お富士さんのおいしい水
2025年7月5日、僕は夜の高速道路に仕事で車を走らせていた。
富士山の裾野──辺りはやけに真っ暗で、他に車はなぜか1台も走っていなくて、あるはずの富士山の姿もまったく見えなかった。
僕は車を運転しながら大量に水を飲む。
トイレが近くなるのはわかっているが、血液に水分が不足するとヤバい病気を患っているのだ。
今日もコンビニで2リットルのペットボトルを買った。『富士山のおいしい水』だ。初めて購入する商品だった。
一口飲んで、声が出た。
「なんか……変わった味のする水だな」
なんだか独特な味がする。温かみがあると言うか、人情味を感じると言うか、そんな不思議な味だ。
「だって私のお水だもの」
女性のそんな声が、誰もいないはずの後部座席から聞こえて、危うく壁に突っ込むところだった。
振り向くと、至近距離に白い女性の顔があった。白い和服の似合う、ちょっと逞しい感じの、昭和っぽいひとだった。年齢不詳だ。口から「ハアぁ……」と、なんだか冷たい息を吐いている。
「だ……、誰?」
僕が聞くと、無表情に答える。
「私、お富士さん」
「お富士さん?」
「そうよ。そしてあなたは今、私のお水を飲んでるの」
いや……。僕が飲んでるのは『富士山のおいしい水』だったはずだが──
よく見ると、ラベルに書かれた商品名は『お富士さんのおいしい水』だった、確かに。
僕は、お富士さんに聞いた。
「……で?」
「『で?』って何よ。失礼ね」
不機嫌にさせてしまった。
いや、表情がないのでよくわからないが、不機嫌にさせてしまったような雰囲気があった。
取り繕おうと、単刀直入に聞いてみた。
「この水を飲むと祟られるとか……、これはそういう話なんですか?」
「やーね。祟らないわよ。私のお水をそんなに美味しそうに飲んでくれてる方のことを」
「はい。美味しいです」
「でしょう? だって私のお水だもの。美味しくぜんぶ飲んで」
ちょっと嫌な予感がして、聞いてみた。
「……もしかしてこれって、あなたの体液とか──そういうやつですか?」
「そうかもね」
「そうかもねって……」
「私の体って、100%水分なの。だからそのお水は私自身なのよ」
ハアぁ……と冷たい息を吐きながら、じっとりと熱い視線を向けてくる。
僕は返す言葉に困って、つい、また失礼なことを聞いてしまった。
「つまり……幽霊って、アレなんですか? 霧みたいなものなんですか、正体は? ハハハ」
すると高速道路の路面が、さあっと白くなった。
まるで白い蛾が大量に路面に死んでいるような雰囲気に、僕の背筋が冷たくなった。
よく見たら、お富士さんが僕の背中にそっと手で触れていた。
「つ、冷たいです」
文句に聞こえてしまわないよう、気をつけてそう言った。
「冷たくなんかしないわよ」
耳元に冷たい唇が接近する。
「ねぇ、ぜんぶ飲んで?」
「ぜんぶ? 2リットルを一気飲みで?」
「ぜんぶ飲んでくれないとあなたに取り憑いちゃうから」
「それは……なんか……いやだな」
声が近く、おおきくなった。
「いやなの?」
「いやです。僕はまだ、生きていたいから」
するとお富士さんの気配が消えた。
振り向くと、いつもの暗い車内がそこにあって、誰もいなくなっていた。
僕はペットボトルを持ち上げ、お富士さんのおいしい水を飲んだ。
おいしい……。
生きてるって感じの味がする。
うっすらと夜が明けはじめていた。
裾野を走る僕の目の前に、富士山の輪郭が、ぼんやりとその雄大な姿を現しはじめていた。