モヤモヤの隣で
夕食の食卓には、焼き魚の香り、湯気の立つ味噌汁、炊きたてのごはん。
「いただきます」と声をそろえたあと、美羽は箸を持ったまま、どこかぼんやりとしていた。
「美羽、今日の研修はどうだったの?」
母が煮物の器を手渡しながら、やわらかく問いかける。
美羽はふと顔を上げて、小さく笑ってみせる。
「うん……まあ、いろいろと考えさせられたというか、ちょっとモヤモヤしてる」
「そう。そんな研修だったのね」
母はそれ以上は追及せず、ただ、話しやすい空気を作ってくれる。
隣でお茶をすすっていた父が、茶碗を置いて口を開いた。
「どんなテーマだったんだ?」
「“働く意味”とか、“誰かのために働くってどういうことか”っていう話だったの。みんな“人の役に立ちたい”って言ってて、なんか自分だけ分かってない気がして……焦った」
父は少しうなずいてから、ごはんをひと口食べ、落ち着いた声で話し始めた。
「うん、それな。働く理由なんて、人によって全然違うし、時期によっても変わるもんだよ。“誰かのために”って言葉、キレイだけど、ちょっと重たいよな」
「お父さんなんて、最初は“早く給料日来ないかな”って、そればっかりだったぞ。上司の顔色うかがって、ミスしないようにって、それだけで精一杯だった」
美羽は思わず笑った。「意外」
「だろ?でも、それが普通なんだよ。そもそも最初から立派な志持って働ける人なんて、そうそういない」
「でもな、あるとき同僚に“お前がいたから、この仕事続けられた”って言われたことがあってさ」
「なんてことない日々だったけど、その一言でちょっとだけ“ああ、俺にも意味があったのかも”って思えたんだ」
「誰かの役に立つって、大げさなことじゃない。ほんのちょっと、誰かの気持ちが軽くなる。それで十分」
美羽は、味噌汁をすする手を止めて、父をじっと見つめた。
「……うん、なんか、すごくしっくりきたかも」
父は照れたように鼻をかいて笑い、またごはんをかきこんだ。
「人生なんて手探りの連続だ。正解が分からなくても、迷ってるからって間違いじゃない。そう思うよ」
母がくすっと笑いながら言う。
「ほんと、うちってみんな不器用ね。でも、そういうの、私は嫌いじゃないよ」
あたたかな湯気に包まれた食卓。
美羽の胸の奥で、さっきまでのモヤモヤが少しずつほどけていくような、そんな夜だった。
夕食のあとは、テレビもつけず、家族それぞれが自分の時間を過ごしていた。
美羽は、食卓の上に置かれていた「市政だより」にふと目をやった。母がいつも読んで、角をきっちり折っているページが開かれている。
何気なく手に取って、パラパラとめくっていくうちに、ある記事が目に留まった。
《地域ボランティアサークル“太陽の会” 新メンバー募集!》
―人とつながり、地域とつながる活動を一緒に始めてみませんか?初心者歓迎。年齢・職業問いません。まずはお気軽に見学からどうぞ。―
「……へえ」
美羽は小さく声を漏らし、ページの端を指でなぞった。
(ボランティアかぁ……なんか、ちょっと気になるかも)
父の言葉が、頭のどこかに残っていた。「大げさじゃなくていい、誰かの気持ちが軽くなるだけでいい」
そんなことが、もしかしたらできるかもしれない――そんな直感が、美羽の背中を少しだけ押した。
美羽は、市政だよりを読み終えると、手元に置いたまま、静かに目を閉じた。
(人のために、何かやってみたい)
その思いが、胸の奥にじんわりと広がっていた。
今日の研修で聞いた言葉。父の静かな語り。
どちらも、自分の中で少しずつ形を変えて残っている。
(ちゃんと、誰かの役に立ちたい)
(誰かのために動いたことで、その人の気持ちが少しでも和らいだり、笑顔になったり――そんなふうに、目に見える形で“自分がここにいる意味”を感じたい)
なんとなくページの端にあった、ボランティアサークルの募集欄。
その一行が、美羽の中で、現実の選択肢として光を放ち始めていた。
「太陽の会――か」
ふとつぶやいたその言葉に、自分でも気づかないうちに力がこもっていた。
ただ動かされるんじゃなくて、自分の足で、何かを始めてみたい。
ほんの少しでも、人のために。自分のためじゃなく。
その小さな願いが、美羽の心をあたためていた。
研修でのモヤモヤを家族に打ち明け、食卓で交わされた父の言葉が、美羽の心に静かに残る。
“誰かのために動きたい”という気持ちが、ゆっくりと彼女の中に芽生えていく。
その思いはまだ小さく、頼りないものかもしれない。けれど、それはたしかに彼女自身の意思だった。