3-2 恋の伏兵、現る
「い、いや……その……」
思わず言葉を濁す。気品に満ちた姫の前で、こんなにも動揺を隠せない自分に、わずかに苛立ちを覚えた。だが、それほどまでにアメリア姫の言葉は──俺にとって青天の霹靂だった。
(待て……俺、隣国の姫殿下と会ったことなんて……あったか?)
(いや、ない。ないはずだ。何度かちらっと顔を見たことはあるが……。もし仮に顔を合わせていたとしても、覚えているかなんて聞かれるほどのやり取りは、絶対していない)
どう考えても、記憶に心当たりはなかった。
「おや……アメリア殿下は、我が国の騎士団長とお知り合いでしたか?」
沈黙を破ったのは、ユリウス殿下の声音だった。微笑をたたえた口調は、あくまでも無邪気な関心を装っている。いや、装っているつもりらしい。だがその目の奥には、どう見ても「俺、二人の関係に興味津々です!」と書いてある。
(……ちっ、この浮かれ王太子が)
そんなユリウス殿下の思惑を知ってか知らずか、アメリア姫はパッと花が咲くように表情を明るくすると、ほんの少し頬を染めながら、嬉しそうに頷く。
「ええ、昔のことです。わたくしがまだ、七つか八つの頃でしたわ。この国を訪れていた折、こっそり王都の市へ遊びに出かけて……そのとき、侍女とはぐれてしまって、一人ぼっちになってしまったのです」
姫はふっと目を伏せ、まるで懐かしい夢をたどるように語り続けた。
「野犬に怯えていたわたくしを助けてくださったのが、こちらの、ヴォルフ様でした。強くて、静かで、とても優しかった。腰に携えていたナイフの紋章、今でもはっきり覚えておりますわ」
そして、ほんのわずかに、照れたように微笑む。
「助けていただいたあと……あなたは、クリームパンをくださいました」
アメリア姫は、そっと目を細める。それがどれほど大切な記憶であるか、言葉にせずとも伝わってくるようだった。
「ふわふわで、とても甘くて……それからわたくし、クリームパンが大好きになりましたのよ」
姫がうっとりと語り終えると、室内にしんとした静寂が落ちた。
(……十年以上前。野犬。クリームパン)
その言葉が、遠い記憶の底に沈んでいた何かを、ゆっくりと浮かび上がらせる。
(たしかに、そんなことがあったような……)
まだ若かった頃のことだ。王都に立ち寄った折、小さな女の子が泣いているのを見かけた。野犬に怯えていたようで、俺はとっさに追い払って……あまりにも泣き止まないから、手にしていたクリームパンを、なかば勢いで渡したのを覚えている。
(まさか……あの子がアメリア姫だったのか?)
目の前にいる姫とは、どうにも結びつかない。だが、十年も経てば子どもの面影などいくらでも変わるものだ。ましてや相手は女性だ。なおさらだろう。
「……あの時の……」
俺がわずかに頷くと、姫の顔は喜びが弾けるように明るんだ。
「ええっ!」
アメリア姫が喜色を帯びた声をあげる。
「やはり覚えていてくださったのですね、ヴォルフ様!」
その頬は紅潮し、目元にはほんのりと光が滲んでいた。そして姫は感極まったように小さく息をのむと、まっすぐ俺を見つめ、凛とした声で言い放った。
「ヴォルフ様。あの時から……わたくしは、ずっと、あなたをお慕いしておりました!」
堂々たる宣言だった。その気高さはまるで、恋すらも政略のひとつと見なされる宮廷の中にあって、ただ一人、真実の想いを差し出す者のように。
(…………は?)
空気が凍った。いつも飄々としているユリウス殿下も、冷静なアルベルトも、もちろん俺も──誰一人として声が出せなかった。
極寒の空気の中で、ただ一人、アメリア姫だけが、うっとりと俺を見つめている。
「ちょ、ちょ、ちょっと待っ──」
ハッと我に返ったユリウス殿下が慌てて腰を浮かせる。しかしその言葉を手のひらでピシッと遮ると、アメリア姫は毅然とした声で言い切った。
「わかっております!」
ぱっと顔を上げたアメリア姫の声音には、揺るぎない熱が宿っている。
「わたくしが王女である以上、立場も、国同士の関係もあります。けれど……それでもなお、どうしても! この想いを伝えたかったのです!」
あまりの気迫に、半ば立ちかけていたユリウス殿下が、またストンとソファに腰を戻した。けれど、まだ言い足りないと言わんばかりに、姫は続ける。
「身分差など、わたくしは気にしませんわ!」
そう言って、姫は俺の腰にあるナイフを指差した。
「ヴォルフ様のそのお腰のナイフ……家紋が刻まれておりますわよね? つまり、ヴォルフ様も貴族なのでしょう? でしたら、何の問題もございませんわ!」
誇らしげに言い切った姫の笑顔は、まるで長年の片想いがようやく報われたとでも言わんばかりだった。
(いや、問題しかないだろ……)
俺は無言で固まる。ユリウス殿下も口を半開きにして絶句しているし、アルベルトにいたっては、表情こそ変わらないものの、瞬きの回数が明らかにおかしい。
ややあって、ユリウス殿下が恐る恐る手を挙げた。
「……あー、アメリア殿下。その……たいへん言いづらいのだけど……」
姫が小首を傾げる。その瞳には、まだ微塵も疑いの色がなかった。
「……こいつ、結婚してるんだよね。つい最近。ちょうど一ヶ月くらいかな? つまり……その……新婚ほやほや?」
言葉を濁しながらも、ユリウス殿下はなんとか伝えきった。
「しかも、相手はうちの侯爵令嬢で……ほら、こいつ、アルベルトの妹の……テレーゼ嬢と、ね?」
その言葉が出た瞬間、アルベルトがギクリと肩を跳ねさせた。そして、まるで「巻き込むなよ!」と言わんばかりに、ぎこちない笑みを貼りつけながら視線をそらす。その額には、普段見せないような薄い汗がにじんでいた。
そんな様子にも気づいていないのか、それとも気づいた上でのことか、アメリア姫は微笑みの余韻を保ったまま、静かに視線を動かしていく。
まずアルベルトへ。次にユリウス殿下。そして、最後に俺。そのまま、柔らかな声でひとこと。
「……ご結婚?」
たしかにそう問いかけたかと思えば、すぐに微笑みをたたえたまま、表情をぴたりと引き締める。視線はまっすぐ、俺に向けられていた。
「……おふたりは、愛し合って結婚なさったのですか?」
その一言が、まるで部屋の空気ごと凍らせたようだった。
「あ、いや……その……」
思わず言葉に詰まる。なにせ、こちらとしても未だに整理がついていない結婚である。どう答えるのが正解なのか、俺自身にもわからない。
助けを求めるようにユリウス殿下の方を見たのは、俺だけではなかったようだ。アメリア姫の視線もまた、すうっとユリウス殿下へと向かっていた。それはまるで、「では、あなたが答えてくださいませ」とでも言いたげな、静かで鋭い視線だった。
ユリウス殿下はビクリと肩をすくめ、椅子に座ったまま身じろぎする。
「いや……あー……その……まあ、若干……勘違いが重なった結果というか……?」
気まずさ全開の声色だった。こうして改めて聞くと、我ながらひどい状況である。そのユリウス殿下の苦しい説明が終わった直後、
「……勘違い?」
アメリア姫がピクリと眉を動かす。先ほどまでの柔らかな笑みはそのままだが、声だけがひどく冷えていた。
そして、まっすぐに俺を見据えると──
「なるほど。つまり、愛はないのですね」
静かな言葉だが、その破壊力は凄まじい。その瞬間、俺の中で鐘が鳴った。
(……あ、これ、完全に答え方間違えたやつだな)
同時に、アルベルトが「おいそれはマズいぞ」みたいな顔でユリウス殿下に肘鉄を喰らわせている。静まり返る室内に、ユリウス殿下の慌てた声が響いた。
「……あっ、あーっ! 勘違いというか、いや、あの、その、そうじゃなくて……!」
しどろもどろの言い訳は、もはや誰の耳にも届かない。すでに場の空気は決定的だった。アメリア姫が、俺を見てにっこりと微笑む。それはまるで、すべてを理解し、すべてを受け入れた者の顔だった。
「勘違いでご結婚。しかもまだ結婚して一ヶ月。なら……まだ間に合いますわね」
(……いや、「間に合う」って、何がだ)
ひんやりとした笑顔で宣戦布告された俺は、もう返す言葉もなかった。
テレーゼ嬢にこのことが知られたら……。いや、それ以前に、この場の空気がどう収拾するのかも、まったく見当がつかない。
(俺の結婚が……いよいよとんでもない方向に転がってきた気がする)




