第一幕 ⑥
魔人化した自分であれば、グレンやグレイスにも引けを取らずに戦えるのではないかと、アリサは考えている。
発動条件は二種類。一つは利き手を強く握り締め、変異を強く念じること。もう一つは、アリサが本能的に死の危険を感じること。二つ目の発動条件は滅多に揃わないが、一つ目はアリサのさじ加減でいくらでも実現できる。
(お父様が殺されるのを何もせず見ているのは、許容でも忍耐でもない)
仮に魔王の命が何者かに狙われ、死の刃が届くとあれば、アリサは迷うことなく魔人化し、魔王に仇なす敵を排除するつもりでいた。
「ならぬ! もしものときは、ベルリオーズを頼れ」
魔王は首を横に振った。
「魔人化の度が過ぎれば、お前の身体は変異に侵食され、次第に戻れなくなっていくのだぞ?」
アリサは目を閉じ、父親の優しさを噛み締めた。
普段のアリサの見た目は人間そのもの。違うとすれば、父親譲りの深紅の瞳と、黒紫の血。
だが、魔人化の回数がかさむにつれ、魔族としての特徴が身体に現れてくるのである。
肌がドラゴンの鱗のように硬化し、色は黒ずみ、骨密度や筋肉量が増加。歯は尖り、目つきは鋭く、威圧的で、思考までもが攻撃的になる。
仕舞いにはその姿から戻らなくなると、アリサは聞かされていた。
「お父様。わたしはこの姿がどうなろうとも、お父様のお役に立てるのであれば本望です。皆が平穏に暮らすことにつながるなら、何も嫌ではありません」
「……アリサよ」
魔王が両腕を広げ、アリサはその広い胸に顔を埋める。
「お前は美しい。母親がくれたものを、簡単に犠牲にするでない。皆のことは、儂やグレンに任せておけばよいのだ。お前は、自分が幸せになることを考えよ」
アリサは、「お父様の望みが叶うことが、わたしの幸せです」と言おうとして、呑みこむ。
仮に、皆が平穏に暮らすこと以外の幸せがあるとすれば、自分にとって、それは何だろうか?
アリサはこれまで、あまり考えたことがなかった。
魔界を統べる王族の立場として、魔王のため、学び強くなることに必死だったのだ。
「――お父様」
「なんだ?」
「わたしの幸せとは、なんでしょうか?」
魔王の、アリサの背をさする手が止まる。
「アリサ。もう一度、人間界で暮らす気はないか?」
アリサは埋めていた顔を上げた。
「この情勢下で、ですか?」
「だからこそだ」
アリサは間近で父親の目を見つめた。老いたといえど、瞳が放つ深紅の輝きは綺麗なままだ。
「そうすることが、幸せと関係あるのですか?」
「あるとも」
アリサは視線を逸らしてしばし考えるが、
「いったい、どんな?」
重ねて聞いた。
人間のフリをして過ごした人間界。そこでできた学友たちとの交流も、今や一切無い。
行く当てが、無いのだ。
「アリサ。お前は結婚相手を探すのだ。やがて子宝を授かり、愛を育んでいくためにも……」
アリサは再び父親の目を見た。
「……嫌です」
アリサは父親の目を見つめたまま言った。なぜこの状況下で魔界を離れ、結婚をする必要があるのか、アリサにはわからなかった。
「わたしは、お父様の傍を離れたくありません」
本心だった。結婚することよりも、父親の深紅の輝きを損ないたくない、そう思った。
「思えば儂はこれまで、お前に父親らしいことは何もしてやれなかった。来る日も来る日も、威厳を保つための駆け引きばかりでな。そんな時期が長すぎた。故に、お前の視野を狭めてしまったことを、謝らせてほしい」
「狭めただなんて……わたしはお父様のおかげで、多くの場所に行き、人に出会い、たくさん学ぶことができたんですよ? 視野だって、社会勉強に行く前のわたしの比ではありません」
「そういうことを言っているのではない。お前は今、誰を見ている?」
「――? お父様……」
「それが、狭まっているということだ。お前は儂しか見ておらぬ」
「……」
アリサは、「見ていないのではなく、見ていたいのです」と言い掛けるが、また呑みこむ。
(それはわたしが、他に見ていたい人がいないからで、お父様はそれを好ましくないと思っているのではないかしら?)
「アリサ、お前は魔界と人間界の橋渡しとなれるやもしれぬ。一度の刃も交えることなく、共に繫栄するための要だ。そうした可能性もあるからこそ、儂はお前に、人間との繋がりを持ってほしいのだ」
「わたしが結婚することは、結果として、魔界にも利益をもたらす可能性があるということですか?」
アリサの問いに、魔王は「そうだ」と頷いて、
「そうではあるが、優先されるべきは、まずお前自身が幸せを感じること。お前自身が、結婚がもたらす喜びを知り、笑顔の絶えぬ環境に落ち着くことだ。他は二の次でよい」
「それで、お父様も喜んでくださるなら……前向きに考えます」
アリサの言に魔王が眉を開いた、そのときだった。
「――ぐッ⁉」
魔王が苦し気な声を漏らし、自分の胸を片手で押さえた。
「っ! お父様⁉」
アリサは前屈みになる父親の身体を支え、顔を覗き込む。
「む、胸が」
魔王の呼吸が浅く早くなり、顔色が見る見るうちに蒼白になっていく。
アリサはキャビンの正面にある小窓を開け、手綱を操る従者を呼ばわる。
「馬車を止めて!」
馬車が急停止。アリサは一旦、外へ飛び出す。
そこは両側を山に囲まれた峡谷の細道。闇の中、切り立つように聳える岩山の影は、北部で燃え盛る火山――その赤黒い明かりを帯びた空と相まって、不気味な威圧感を放っていた。
「アリサ様、どうなさったのですか⁉」
と、馬車と並走していたフレイも馬から降りた。
「お父様の様子がおかしいの!」
アリサが言うと、フレイはキャビン内を覗き込む。
アリサはキャビンのドア横に取り付けられた松明を手に、中を照らした。
「魔王、失礼いたします!」
フレイは、君主が胸を押さえる手をそっと退かして、自分の耳を彼の胸に当てた。
訓練されたダークエルフは、ある程度なら、病状を耳で聞き分けることができる。
「魔法の類ではない、暴力的な心音、……毒です!」
フレイが言うならそうだと、アリサは信じた。フレイはダークエルフ特有の敏感な察知能力で、魔法の気配を感じ取ることもできる。その彼女が魔法ではないと見たのだ。
今この場に解毒薬は無いうえ、どの種類の毒かもわからない。
「引き返して! 専門医に見せないと――」
アリサが外に向き直り、従者にそう指示した次の瞬間。
闇を切り裂く眩い光がキャビンの中から放たれ、アリサとフレイは思わず目を覆った。
そして、耳を劈く轟音が一帯を震わせ、アリサたちを爆風が吹き飛ばした。
魔王を乗せたまま、キャビンが爆発したのだ。
目が眩み、聴覚が麻痺し、全身を焼けるような痛みが襲う中、アリサはぼんやりとした意識で頭をもたげた。
激しく脈打つ自分の鼓動が、脳へと伝わってくる。
数秒後、強靭な身体を持つアリサの意識は大部分が回復。状況が鮮明になる。
アリサは本能的にフレイを爆風から庇い、仰向けの彼女の上に覆い被さっていた。
「フレイ、しっかり!」
アリサはフレイの身体に怪我が無いかをまず確かめ、問題なしと判断するが、そんなフレイのはだけたシャツに、ボタリ。紫と黒が混ざったような液体が垂れた。
「――アリサ、様……っ⁉」
突然の事態に目を見開き、フレイがつぶやく。
「え?」
アリサは自分の身体を見下ろす。
アリサの腹部から、キャビンの破片と思しき木片が複数本飛び出していた。背中側から突き刺さり、細い身体なこともあって貫通したらしい。
「ぁあ、ぁあああああッ!」
フレイが水色の目を見開き、恐怖に駆られた表情でアリサの肩を掴む。
「アリサ様! お身体が!」
「動ける?」
アリサはフレイの頬に手を触れ、まっすぐに目線を合わせる。
「は、はい……」
信じられないものでも見ているかのように、フレイの声は震えている。
「周囲を見張って。これはきっと、誰かの攻撃よ」
聴覚が遅れて回復し、アリサは自分の声が、人間のものではなくなっていることに気付いた。
男のような低い唸り声。それが、アリサ本来の和やかな声と重なるようにして放たれている。
とても善良な存在のものとは思えない、アリサ自身が嫌悪する声だった。
(魔人化、しちゃったみたいね)
と、アリサは察する。
それも感覚からして、声の変化や、筋力、瞬発力といった身体機能と回復力の増大が起こる、第一形態。見た目にさほど変化はないが、声は聞いていて気持ちの良いものではない。
「し、承知しました!」
フレイが涙を散らして立ち上がると、
「くっ!」
アリサは歯を食い縛り、破片を掴む腕に力を込めた。おびただしい黒紫の血と、肉同士が擦れるようなズリュズリュという音を出して、破片を一つずつ引き抜く。
破片が抜かれたことで、アリサの身体に穿たれた穴は、しかし数秒後にはひとりでに塞がり、跡も残さず完治。
どうにかすべての破片を取り除き、アリサはようやく立ち上がる。しな垂れ掛かっていた銀の長髪にべっとりと、自身の血が付着したまま。
「お父様!」
大破し、炎上を続けるキャビンの中へと、アリサは服が焼けるのも構わず飛び込んだ。
アリサは、人間ならひとたまりもないであろう炎の熱に耐え、魔王が座っていたあたりを弄って、彼の腕を掴んだ。
「アリ、サ……」
苦し気で弱り切った声が、炎の中から微かに聞こえた。
「お父様、今助けます!」
アリサは渾身の力で魔王の巨体を引っ張り上げ、その華奢な肩に覆い被せるようにして脱出。
アリサは道端――凹凸の少ない場所に、魔王の身体を横たえ、込み上げてくる涙をぐっと堪えて、魔人化を解く。
「――お父様」
震える声で呼びかけた。声は元のアリサのものに戻っていた。
魔王の全身は焼けただれ、黒く変色した部分は、衣服の類なのか地肌なのかさえ判別できない有り様だった。
至近距離の爆発に、魔王の身体が原形を留めたまま耐えたのは、さすが魔界一の堅牢な肉体と言えるが、纏っていた漆黒の鎧は耐え切れず、大半の部分が吹き飛んでいた。
魔王の身体の至る所に、鎧やパッドの一部と思しき金属片がめり込んでいる。
肉の焦げた臭いがアリサの鼻を突いた。
「お父様!」
「アリ、サ。逃げ、ろ」
アリサが強く呼びかけると、微かな吐息とともに、魔王が言った。
「ああ――っ!」
魔王の息がまだあることに、アリサは思わず両手で口元を覆った。
「にげ、ろ……」
「お父様も一緒です!」
アリサは従者を探したが、馬もろとも吹き飛び、見るも無残な姿で道の先に散らばっていた。
フレイが駆っていた馬も、岩肌に叩きつけられたか、ぐったりしていた。
(おかしい)
アリサは気付く。
魔王の身体はアリサよりもさらに頑強で、本来なら致命傷となる深手も瞬く間に回復する。そんな父親の身体が、いつまで経っても回復の兆しを見せない。
アリサは爆発の直前、父親の体調が急変したことと、何かが関連している線を疑う。
(きっと、毒がなんらかの悪さをして、お父様の回復を妨げているんだわ!)
「フレイ! 魔法札で通信の用意をして! もう、隠密行動だなんて言っていられない!」
「それはできません、アリサ様……」
魔王のことが心配だったか、傍まで来ていたフレイが、青ざめた顔で言った。
アリサは、フレイの視線が炎上するキャビンへ向かうのを見て、聞かずとも察した。
魔法札の入った荷物は、キャビンの中にあったのだ。
(わたしが、魔法を使えさえすれば!)
ぐっと拳を握りしめるアリサ。