2-3 触れ合いNG? ではお隣に♡
応接室の中は、しんとした夜の静けさに包まれていた。テーブルにはハロルドさんが用意してくれた紅茶のカップが二つ。ふんわりと湯気を立てている。
私はその香りを楽しみながら、ソファに腰を下ろしていた。向かいの席では、ヴォルフ様が所在なげに腕を組み、困り顔で視線を泳がせている。どこか落ち着かない様子で、椅子に浅く腰かけたまま、紅茶にはまったく手をつけていなかった。
「それで……ヴォルフ様。お話というのは?」
そう問いかけると、彼は「うっ」と短く喉を詰まらせる。そして、「コホン」と小さくひとつ咳払いをすると、覚悟を決めたように口を開いた。
「……その、俺たちは……ちゃんと話しておくべきだと思って……その、いろいろと」
開口一番、やけに歯切れの悪い声が響く。あからさまに目を逸らし、「できればこの話はしたくなかった」オーラを全身から出している。
「ユリウス殿下は『結婚を継続しろ』と仰った。ただ、それは……君次第なんだ」
そこでヴォルフ様は、ぱっと顔を上げた。どこか縋るようなまなざしで、これが最後の頼みですと言わんばかりの勢いで続ける。
「だから……その、君が『やっぱりやめます』って言ってくれれば……すべて丸く収まるんじゃないかと……!」
あら……やっぱり、ヴォルフ様は、まだ納得していらっしゃらなかったのですね。でも、それは困りますわ。わたくし、もうすっかりその気になってしまっていますの。
「ヴォルフ様」
そっと名前を呼ぶと、ヴォルフ様がびくりと肩を震わせた。
「昨日も申し上げましたけれど、私はこのまま結婚を継続したいと思っておりますわ」
私がきっぱりと言い切った瞬間、
「マジか……」
ヴォルフ様は、がっくりと肩を落として項垂れた。だがすぐに顔を上げ、
「で、でも……だって俺たち、ほら、お互いのこと何にも知らないし! 急すぎるだろ!? な?」
あせあせと手をバタつかせながら、さらに必死に言い訳を並べる。
「あら」
私はきょとんとした顔でヴォルフ様を見つめた。それから、両手を頬にあてて、ぽっと照れながら、うっとりした声で告げる。
「急なんてとんでもないですわ。昨日ヴォルフ様を見て……ビビッときてしまいましたもの♡」
「ビ、ビビッと……!?」
ヴォルフ様はぎょっと目を見開いたまま、まるで逃げ場を無くした小動物のように、じりじりとソファの背もたれへ押しやられていく。
「ええ♡」
私がにっこりと頷いてみせると、彼は盛大にため息をついて、ぼふん、と音を立ててソファに沈み込んだ。
その姿を見ながら、私は小さく口を尖らせる。突然の結婚に戸惑うのは当然だとしても、そこまで嫌がられると、さすがにちょっと胸がちくりとしますわ……?
(貴族の結婚なんて、そもそも形から始まるのが当たり前ですのに)
心の中で、ほんの少しだけむくれながら、それでも、聞かずにはいられなかった。
「ヴォルフ様は、私と結婚するのが嫌ですの?」
静かに問いかけると、ヴォルフ様が「うっ」と息を詰まらせ、あわてたように身を起こした。
「あ、いや……君と結婚するのが嫌ってわけじゃない。ただ俺は、そもそも誰とも結婚するつもりがなかったんだ」
私の様子に気づいたのか、いつになく早口で言い訳のように続ける。
「なぜ、結婚するつもりがなかったのです?」
小首を傾げて尋ねると、今度はヴォルフ様が、いじけたように眉をひそめた。
「そっ、それは……俺はもともと、れ、恋愛とかよくわからんし……こんな身体だし、これまで誰かに好意を持たれるなんてこと、なかったし……」
モゴモゴと唇を動かすヴォルフ様は、どこか気まずそうで、視線は泳ぎっぱなしだった。
だけど——
「まあっ! それなら問題ありませんわ!」
私は胸の前でパチンと手を合わせ、笑顔を弾けさせる。
「……は?」
「私は、ヴォルフ様のそのお体が、ものすっごく素敵だと思っておりますもの! 筋肉も骨格もすべて好感しかございませんっ!」
「……」
「つまり、もうすでに好意を持っているので……解決、ではなくて?」
にこにこと胸を張る私に、ヴォルフ様は完全に沈黙した。口を開けたまま石像のように固まって、わなわなと唇を震わせる。
「……お、お前……ほんとに……なんなんだ……」
ぼそりと呟いたその頬にはほんのり赤みが刺し、情けなく引き攣っている。
「……もう知らん……っ! 好きにしろっ!」
頭を抱えてうずくまるその姿は、なんだかふてくされた少年のようで、とても、騎士団の精鋭たちをまとめあげる団長様には見えなかった。
だけど、次の瞬間。
「で、でもっ!!」
ヴォルフ様がガバッと上体を起こして、必死の形相でこちらに指を突きつけてきた。
「寝室は別だ!! いいな!? それから……ふ、触れ合いとか、そういうのも!! なしだっ!!」
「……?」
「そ、そういうのはっ……お互いの気持ちが……ちゃんと通じてからじゃないとダメだからなっ!!」
最後の一言を言い切る頃には、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
私は思わず満面の笑みで、ヴォルフ様をじっと見つめてしまう。だって、それってつまり希望があるということですもの!
「まあ♡ お互いの気持ちが通じれば……よろしいのですのね?」
「や、やめろその顔っ!! そういう意味じゃっ……くそぉ……っ!」
ぐしゃぐしゃになって頭をかきむしるヴォルフ様が、今日もまた、とても可愛らしく見える。
「ちなみに、ヴォルフ様のおっしゃる触れ合いとは、どこからが含まれるのです?」
「なっ……!」
「キスは?」
瞬時にヴォルフ様の顔が赤くなり、のけぞるように身を引いた。
「キッ……!? ダメに決まってるだろうがっ!!」
「では、抱き合うのは?」
両手をばっと前に突き出して、必死の形相で全力拒否。
「ダメだっ! ダメだったらダメだっ!!」
「じゃあ……手を繋ぐのは?」
目を泳がせながら、身をよじるようにして座り直す。
「い、いかんっ!! それもまだ早いっ!!」
ぴしゃぴしゃと連打のように否定されて、私はほんの少しだけ、ぷくっと頬を膨らませる。
「……では、お隣に座るのは?」
ちょっぴり拗ねた声で尋ねると、ヴォルフ様はものすごく真面目な顔で考え込んだあと、
「……そ、それくらいなら……」
「ではっ♡」
私は嬉しそうに声を弾ませて、すっと立ち上がると、ためらいなく彼の隣へ——ぽすん、と軽やかに腰を下ろした。
「ふふっ。ヴォルフ様ったら、お隣に並ぶとやっぱり大きいですわね」
「…………」
隣で、ヴォルフ様は真っ赤な顔のまま、氷漬けにされたみたいにピタリと動かなくなっていた。
*
(……なんでだ)
ほんのさっきまで向かい合っていた彼女が、今はすぐ隣にいる。彼女との距離は、手を伸ばせば届くほど近い。いや、届くとかじゃない。もう、ほぼくっついてる。物理的に。
視界の端に、揺れるプラチナブロンドの髪が入り込む。ふわっと甘い香りが鼻をかすめて、思わず背筋が固まった。
(ま、待て……近い……っ)
ちら、と視線だけ向ければ、隣の彼女は顔いっぱいに笑みを広げて、ちょこんと座っている。その横顔は明るくて、柔らかくて、どこまでも無邪気で。
(細い……ちっちゃい……か、かわ……)
気づけば息が浅くなっていた。心臓の鼓動が、妙にうるさい。戦場で敵兵と斬り結ぶ時の何倍も緊張している。
(……くそっ……俺は……何をしてるんだ……)
手を握るわけでもない。ましてや触れているわけでもない。なのに、隣に座られただけで、こんなにも動揺するなんて。
ヴォルフ・グランツ、騎士団長。身長190センチ、筋肉質。ただいま、人生最大のパニック中。
(……これが……結婚生活ってやつなのか……?)
俺は静かに、深く、深く……ソファに沈んだ。




