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まだ名前を知らない風景のなかで

九峰市にある中堅製造メーカーの研修室。壁に掛かったホワイトボードと、ややくたびれたプロジェクター。窓の外には、街路樹の緑がちらちら揺れていた。


佐藤美羽は、前列の少し左寄りの席に座っていた。まっすぐ姿勢を正し、配られたレジュメの上にボールペンを走らせる。


講師が語るのは、「社会人としての基本」について。

“報・連・相がなぜ大切か”“時間を守ること”“正確な伝達”……そんなフレーズがいくつも飛び出してくる。


隣の席では、同期の波多野譲が無表情でノートをとっていた。後ろからは、桜井美鈴の小さく頷く気配が伝わってくる。誰もが真面目に耳を傾け、必死に“正しい答え”を覚えようとしていた。


けれど美羽の手元には、さっきから空白が続いていた。


(……この前のこと、まだちょっと引っかかってるのかな)


昨日、交流会のあとであった雑談が頭に残っていた。ある先輩が言った。


「会社ってのは、ちゃんと“空気読んで”動ける子が重宝されるんだよ。あんまり“人のために”とか、真に受けないほうがいいよ」


あれは冗談だったのか。本音だったのか。美羽には、まだ分からない。


レジュメの見出しには太字でこう書かれていた。

《社会人として、大事なこと》


その言葉を見つめたとき、美羽は一瞬だけ、ペンの先を止めた。


――講義の合間の休憩時間。

美羽は紙コップのコーヒーを手に、研修室の隅の窓際に立っていた。


ガラス越しに見えるのは、隣の市のショッピングモール。

学生の頃、母とおそろいのエコバッグをぶら下げて買い物をした場所だ。


(働くって、なんだろう)


ふとそんな言葉が浮かんで、胸の奥で宙ぶらりんになる。


「ねえ、講義、やばくなかった? 眠かった〜」

背後から、桜井美鈴の明るい声が聞こえた。

「俺、途中から半分寝てた」

波多野譲がぽつりと返す。


「うわ、バレてなかった? 小岩井さんに怒られたら終わりじゃん」

「まあ、配属されるまでは、まだセーフでしょ」

「それな〜」


笑い合うふたりに、美羽も小さく笑顔を作ってうなずいた。けれど、すぐに視線を窓の外に戻す。


楽しそうにしている同期たちの声。

その輪の中に、ちゃんと自分もいる。けれど、心だけは少しだけ離れていた。


働くって、社会人って。

会社にとって“使える人材”になること?

言われたことをきちんとこなすこと?

人の役に立つこと?


どれも違うとは思わない。でも、なんだかしっくりこない。

口に出すほどのことでもないし、誰かに聞かれても説明できない。ただ、なにかが少しずつ、胸の奥で引っかかっていた。


その正体が何かは、まだ分からない。


コーヒーの苦みはもう消えていたのに、口の中には渋みだけが残っていた。


チャイムのような音が鳴り、研修再開の合図が流れた。


美羽は紙コップをゴミ箱に入れて、静かに席に戻る。隣の波多野はもう座っていて、ノートのページを繰りながら軽くあくびをかみ殺していた。

美鈴は相変わらず明るく、後ろの席の子に「午後、長そうだね〜」と笑いかけている。


前方に立った講師――人事部の小岩井道が、落ち着いた声で話し始めた。


「では、午後は“職場で信頼を築くために必要なこと”についてお話しします」


ホワイトボードに、ていねいな字で項目が並んでいく。


・報告・連絡・相談を欠かさないこと

・期日やルールを守ること

・先輩や上司に敬意を持つこと

・自分の役割を理解し、責任を持つこと


(うん、たしかにその通りだと思う)


美羽はメモを取りながら、素直にうなずいた。

でも、その“正しさ”の中に、自分の気持ちをどこに置けばいいのか、またわからなくなっていく。


小岩井は続ける。


「仕事に必要なのは、“信頼”と“結果”です。結果を出すには、まず信頼されること。信頼されるには、誠実に働くことです」


美羽は、手を止めた。


誠実に――。

自分は誠実にやっているつもりだ。でも、結果ってなんだろう。数字? 売上? 会社への貢献?


「“自分がどう思うか”より、“どう見えるか”を意識すること。社会人にとっては、それも立派な能力のひとつです」


その言葉に、背中のあたりが少しざわついた。

そうなのかもしれない。でも、それって――“人のため”と、どう違うんだろう?


自分が「よかれ」と思ってやったことも、誰かから見て「余計なこと」だったら、やらない方がいいのか。

誰かのためにと思って動いても、それが評価されなければ意味がないのか。


ノートに書かれた文字が、少しだけにじんで見えた。



社会人になってまだ二ヶ月。

「正しさ」ばかりが並ぶ教室の中で、美羽はひとり、言葉にならない違和感を抱えていました。

働くって、なんだろう――その問いは、きっとこれから、彼女自身の経験を通して少しずつ形になっていく。

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