プロローグ
王都の大通りに面した、小さな石畳の広場。
お付きの侍女が向かいの店へと買い物に出ているあいだ、私は一人、木陰のベンチに腰かけていた。退屈するかと思っていたけれど、目の前に広がる光景は、まるで絵本の中に飛び込んだようで、胸の奥がそわそわと浮き立った。
焼きたてのパンや菓子を積んだ荷車が通り過ぎるたび、ふんわりと甘い香りが鼻先をくすぐる。
花束を抱えたお姉さんのスカートが風にふくらみ、彼女が恥ずかしそうにそれを押さえる姿に、思わず微笑んだ。
鳩を追いかけて笑い声をあげる子どもたち。陽の光を浴びて鎧をきらめかせながら、談笑しつつ行き過ぎる兵士たち。見慣れない景色に、いつしか心はすっかり奪われていた。
たぶん私の目は、これ以上ないくらいキラキラしていたと思う。嬉しくて、楽しくて、思わずクスッと小さく笑った、ちょうどその時だった。
夢中で通りを眺めていた私の視界に、ふいに違和感が入り込む。
そこにいたのは一匹の野犬だった。
(いつの間にこんな近くに?)
細く尖った目がこちらをじっと見つめ、口元からは荒い息が漏れている。低く唸るような音とともに、一歩、また一歩と距離を詰めてきていた。足元を狙っているのか、それとも怯えているのか。どちらにしても、危険な気配ははっきりと感じ取れた。
喉がひゅっと鳴り、背筋が凍る。
(どうしよう……! 侍女はまだ戻ってこないし……!)
心臓の音が耳の奥で鳴り響く中、私はじっと動かず、息をひそめて座り続けた。
けれど、ついに限界がきて、私はベンチから飛び上がり、思わず逃げ出してしまった。
人通りの多い通りから、細い路地へ、さらにその奥へ。ただ怖くて、ひたすら走った。
「──きゃっ!」
角を曲がった瞬間、足を滑らせて転んだ。冷たい石畳に膝を打ちつけ、咄嗟に手をついたけれど、衝撃で目の前がぐらぐらと揺れる。
汚れたドレスの裾。じんじんと痛む膝。そして目の前には、さっきの野犬。
私の喉が、またひゅっと鳴る。
(もう無理……逃げられない)
泣きそうだった。いや、もうとっくに涙は頬を伝っていたかもしれない。
「だれ……か」
声にならない叫びを絞り出しかけたその時。
「動くな」
鋭く、短い声が空気を裂いた。
次の瞬間、ぐっと腕を引かれ、私は何か大きなものの影に包まれる。力強くて、温かい背中。その広い背中越しに伝わる、低くて張り詰めた気配。
青年は何かを言った気がするけれど、よく覚えていない。私はただただ怖くて、彼の後ろでぎゅっと目を瞑っていた。鼓動の音ばかりが耳の奥で響いて、他の音はよく聞こえなかった。
やがて、足音と一緒に野犬が走り去る気配がする。
私はそっと目を開け、目の前の背中を見上げた。
「……大丈夫か? 親や付き人はいないのか?」
低く落ち着いた声とともに、青年が振り返る。
その顔が近づいた瞬間、安心が一気に胸に広がって、張り詰めていた何かがふっとほどけた。私は言葉も出せず、ただポロポロと涙をこぼした。
青年はしばらく困ったように私を見つめていたが、やがて持っていた紙袋をがさごそとあさると、その中から何かを取り出した。そして、戸惑う暇もなく、それを、むぎゅっと私の口に押し込む。
「……ほら。泣くな。これ食っていいから」
口の中に、ふわっと甘い香りが広がった。
もっちりとした生地の中に、やさしいカスタードの味。
その甘さが胸に染み込んで、張りつめていたものが一気にほどけていく。
「……クリームパン。うまいだろ? お気に入りの店のなんだ」
私はただ、こくりと頷いた。声は出せなかったけれど、心の中は「ありがとう」でいっぱいだった。
そこへ──遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきた。慌てたような、泣きそうな声。侍女が私を探しているのだとすぐにわかった。
青年はふっと視線を上げ、その声の方を一瞥すると、何も言わずに立ち上がった。そして、私の頭をぽんと優しくひと撫でしてから、くるりと背を向ける。
そのまま、陽だまりの路地を静かに歩き去っていく姿を、私は食べかけのクリームパンを握ったまま、ずっと見つめていた。