3-1 わたくしを、覚えていますか?
ヴォルフ様の屋敷で迎える朝は、凛とした空気の中にもどこか温かさがあって、とても心地よい。
食堂のテーブルには、今日もルーディさんが用意してくれた朝食が美しく並べられ、香草の香りがほんのりと鼻をくすぐる。パンもスープも、湯気まで完璧な温度。
(……なんと言っても、向かいにヴォルフ様がいらっしゃいますし♡)
ヴォルフ様はたいてい、新聞や書類に目を落としたまま、黙々と食事をとられている。だからこそ──私は心ゆくまで、こっそりとお姿を堪能できるというものですわ。
(うふふっ。今朝はシャツの袖口から、上腕の筋肉がちらっと。ええ、わかってます。そこを見ろという神の啓示ですわねっ)
「テレーゼ様、パンも召し上がってくださいね。今日は全粒粉の香ばしいやつにしてありますよ」
ルーディさんが自信満々にパン籠を差し出してくれる。どっしりとした香ばしい生地に、ほのかに甘いバターの香り。さすがルーディさん。筋肉とお通じの両方に効きそうな、理想のパンですわね。
「ありがとうございます。とってもいい香り! いただきますわ」
パンをちぎって口に運んだところで、ヴォルフ様がふと顔を上げ、こちらに視線を留めた。
「今日から、隣国の親善使節団が王都入りする」
その一言に、食卓にいた皆が「おや」と視線を向ける。ヴォルフ様が朝の席で自ら話題を切り出されるなんて、珍しいことだった。
「姫も同行しているそうだ。俺も何度かしか拝見したことはないが、たしか……テレーゼ嬢と同じくらいの年齢だったはずだ。俺は、その案内と警護を任されている」
「まあ……姫殿下がいらっしゃるのですか」
私はパンを手にしたまま、思わず小さく息を呑んだ。
(お姫様のご訪問……それはまた華やかですわね)
「しばらくは朝早く出るし、邸に戻るのも遅くなるかもしれない。日中も外に出ずっぱりになる」
「それは大変ですわね。どうかご無理はなさらないでくださいませ。けれど……そんな大役を任されるなんて、さすがはヴォルフ様ですわ」
私は尊敬を込めたひたむきな眼差しで、ヴォルフ様をじっと見つめる。一瞬、ヴォルフ様の視線がぐっと止まった気がしたが、すぐに顔をそむけると、そっけなく言い捨てた。
「……仕事だからな。別に、大したことじゃない」
けれど、耳の先にうっすら赤みが差しているのを、私は見逃さなかった。
*
王宮の謁見の間には、張りつめた静寂が流れていた。
絹張りの赤い絨毯の上を、数人の使節団が整列しながら進む。その中央で、ひときわ目を引く姿で歩いてくるのが──アメリア王女だ。
白を基調としたドレスには、淡く光を返す精緻な刺繍が施されており、華美ではないのに、一歩踏み出すごとに気品がにじむ。ゆるやかに編み込まれた金の髪が背に流れ、光を受けてさらりと揺れた。
切れ長の瞳はまっすぐ前を見据え、表情には揺るぎない意志が宿っている。その姿には、若さよりもむしろ凛とした威厳が際立っていた。
やがて彼女は歩みを止め、玉座の前で裾を揃えて一礼した。
「リュクスハルト王国より参りました。アメリア・ルシア・フォン・リュクスハルト、本日は貴国のご厚意に心より感謝申し上げます」
玉座に座る王は、わずかに頷き返す。続けて形式的な挨拶を交わし、王女の受け入れが宣言される。
(……なるほど。美しいとは聞いていたが、確かに噂通りの人物だ)
その立ち居振る舞い、礼節の一挙一動までが洗練されている。美しい、とは思う。だがそれ以上でも、それ以下でもない。
(テレーゼ嬢の方が、よっぽど……)
思考がそこまで進んだ瞬間、自分で自分に驚き、慌てて打ち消した。
(いや、考えるな。ここは謁見の間だ)
俺は姿勢を正し、視線を玉座へ戻す。騎士団長として余計な感情を差し挟む場ではない。
使節団の挨拶は滞りなく終わり、式典としての流れが静かに締められていく。アメリア姫はもう一度深く礼をし、王宮の厳粛な空気にすっと溶け込んだ。
俺は、ただ無言のまま、その姿を見届けていた。
*
「いや〜、アメリア姫。相変わらず綺麗だったねぇ」
応接室のソファにふんぞり返るユリウス殿下の声が、のんびりと部屋に響いた。謁見の間の張りつめた空気とは打って変わって、ここには気の抜けた和やかさが漂っている。俺はその一角、壁際の決まりきった定位置に立ち、目立たぬよう控えていた。
「目元のあの冷たい感じ? ああいうのが好きな男も多いけど……俺はちょっと苦手かな。喋ってて緊張するんだよね、あの姫」
「ユリウス様……あなたは基本的に、誰と話すときも緊張なんてしていないでしょう」
隣に座るアルベルトが、半目になり、呆れた息を長く吐いた
「いやいや。さすがに今日は緊張したよ? ちゃんと大人しく王太子してたでしょ? ね、ヴォルフ?」
「……まあ、いつもよりは」
そう答えた俺に、ユリウス殿下は満足そうにうなずいた。
「だよね。というか、あの姫ってさ……完璧すぎるというか、隙がないというか。ま、ヴォルフには無縁なタイプだよね」
「…………」
「あ、褒め言葉ね? 褒め言葉。筋肉と不器用の化身、みたいな君とはちょっと相性が悪そうって話。ま、その方がレゼが余計な心配しなくていいけどね〜」
「……くだらない冗談は、お控えください」
そう返した俺の視線の先で、使用人が気配を忍ばせるように扉を開いた。
「アメリア・ルシア・フォン・リュクスハルト殿下、お見えです」
部屋の空気がわずかに引き締まる。現れたのは、先ほどの謁見の間でもひときわ存在感を放っていた王女だった。変わらず整えられた金の髪。姿勢は凛と伸び、ドレスの裾が絨毯の上を音もなく滑っていく。
「お待たせしました。ご案内いただき、ありがとうございます」
落ち着いた声でそう言い、アメリア姫は一礼する。その所作は、まるで舞の一幕のように優雅だった。
「姫、ようこそ王都へ。今日はゆっくりとお過ごしください。部屋の準備も整っていますので、まずはお茶でも」
ユリウス殿下がいつもの調子で微笑みながら立ち上がる。だが、その声色にはわずかに、王太子らしい格式が含まれていた。
(さっきまでソファにふんぞり返ってた男とは思えないな)
俺が内心呆れながら眺めていると、ユリウス殿下がふいに俺の方へ視線を向ける。
「それと、今回のご滞在中、姫の護衛を務めるのが、我が騎士団の団長──ヴォルフ・グランツです」
俺は軽く一礼した。
「……ヴォルフ・グランツ様」
小さく名を呟いた姫の視線が、ふと俺の腰元で止まった。次の瞬間、息を呑むようにはっとして口元へ手をあてる。その指先までも震え、淡い瞳には信じがたいものを前にしたような光が揺れていた。
(……なんだ?)
俺は眉をひそめる。アメリア姫は一瞬だけ迷うような仕草を見せたが、やがて決意を固めたように静かに歩み寄ってきた。まっすぐこちらを射抜く瞳には、かすかに涙の光すら滲んでいる。
「──あの、ヴォルフ・グランツ様。わたくしのことを……覚えていらっしゃいますか?」
(は? 何の話だ?)
俺は、姫の言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、姫のまなざしに込められた確かな期待だけは、ひしひしと伝わってきた。




