第二幕 ②
「理解が早くて助かります。もし解毒薬を渡さないというのなら、お父様が回復次第、話し合いの余地なく、即刻、報復が行われるでしょう。その覚悟はできていますか?」
『頭の回る嬢ちゃんだな、アリサ』
グリバスの不服そうな声。
自分が思い描いていた展開と違うからだと、アリサは読む。
グリバスは、万が一魔王が生きていて、かつ、暗殺を狙ったのが自分だと見抜かれた場合に備え、もう一枚の手札として解毒薬を用意していたのだろう。
自分がすぐさま報復されるのを防ぐため、『解毒薬が欲しければ取り引きに応じろ』と、主導権を守るつもりだったに違いない。
そこを僅差で、アリサが主導権を取ったのだった。『会ってほしいなら解毒薬を渡せ』と。
『だがな、人間の嬢ちゃんよ。図に乗るのはやめときな? 変な真似の一つでもしたら――』
「全面戦争とでも言うつもりですか? グレン兄様とグレイス姉様を相手に、あなたが勝てるのですか?」
『……』
再び沈黙。
ここでグリバスに主導権を奪い返されるわけにはいかない。
アリサの一連のやり取りを、兄や姉どころか、王の間の全員が固唾を飲んで見守る。
グリバスは、正面から戦えば敗北することを自覚しているからこそ、毒と爆薬、二段構えで魔王の暗殺を謀り、今回も取引という手を選んだ。
であるならば、思い通りにならないからと自棄になって、戦争という強硬手段に出るとは考えにくい。
「解毒薬をくれるなら、わたしは約束通り一人で、あなたに会いに行きます」
そこまで考えたうえで、アリサはもう一押しした。
『……いいだろう。会合の場所は追って伝える』
グリバスはそう言って通話を切った。
取り引きを持ち掛けるなら、当然会合場所も用意してあったはず。グリバスがそれをすぐアリサに伝えないということは、かなり動揺していると考えられる。
「アリサ! なにを考えている⁉ 父上の状態や、毒のことまで話すなどと――」
「毒のことまでバラして、グリバスが解毒薬を持ってなかったらどうする気だったの⁉」
兄と姉の怒鳴り声が響き渡る中、アリサは思案を続ける。
(爆発が起きてから、グリバスは奇妙なほど早く連絡を寄越した。向こうはたぶん、遠くから爆発の炎を確認していたに違いない。グリバスが狂暴な割に、計画性の高いことがわかる。わたしが同じ立場なら、会合をする場所も、自分たちの有利な場所に変更する)
アリサはそこで思案を中断。万が一戦いになった場合の恐ろしさと、それを知った魔王が悲しむ姿を脳内で増幅させ、想像力でもって疑似体験し、涙を誘発する。
そうして目を潤ませ、上目で兄姉を交互に見つめた。
「――ごめんなさい、グレン兄様、グレイス姉様。ああするしかないと思ったんです。だって、今にも戦争になりそうだったから」
「……まぁいい。アリサの機転のおかげで、解毒薬が手に入りそうなのだからな」
呼吸を整えて、グレンは自分のソファに腰掛ける。
「グリバスとの会合でどう立ち回るかを考えようではないか。すべては奴が始めたこと。戦争は避ける代わりに、奴の命で責任を取らせるのは確定として、だ」
「命で……」
アリサは思わずそう溢した。
グリバスを抹殺する。グレンはそう言っているのだ。
(でも、ここでグリバスを生かせば、きっとまた、お父様の命を狙ってくる。それだけは、どんな手を使ってでも防がないと。最も確実なのは、――兄様の言う通りか)
「ボディチェックは必ずされるでしょうから、武器は持ち込めませんね……」
と、アリサはグレンを見て言った。
「なにも、バカ正直に一人で行かないで、手勢を率いて行けばいいじゃない。それでグリバスをめった打ちにして、解毒薬を奪ってやるのよ!」
グレイスは自分のソファで、顰め面のまま腕を組んだ。収まらないのはグリバスとアリサ、どちらへの怒りか。
「わたしが一人で行きます。グリバスは、わたしが魔人化できることを知りません。もしものときは魔人化して、グリバスに奇襲を掛ければ倒せます」
胸に手を当てて言うアリサの脳裏を、父親の言葉が過る。
『――魔人化は安易にするな? お前はあくまで、兄と姉を支える立場だ。それ以上のことは、決してしなくてよい』
兄は首を横に振った。
「本当にお前が行く必要はない。俺が変身魔法を使えば――」
(お父様、ごめんなさい。わたしはお父様の言いつけを破ることよりも、お父様を失うことのほうが辛いのです)
アリサは眉宇を引き締めた。
「兄様。スーパーオークは人間並みの知性があります。魔法を見破る手段を用意しているはずですから、変身しても気付かれてしまうでしょう。でも、わたしの魔人化は違います。魔法ではなく、細胞の変異ですから、わたしが発動条件を引かない限り、向こうにはバレない」
「アリサあんた、手柄を独り占めして、お父様が治ったあとで、自分だけよくしてもらおうって言うんじゃないでしょうね⁉」
姉の物言いは、物事の本筋からほど遠いものばかりだ。
「わたしが一人で行くのは、魔王の血族が、約束を守る誇り高き存在であることを示すためでもあります。手柄などと、邪な考えからものを言っているのではありません」
アリサは、地下室にまた連れ込まれようとも構うまいと、鋭い視線を姉に向けた。
「姉様たちのおっしゃる通り、力に頼れば、この問題も容易く解決できます。兄様か姉様のどちらかが転移魔法でグリバスの下へ行き、彼も、その仲間も、一人残らず倒してしまえばいいのですから」
広間中の視線が、アリサに注がれる。
「反乱分子さえ綺麗に消してしまえば何も起きない。でもそうした場合、魔界はかつてと同じように、【歯向かえば命は無い】という恐怖での支配が続いてしまう。お父様は、それを変えていくことを望んでいます。だからわたしは、まずグリバスと話し合おうと思うんです。魔人化して倒すのは、あくまで最後の手段。それも、狙うはグリバスただ一人」
アリサの真剣な物言いに、グレンは首肯する。
「正当防衛の体裁を取ろうと言うのだな? ならば、他の種族からの理解も得易いかもしれぬ。魔界を統治する一族の立場として、仮にグリバスを始末したらしたで、その後の体裁を整えるための算段も立てねばならぬからな」
「本当に一人でやれるの? アリサ」
「やってみせます」
姉の目をじっと見つめ、アリサは答えた。
「グレン様。どうか、発言の許可を!」
ここで、ホールの隅に控えていたフレイが口を開いた。
「どうした? フレイ」
グレンに視線を向けられ、フレイはチラリとアリサを見た。
「アリサ様に万が一のことがあった場合に備えて、私もご一緒したく存じます。会合場所から離れたところで待機し、有事の際は援護に向かうのです」
グレンは頷く。
「無論、護衛はつけるつもりでいたが、多すぎても目立っていかん。俺ともう一人が妥当だろう。フレイがやってくれるのか?」
「命に代えても、アリサ様をお守りします!」
と、フレイは姿勢を正した。
「しかし、グレン兄様。それではグリバスとの約束を破ることに――」
「あくまで、離れたところから見張るだけだ。会合場所に行くのはお前一人で、約束を破ったことにはならぬ。今回のような駆け引きでは、穴を見つけ、そこを突くのだ」
言おうとしたことを遮られたアリサだが、納得せざるを得ない。
「なるほど……」
グリバスも同じようなことを考えるのは、容易に想像できるからだ。
「生真面目な子はこれだから頼れないのよ。もし失敗したら、わかってるわよねぇ?」
苛立たし気なグレイスが、嗜虐的に口の端を吊り上げた。
(言い出したのはわたしだけれど、かといって何もしない人に脅かされる言われはない!)
と、さすがのアリサも言い返そうとしたが、細く長く息を吐いて、どうにか耐えた。
♡
それから一時間ほど経って、グリバスの部下から連絡があり、会合場所が伝えられた。
場所は、魔界の中でも味が良いと評判のレストラン。グリバスを筆頭に、スーパーオークが統治する地域で、オークやゴブリンなどの下等魔族たちが暮らす街中に位置する。明日の夜、そこに来るよう指示を受けた。
(グリバスは、わたしが転移魔法を使えないことも調査済みのはず)
解毒薬を手に入れるためにも、今すぐに発ちたいアリサだったが、グレンやグレイスの転移魔法であまりにも早く会合場所に着いてしまっては、アリサが誰かと一緒であることが知られてしまう。
故に、アリサは断腸の一夜を過ごさざるを得なかった。
もどかしさに加え、失敗した場合の恐怖が津波の如く押し寄せた。
だが、こうして焦らすのもグリバスの作戦かと思うと、恐怖と同等の怒りも込み上げた。
アリサでさえ怒りを抱くのだ。兄と姉はじっとなどしていられず、グレンは魔王城周辺の巨岩を拳で砕いて回り、グレイスはアリサを地下室に連れ込み、妹のシャツのボタンを外して腹部をはだけさせ、鞭でめった打ちにした。
(これで姉様も気が済むなら――)
「陸軍で、そんなにバキバキになるまで鍛えても、私のパワーの前では無意味よ!」
グレイスは叫んで、アリサの腹筋目掛け、人外の力で鞭を振るう。
確かに、今回の拷問も痛みはある。が、魔王の血が流れているとあって、普通の人間であれば耐えられない痛みであっても、アリサにとっては悲鳴をあげるほどのものではないし、実際に身体が受けるダメージも少ない。
「顔も! スタイルも! 良いけど! あんたができるのは我慢だけ! ――ハァ、ハァ……」
肩で息をする姉。
魔王が争いを望まない旨を皆の前で話していなければ、グレンもグレイスも、アリサの意志を汲むことなく、転移魔法でグリバスの下へ向かい、部下もろとも皆殺しにしていただろう。
(グリバスは、言ったとおりに契約書を出してくるかしら? それとも、わたしを捕まえれば人質として役立つと考えて、襲い掛かってくるかしら?)
グリバスと相対したときのやり取りを、頭の中で想像するアリサ。
「その見た目からして! 魔族の血の濃度がぁ! 薄いのよぉ!」
姉の言葉が途切れる度、鞭が唸る。
「自分が、私と、同じ、立場だと、思ったら、大間違い、なんだか、らァッ! あんたは人間よ! 人間ン! ン・ン・ンッ!」
鞭を喰らって皮膚が割け、傷から鮮血が飛び散っては、元に戻る。
(この鞭の仕打ちも、わたしの望みを叶えるための試練だと考えよう。――でも、もしそうじゃなかったら――?)
アリサは痛みではなく、もどかしさに歯を食い縛った。
そうして迎えた、夕刻。
魔王=ヴォルディス・ヴァルザークは、意識こそ戻らないものの、強靭な身体と高い生命力、そして強運が味方したか、ベッドの上でまだ持ち堪えていた。
「アリサ、いいか? レストランに入ったら、初めは大人しくグリバスの指示に従うのだ。事がうまく運ばないとわかったら、すぐに魔人化を使え」
「はい、グレン兄様」
アリサは城の正門から野原に出て、グレンと会合の段取りを確認する。
「グリバスを始末する流れになったら、どうする?」
「速やかに魔人化して、グリバスを倒す。すぐ解毒薬を取って店を出て、兄様に渡す」
アリサが店を出るのを合図に、グレンが駆け付けるのだ。
「それから?」
「フレイの馬に乗る」
「そうだ。そのまま二人で人間界の受け入れ先まで行って、しばらく身を隠せ。その間に、報復合戦にならぬよう、俺が手を打っておく」
アリサの頭に大きな手を置いて、グレンはベルリオーズを振り返る。
「さっき話したとおりだ、ベルリオーズ卿。頼まれてくれるか?」
「無論。力になろう」
アリサたちが城門広場で話し合っている間、ベルリオーズは正門の前にどしりと構え、見張り役を買って出ていたのだった。
グレン自身が会合場所の近くに潜んだのでは、その圧倒的な魔力から、グリバス側に気付かれる可能性が高い。
サラマンダーが王の間で見せたように、転移魔法で移動先に魔法陣を展開することは、「魔王の長男グレン、ここにあり!」と高らかに宣言するようなものである。
そこでグレンはベルリオーズに跨る形で、レストランの遥か上空に待機するのだ。
そしてアリサが仕事を終えたのち、グレンは解毒薬をアリサから受け取り、ドラゴンの高速飛行で以って、魔王城へ急行する手筈である。
「アリサ様。お身体のほうは、大丈夫ですか?」
耳元でフレイが囁いた。
グリバス側の連絡からおよそ一日。アリサには休息の時間が与えられたが、父親のことがずっと頭にあって、一睡もできていなかった。
「ええ。わたしは大丈夫よ」
だが、アリサは首を縦に振った。