第二幕 ①
魔王城までの飛行はものの五分弱であったが、アリサは思考の整理に夢中で、さらに短く感じられた。
「アリサ様」
「……ええ」
フレイに呼ばれ、アリサは立ち上がり、協力して魔王を降ろした。
ベルリオーズは三人が降りやすいよう、首を地面に伏せてくれていた。
眼前には魔王城の正門。
そこはパーティーが行われた城門広場で、着地したベルリオーズの周りに何事かと人だかりができていた。
「どうした⁉ 何があったのだ⁉」
城門と同じく鉄製の重厚な正門――それを片手で押し開け、グレンが飛び出してきた。
「グレン兄様! お父様が、攻撃を受けました!」
「なっ⁉ こ、これは――ッ」
変わり果てた魔王の姿に、グレンは一歩後退る。
「事実だけを先に言います。お父様は何らかの毒に侵され、そのうえさらに、爆発による大きなダメージを負いました」
「馬車が爆発したのか⁉」
アリサはグレンの目を見て頷いた。
ドレスの両側を摘まみ、遅れてやってきたグレイスは、父親を見るなりアリサを睨んだ。
「アリサ、お前! お父様がこんなことになるまで、何をしていたのよ⁉」
「グレイス姉様、あとでちゃんと説明しますから、今は専門医を呼んでください!」
姉の噛みつくような剣幕に怯むことなく、アリサは兄に顔を向けた。
「そうだ、医者だ! 早く医者を寄越せ! 診断があるまで回復魔法は掛けるな? 毒によっては、相性が悪い魔法もある!」
グレンが指示を出し、城中が大騒ぎになった。
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魔王を蝕んだ毒は、アリサの推測通り、治癒能力を阻害するものだと判明した。
「――ですから、単に回復魔法を掛けてもダメなんです。回復魔法は、身体に備わる治癒力を高める、いわば修復する手助けをしているにすぎません。元の治癒力に回復魔法の掛け算なんです。つまり、元となる治癒力がゼロなら、回復魔法を掛けてもゼロのまま。効果がない!」
魔王の専門医を務める、やせ細ったゴブリンの男が言った。グレーの口ひげをぼりぼりと掻く彼の額には汗が光っている。彼の七十という年齢はゴブリンの平均寿命を超え、その知見で魔王の状態をすぐに見抜いたところまでは良かったが、現状、打てる手が無いらしかった。
皆が集まったのは【王の間】。パーティー中に相談会が開かれた、玉座のある大広間だ。
魔王は寝室のベッドに一先ず横たえられている。
「貴様! 手がないとはどういうことだ⁉ それでも我が父の専門医か!」
グレンが怒りで牙を覗かせ、その剛腕で医者の胸ぐらを掴む。
「この毒は、魔界には存在しない人間界の毒で、解毒薬のストックを切らしていまして……」
医者は苦しげに、陶器の中――紫の液体に浸された黒いものを指差した。魔王の黒ずんだ皮膚の一部を分析用の液体に入れて、起きた反応から毒の種類を絞り込んだのだ。
「なぜ人間界の毒が魔界にあるのだ⁉」
グレンが吠え、医者の足が宙に浮いた。
「グレン兄様、彼を降ろしてください!」
アリサが言い、グレンは口を引き結んだまま、医者を解放した。
「カスバートよ! あいつが毒を持ち込んで、お父様の飲み物に仕込んだんだわ!」
グレイスはそう言って、誇らしげに纏っていたドレスを、忌々しげに胸元から引き裂いた。黒い肌着に覆われた細い身体が露わになり、側廊に控える護衛たちは「代わりの服を!」と慌てふためく。
アリサは記憶を遡る。
カスバートが魔王の前に現れたとき、彼は手ぶらだった。城門で一度、さらに王の間への入室前に一度、計二回のボディチェックを受けたのだから当然だ。
「今、フレイに調査させていますが、カスバートが毒を仕込む隙はどこにもなかったと思います。お父様に飲み物をお注ぎしたのはわたしですし……」
アリサは恐る恐るといった調子で、姉の顔を伺った。
「なら、あんたがやったわけ⁉ アリサァッ!」
グレイスは、頭から伸びる数本の太い髪をアリサへ向けた。髪先の口が一斉に開き、『シューッ』という威嚇音を発した。
「落ち着けグレイス。アリサは我らの兄妹だぞ? 犯人はあとで必ず突き止める!」
「グレン様。城に来た連中を大至急呼び戻して、怪しい奴を全員やっちまうのはどうですかい?」
オークの中でも頭の回るケインが、グレンに進言した。つるりとした頭に、黒い素肌の顔。黄色い目と白い歯が目立っている。
「待て、ケイン。そうしたいのは山々だが、今はまず、父上をどうやって救うかだ」
一度は頭に血が上ったグレンだったが、医者を降ろしてからは怒気を収め、冷静に思考を巡らせている様子だ。
「グレン兄様。わたしの陸軍時代の知人に、薬学に強い人間が――」
「こんなときに、人間の力など借りられるか!」
アリサはびくりと肩を震わせた。
「いや。済まない、アリサ」
アリサの容姿は、誰が見ても人間そのもの。グレンは、人間に対する否定的な言葉がアリサにも刺さってはいないかと心配しているのだろう。
グレンは、以前に比べて多少は丸くなり、冷静沈着な判断を心掛けている様子だが、一度頭に血が上ると、高慢で好戦的な性格が露呈してしまう。
アリサは頷く。
「わかっています。ですが、手段を選んでいられる余裕は、わたし達にはありません」
アリサの尤もな意見に、グレンは唸った。
「こうなったら、俺の転移魔法で人間界へ行き、薬を手に入れるしか――」
グレンの言は、王の間の扉が乱暴に開かれたことで遮られた。
血相を変えた部下が一人、長方形のカード――魔法札を手に入ってきた。
「グレン様、た、大変です! スーパーオークのグリバスが、通話を求めています!」
部下はグレンに魔法札を手渡し、耳元でこう囁いた。
「魔王に攻撃を仕掛けたのは、グリバスです」
人間離れした聴覚を持つアリサは、それを聞き逃さない。
「……グレンだ」
驚愕と怒りに眉を顰め、しかしグレンは平静を保って、魔法札を顔の前に近付けた。
『よう、若旦那。パーティーでは邪魔したな』
魔法札から、グリバスの声が放たれた。
「我が父に、……魔王に、爆発物を仕掛けたのは貴様か⁉」
と、グレンは片方の拳をぐっと握りしめた。
『あぁ。だが、仕方なかった。お前の親父は考え方が古い。今の時代、人間界は経済発展が目覚ましい。魔界がビジネスでついていくには、新しい戦法ってもんが必要になるんだ。それがわからねぇお前さんじゃねぇだろう?』
「だからといって、魔界の王たる我が父に反旗を翻していいわけがあるまい! この代償高くつくぞ、グリバス!」
グレンから放たれる怒気が、王の間全体を揺らした。
魔王にも引けを取らぬ威圧感に、アリサは、無数の針が素肌の至るところに突き立つかのような錯覚に見舞われた。
『落ち着けや、グレン。オレと取引しようじゃねぇか』
「なに?」
『簡単なことよ。オレたちスーパーオークが薬を広める手助けをしろ。そうすれば、四、五年もすりゃぁ、この魔界どころか、人間界の市場をも操作できるほどの金が舞い込んでくる。そのときは、儲けの半分をお前さんにくれてやろうじゃねぇか』
グレンは鋭い牙を剥き出しにして唸った。
「グリバス、貴様。この俺が金欲しさに逆賊と手を組むとでも思っているのか?」
『いい加減大人になれ、グレン。親父が死んだ今、魔界の主はお前さんだ』
グリバスの発言に、グレンはグレイスを見、それからアリサを見た。
グリバスは、魔王が爆発で死んだものと思っているらしい。
巧くやれば、グリバスを出し抜き、事をこちらの有利に進められるかもしれない。
グレンはそう考えているのだろうと、アリサは推察する。
魔王は死んだものと油断したグリバスの下へ、回復を遂げた魔王が話をつけに行く算段がつくのであれば、このまま黙っているのは一つの手だ。
だが、今の魔王は瀕死の状態。このまま放置を続ければまず助からない。そして、助ける手立てが現状、手元には無い。
となれば、黙っているメリットが無い。
『今後も末永く魔界を統治していくには、口や気迫だけじゃなく、目に見える力が必要になる。要は金だぜ。金はなぁ、拳の強さよりも、剣の切れ味よりも、軍隊の規模よりも大事なもんだ。オレはお前さんに、そいつを半分やろうってんだぜ? なんでも武力で解決することに嫌気が差してた父親の意思を継ぐことにもなる。頭ぁ冷やしてよぉ、そこんとこ、よぉく考えてみな』
「……半分ということは、俺と貴様、二人の財力は同じということになる。魔界の支配権の半分を寄越せなどと、後になって言う腹ではあるまいな?」
『おいおい、何を言ってやがる。お前さんの城にゃぁ、父親が蓄えた金銀財宝が眠ってることくらい、オレたちだけじゃなく、どの種族も知ってることだぜ? それをひっくるめりゃぁ、たとえ薬の金を均等に分け合ったとしても、魔王一族にゃあ敵わねぇよ』
「財宝は、かつての戦争で人間界から奪い取ったものがほとんど。父はそれを、然るべき主の元へと送り返した。魔界と人間界の交流が再開したのは、その行いがあったからだ」
『そいつは驚いた』
グリバスは、わざとらしい声色で言った。
『オレは男の悪口は言いたかなかったがよぉ、そうして下手に出るから、人間どもに舐められるってんだ。そのときは良い顔できても、あとになってしわ寄せが来て、下々の種族にまで悪影響が出る! グレン、まさかお前さんも同じことをやらかすってんじゃねぇだろうなぁ?』
「さっきから黙って聞いてやっていれば、なんて無礼な物言いなの⁉」
堪忍袋の緒が切れたか、グレイスが金切り声を上げた。
グレンは片手のひらをグレイスに向け、黙るよう伝える。
「こちらはどう動けばいい?」
『まずは俺が用意する場所で、契約書の締結を済ませる。うまい酒でも飲みながらなぁ。そいつが済んだら、仕事の流れを伝える。たったのそれだけだ』
「手勢は、互いに何人までだ?」
『お互い、物騒な用意は無しでいこうや。俺が一人で行くからよぉ、そっちも一人だ。……アリサがいい』
「なぜアリサを行かせねばならんのだ⁉」
グレンが声を荒げた。
『気の短ぇお前さんの踏ん張りがどれほどのもんかわからねぇ以上、いつも落ち着いてる奴と話し合ったほうがスムーズにいくのは、自明の理ってやつよ』
「おのれ、グリバス。この俺を愚弄しおって!」
アリサは、グレンの怒りが頂点に達したことを悟った。このままでは、兄は怒りに我を忘れ、最悪、魔族同士での全面戦争になりかねない。
(そうなってしまっては、お父様が悲しむ)
「――グレン兄様。わたし、行きます」
アリサは、一歩前に出た。
「グリバスに会わせてください」
「な、なんだと⁉」
狼狽える兄――その手が掴む魔法札を、アリサは真っ直ぐに見つめる。
「グリバス。わたしが行けば良いのですね?」
『その通りだ、アリサ。できるか?』
「ええ。ただ、わたしからも一つお話があります。聞いて頂けますか? 今ここで」
『言ってみな?』
アリサは、口を挟めず自分を見つめる兄と、目を合わせたまま言う。
「お父様は、――魔王は、死んでなどおりません」
『な、なにぃ⁉』
グリバスが驚愕の声を上げるのと、兄と姉の眉が吊り上がったのは同時だった。
「ですが、かなりのダメージを受けていて、すぐには治りそうにありません。そこでグリバス、あなたに質問です。回復を阻害する毒を仕込んだのはあなたですか?」
〝治しようがない〟という現状を、あえて〝すぐには治らない〟と伝えることで、いずれは治るものと相手に思わせる狙いだ。
『……』
沈黙が流れる。
魔王を馬車の爆破程度で殺せるとは、魔界のどの種族も思わない。それほど、魔王という存在は強大なもの。仮に殺そうとするなら、爆弾以外の策も施し、万全を期するはずである。
そのように考えるアリサにとって、これは賭けだった。
毒を盛った犯人と、馬車が爆発するように仕組んだ犯人が同一であることに、アリサは賭けたのだ。もし、毒を盛ったのがグリバスでなければ、ここで否定が返ってくるはずである。
「あなたですか? グリバス」
『魔王、……さすがは、しぶてぇ男だ』
「グリバス? 答えてください」
『……ああ。よく毒だと見抜いたな。傷が回復しねぇからか?』
「こちらには優秀な医者がいます。しかし生憎、解毒薬がありません。あなたがいつどこで毒を手に入れ、どうやって仕込んだのかは隅に置いて、もう一つ聞きます。解毒薬を持っていますか?」
『……ああ。持ってるぜ? お前さんが言いたいのは、サシで会ってやる代わりに、解毒薬を寄越せってことかぃ?』
(いける!)
アリサは声色に出さぬよう、慎重に続ける。