第二十二話 哀しき選択
曇天から静々と雨がしたたり落ちている。小雨が傘を打つ音を聞きながら、テンポよく両足を動かす。ユミヨはロコモンと連れ立ち、夕刻の畦道を練り歩いていた。
「何か申し訳ねぇですなぁ。護衛の癖に、傘持ってもらっちまって」
ドワーフのロコモンが、傘を見上げつつ恐縮する。
「いいんだって。ロコモンさんと一緒じゃないと、お母さんが心配するもん」
ユミヨがどこか楽し気に応える。
二人はビヨグランデのゾノドコ本社からタガヤシ村に到着したばかりだった。週末の休みを控え、ユミヨの実家に帰るためだ。
ゾノドコ通信支社に到着すると、傘から飛び出たロコモンが屋根の下に潜り込む。
「オラ、今日は支社に寄ることになってるから。ここまででいいかい?」
「大丈夫よ、家すぐそこだから。今日もありがとう」
互いに手を振り合うと、ユミヨがいそいそと帰路につく。
見慣れた田園風景に目を細める。娯楽は図書館ぐらいだが、心休まる故郷だった。
「故郷? 何か、肝心なことを忘れているような……」
ユミヨが不意に足を止め、独り言ちる。そのまま目を閉じ、鼻の頭を摘まみ上げる。
「やれやれ。やっと気が付いたのね」
聞きなれた忌まわしい声が降ってくる。ユミヨが天を見上げると、そこから巨大な傘がフワフワと降りてくる。
傘が地上に触れるや、取っ手を握ったビリーディオが姿を現した。
「あなた、今までどこで何をしていたの?」
ユミヨの感情がかき乱され、上ずった声が出る。最終局面で大きな役割を果たしたとはいえ、敵か味方か測りかねる存在なのだ。
「私のことなどどうでもいい。それより、これをよく見なさい」
ビリーディオがどこからともなく冊子を取り出す。それは、ユミヨが携わった魔王討伐の特集号だった。
ピエロの指さした先に、『文責・仲峯由実世』と記載がある。
「な……これって何て読むの?」
見慣れぬ字体を指さして頭を抱える。だが次の瞬間、痛恨極まりないという風に手のひらを打った。
「ああっ! まさかそんなこと……」
「そう、あなたの『名字』よ。それを忘れる意味に、真剣に向き合うべきじゃない?」
母の死去に失声症の発症。現実世界のつらい記憶がよみがえる。
「この世界に、本当の自分の足跡を残したくて本名を記した。多分そんなとこでしょ?」
核心を突かれたユミヨが悔し気にうなずく。
「あなたにラストチャンスを上げるわ」
ビリーディオが巨大な傘を横に持って回転させる。すると、お得意の移動用ゲートが出現した。
「元の世界に帰してあげる。だけどよく考えて。幸せな人生が、どちらにあるのかをね……」
ユミヨが魔法力のゲートを食い入るように覗き込む。だが我に返ると、ビリーディオに懇願する。
「ビリーディオ、ありがとう。だけど一時間だけ待ってほしい。必ず決断するから」
この言を受けたビリーディオが傘を折りたたむと、異世界へのゲートが消える。
「OK。この場所で待っているけど、二度目はないわよ」
傘を握ったピエロは、そのままフワフワと浮上していった。
自室の床に正座したユミヨは、ローテーブルの前で固まっていた。
テーブルの前には仕事用の紙とペンが置かれている。散々迷った末に、結局それを手に取った。
ユミヨがベッドに視線を移し、この世界に降り立った瞬間を思い出す。
(元の人格に戻った時、今までの経緯が分からないといけない。簡潔に、でも要点はまとめないと)
元の人格のためを想い、必要事項を懸命に書き記す。
おおむね完成が見えてきた頃、玄関から足音が聞こえてきた。
「ユミヨ、帰ってるのかい? 今日は総菜買って来たからね」
ゆっくりと立ち上がり、母を出迎える。その姿を見るや、全力で抱き付いてしまっていた。
「あらあら。仕事でつらいことでもあったの?」
総菜が入った袋を床に投げつつ、母がユミヨを抱き止める。
「……期に逢えて良かった。今だけでいい、お母さんを補給させて……」
大粒の涙が母の体に染み込んでいく。クッションのような柔らかい体に身を委ねると、心の芯が温まる感触があった。
由実世は結局、この世界からの別れを決意したのだった。
いつの間にか小雨はやみ、曇天から晴れ間が覗いている。身なりを整えたユミヨは、約束の場所へ到着していた。
(まだ一時間たっていない。でも、大丈夫かしら……)
腕時計を覗いていると、人の気配に気が付いた。
斜向かいの民家、その屋根にピエロのシルエットが映る。そこから前方宙返りをしつつ、目前の地面にビリーディオが降り立った。
「今の見た? オリンピックならメダルものでしょう」
「まあ、銅メダルぐらいは取れるんじゃない?」
ピエロの戯言に思わず失笑してしまう。
「私、元の世界に帰ります。次は自分の世界で戦わなきゃ」
凛々しく決意表明すると、頷いたピエロがマントを構える。目前に開いた異空間を前に、ユミヨが戸惑いを見せる。
「気に病むことはない。元の人格はこちらに残るよ」
ピエロが言うなり、ユミヨの体から幽体が離脱する。振り返った由実世は、体に残った元の人格と初めて向き合った。
『本当にごめんなさい。いままでの経緯は全てメモに残してあるから』
元の人格、ユミヨの実体が柔らかく頭を振る。
「心配しないで。いつだって、心は一つだったのだから……」
幽体の由実世の体が後方のゲートに吸い込まれていく。ビリーディオがマントを翻すと、幽体の由実世は完全に消え去っていた。
「自分の世界で戦う、か。うらやましいわ、私は到底そんな気にはなれないからね」
ビリーディオはお茶目な敬礼をユミヨに寄越すと、スキップしながらその場を離れていった。