本気で心配してるんですのよ? ヴォルフ様が、王女様にとられてしまったらどうしようって……」
言いながら、小さな手が俺の腕をぎゅっと強く握る。ふざけた調子ではなかった。……本気だった。どこまでも。
心臓が、また跳ねた。今度は、別の意味で。そして胸がチクリと痛んだ。
(もし、この子が、アメリア姫とのことを知ったら……)
その想像だけで、妙に息が詰まる。
目の前にいるのは、俺をまっすぐ信じて、慕ってくれているこの子で。そして俺は、そんな彼女に何も言えていない。
押し込めていた後ろめたさが、じわじわと重く沈んでいく。




