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人のため、のようで

「本日のテーマは、“会社の利益”についてです」


ホワイトボードに、太字で書かれた式が現れる。


 売上 − 経費 = 利益


講師の言葉が、淡々と研修室に響いた。


「売上から、経費を引いた残りが利益です。経費の中には、仕入れ代や光熱費、家賃、そして……皆さんの給料も含まれています」


その瞬間、隣から微かな息をのむ音が聞こえた。美羽がちらりと目をやると、美鈴がペンを止めて固まっていた。


「給料も、経費……ってことはさ」

美鈴がつぶやく。


「私たち、自分で稼げるようにならないと、足手まといってこと?」

ちょっとふざけた口調だけど、その目は真剣だった。


「まあ、そういうことだよな」

譲が腕を組んでぼそりとつぶやいた。


「でも、それって結構プレッシャーじゃない? まだ何もわかってないのに…」

美羽も言いながら、自分の手帳に目を落とした。給料日が書かれている日付が、妙に重く感じる。


講師が続ける。


「この“利益”があるから、会社は設備を買い替えたり、新しい挑戦ができる。未来のために“投資”ができるんです」


静かな空気の中で、美羽の心にひとつの言葉が残った。


(私は、ちゃんと“利益”を生み出せる人になれるのかな)


そんな思いを抱えたまま、研修は続いていく。


「でもさ」

小さな声で譲が言った。


「最初から完璧じゃなくても、ちゃんとやろうと思ってるなら、それで十分なんじゃないか」


美羽と美鈴が、ふっと顔を見合わせる。


窓の外には、やわらかな春の光。

社会人としての一歩を踏み出した三人の肩に、静かに降り注いでいた。


バスを降りた美羽は、少し肌寒くなってきた夕暮れの道を市民センターへと歩いた。

週に一度の「太陽の会」の定例会。先週入会したばかりの美羽にとって、まだこの場所は“参加している”というより“参加させてもらっている”という感覚のほうが強い。


会議室のドアを開けると、既に6人ほどが長机を囲んで座っていた。

テーブルには印刷された資料と、差し入れのお菓子、マイボトルの温かい飲み物。

ざわざわとした声が、少しずつ整理されていく中、中村部長の声が会議を始めた。


「では、来月の地域ふれあいイベントについて、今日から具体的な担当決めをしていきましょう」


「まず受付だけど、どうしましょう? 去年は白石さんと私でやったけど…」


「今年もやるわよ。慣れてるし。誰かがやらないとね、そういうの」

白石さんが手を挙げる。さらっと言ったその言葉の中に、“私がまたやるのよ”という空気が漂う。


「さすが〜、白石さんに任せれば安心ですね〜」

と、新聞係の松岡さんが拍手まじりに言う。


「じゃあ、案内の係は私やります。ほんとは人前に出るの苦手なんだけど、こういうときって、“人のため”って思えば、頑張れるもんですよね」

若干芝居がかった口調で、石田さんが微笑む。


「ほんと、それ! 見返り求めずにできる人がいてくれるって、活動の質に関わるわよね」

白石さんがうなずく。


「配布物の準備、私が印刷しておきましょうか? 昼休みにコンビニで少しずつ刷れば、たぶんなんとか」

と、主婦の中沢さんが控えめに言う。


「え〜、それめっちゃ大変じゃない? 無理しないでよ?」

「ううん、“できる人がやる”ってのが、やっぱりスムーズだから。私、こういうの苦じゃないのよ」

中沢さんは、ほんのり得意そうに笑った。


(……“やってあげてる”って、なんでこんなにアピールされるんだろう)


美羽は資料をめくりながら、心の中にモヤモヤを感じていた。


「あと、ボランティア募集のチラシ、知り合いの店に置いてもらおうと思ってるの。

“私の顔が利く”ところなら、ちゃんと置いてもらえるから」

石田さんが言うと、白石さんがすかさずかぶせる。


「それすごく助かる〜!でも、チラシの内容、誤字脱字ないか確認しておきましょうね。

こういうのって、“ちゃんとしてる感”が大事だから」


“感”。

“人のためにしてる感”、

“支えてる感”、

“できてる自分感”。


会議は淡々と進んでいるはずなのに、美羽にはそれが“奉仕”という名の自己満足を丁寧に並べ立てているだけのようにも思えてきた。


「佐藤さんは、どう?」

部長の中村さんが、やわらかく問いかけてくる。


「……誘導、やってみます」

一拍おいて答えた自分の声が、少しだけ浮いて聞こえた。


「頼もしいわ〜。若い人が前に出てくれるのって、ほんと助かるのよね」

「うちの娘にも見習ってほしいくらい」

「佐藤さん、笑顔もいいし、向いてると思うな〜」


美羽は笑ってみせたが、心の中はさざ波のようにざわついていた。


(“人のために”って、言えば言うほど、

誰のためにやってるのか見えなくなってく気がする)


会議が終わり、紙資料を片付ける手元をぼんやりと見つめながら、ふと美羽は思った。


(私が求めてたのは、“感謝されること”でも、“してあげる自分”でもないはずなのに――)


帰りのバス。

静かな車内で、美羽は窓の外に流れる街の明かりを見つめた。

ふれあいだとか、人のためだとか、いい言葉はたくさん出たけれど――


(今の私は、誰のこともちゃんと見れていなかったかもしれない)


自分の心の中も、他人の言葉の奥も。

今はまだ、何も見通せない。


夜のバスに揺られながら、美羽はそのモヤモヤを胸に、そっと息をついた。

会議は滞りなく進んでいた。誰もが善意を口にし、協力的だった。けれど、美羽の胸に残ったのは、言葉では測れない違和感だった。「人のため」と言いながら、そこに映るのは“自分”の姿ばかり。誰かのために動くとは、どういうことなのか――その問いは、まだ彼女の中でくすぶっている。

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