とある公爵家侍女の1日
侍女の朝は早い。
朝鳴鳥が鳴き始める頃には少なくとも目を覚まさねばならず、目覚めれば手早く準備して早速仕事に取り掛かる。準備と言っても髪を整えて服をお仕着せに替えるだけだ。化粧などする余裕も、その必要もない。
ただ体臭が気になる場合は軽く香水だけ振りかける。香水と言っても“匂い消し”と言ったほうが正しいかも知れない。アクイタニア公爵家の侍女はお客様の前に出ることもあるため、そういうものが支給されている。とはいえ公爵家では侍女も使用人も専用の湯場があって毎日使わせてもらえるため、体臭が気になることはあまりない。
勤め始めておよそ1ヶ月、この生活リズムにもようやく慣れてきたところだ。
いいところに拾ってもらったと、しみじみ思う。浅はかな、そして大それた野望を抱いてあれだけの騒動を巻き起こしたのだから、本来ならば今こうして生きているだけでもあり得ないのだ。それなのに命を助けてもらったばかりか、仕事も住む部屋も食事も与えられ、しかも聞けば他所より随分とお手当がいいらしい。
本当に、なんと幸せなことだろうか。
「おはよう」
「おはよう」
起きてきた侍女たちが互いに挨拶し合う。公爵家ともなれば侍女の大半は下位貴族のご令嬢で、平民の侍女なんて自分くらいのものだろう。平民だったら普通は使用人止まりだし、なんなら下女であっても不思議はないのに。
「なあに?また『自分には過ぎた待遇だ』なんて思ってる?」
人の顔を見て、先輩侍女がからかうような口調で声をかけてきた。
「いえ、そんな。でも身に余るご恩をどう返していけばいいかと…」
「そんなもの、真面目に働けばそれでいいのよ」
何でもないことのように先輩は言う。伯爵家の四女で、高位貴族のご令嬢だけれどこのままでは平民になるしかない方だ。だけど、彼女は毎日何でもない顔をして仕事に励んでいる。
まあ彼女は私と違って上級侍女だから、ドレスの着付けも担当できるし夜会の付き添いもできる。お茶の淹れ方も上手いし、お嬢様のお茶会にも夜会にも侍れるからどこかでいいご縁がきっと見つかるだろう。
「まあ、とりあえず貴女はお茶の淹れ方から勉強しないとね」
それにひきかえ私はまだ見習いだ。侍女とは言ってもなりたてだから仕事はほとんどできない。先輩たちに教えてもらいながら何とか頑張っているけれど、他にはお嬢様のお話のお相手くらいしか務まらない。
なのに、なんで、私がお嬢様の専属で、先輩がそうじゃないんだろう。
だから他の侍女仲間から「えこひいきだ」って妬まれるのよねえ。
まあ、先輩を含めて、私とお嬢様の関係を知ってる人たちは妬みよりもむしろ同情を向けてくるのだけどね。
もうじき朝二になろうかという時刻になって、お嬢様をお起こしにお部屋へと向かう。お嬢様のお部屋は本館三階の東の角部屋、広くて明るくて風の通りもすごく良い、素敵なお部屋だ。
ただ、お起こしに行ってお嬢様がまだ寝ていらしたということは今のところはない。必ず起きていらして、大抵はベッドに身を起こしてご本を読んでいらっしゃる。ご本にはカバーが掛けられていてなんの本かは一見して分からないけれど、先輩によれば魔物にさらわれた姫様が騎士様に助け出されて幸せな結婚をするという、私でも知ってる有名な童話なのだそうだ。お嬢様が子供の頃から大好きなご本なのらしい。
“完璧令嬢”という二つ名さえ持っている淑女なのに、意外なところで子供っぽいのだなと、その話を聞いたときにはほほえましくなった。もちろん私がこの話を知っているというのはお嬢様には内緒だ。
コンコン。
「おはようございます、お嬢様」
お嬢様のお部屋の扉を二度ノックして声をかける。「入って頂戴」とお声がかかるのを待って、一緒に来た侍女仲間と部屋に入り、一列に並んでベッドに向かって一礼する。
お嬢様はそれを見て読んでいらしたご本を枕元に置いて、ベッドから足を出して腰掛ける態勢になる。そこにサッと先輩侍女が室内用のお履物を持って近付き、慣れた手つきで手早く履かせると、お嬢様のお手を取って立っていただいた。
今のお履物は私が用意していなければならなかった。気付いた時にはすでに先輩の手の中にあって、また今日も出遅れてしまった。
うーん、難しい。実家ではそもそも侍女なんて何人も雇えなかったし、自分付きの侍女もいなかったから、ご令嬢の日常生活で侍女がどんな動きをするべきなのか、まだ身についていない。早く覚えないと。
「いいのよ、おいおいで。貴女は他に覚えることもやることも多いのだから、そんなに何もかも一度に欲張るべきではないわ」
そんな私の苦悩に気付いたのだろうか、お嬢様がお優しいお言葉をかけてくださる。それは涙が出るくらい有り難いのだけど。
「ありがとうございます。ですが、それに甘えるわけにはいきませんから」
そう答えると、お嬢様は少しだけ可哀想なものを見る目になって、でもすぐに表情を作って「そう」とだけ仰った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
先輩方の手によって身支度も御髪も綺麗に整えられ、朝食室で旦那様や奥様と朝食をお召し上がりになってから、お嬢様は公爵家の馬車で王宮へと向かわれる。もう学園も卒業なさって第二王子殿下の婚約者になっておられるお嬢様は、今は毎日のように登城されて王子妃教育、いや王太子妃教育にご精を出される日々を過ごされている。
私はまだ見習いだから、専属とはいえ帯同を許されてはいない。それが許されているのは同じ専属侍女でも上級侍女の先輩方だ。でもお嬢様は幼い頃から王子妃教育をお受けになっておられるので、実のところ侍女は連れて行かれない。王城に着くまでは護衛が帯同するけれど、城門を潜ったら王宮内のお嬢様専属の侍女と護衛に引き継がれる。
お嬢様は私に「貴女がひと通り侍女の仕事を覚えたら、一緒に行きましょうね」と言って下さるけれど、少なくとも私みたいな罪人は王宮どころか王城にさえ踏み入れさせてはダメだと思う。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
侍女一同、執事さまの後ろについて玄関先でお嬢様の馬車をお見送りする。広い前庭を抜けて馬車が正門の外に消えていくまで見送ってから、私たちはそれぞれの仕事に戻る。
お嬢様がお出かけになってから、私たち専属侍女がやることは、まずお部屋の掃除。窓を拭き、カーテンをはたき、床の絨毯のホコリを丁寧に取って、ベッドをお直しする。当然シーツも枕のカバーも上掛けの布団もマットレスも全部交換だ。
普通は掃除なんて使用人のやる仕事なんだけど、この公爵家では奥様とお嬢様のお部屋だけ、それぞれの専属の下級侍女たちが掃除を手掛ける。旦那様のお部屋だけは侍女ではなく近侍の方々が担当する。
「いい?シーツはシワが寄らないようにしっかり伸ばして、四辺をマットレスの下に折り込んで頂戴。そう、お嬢様が気持ちよくおやすみになられるよう、新品同様に整えるのよ」
「はい」
先輩の指示を受けながらベッドを整える。ベッドは大きくてひとりではとても整えられないので、私を含めて見習いや下級侍女が数人がかりで手掛ける。
「あっ、ごめんなさい。そっちもう少し引っ張って」
「分かりましたアルメル様」
アルメル様は同い年で同期の見習い侍女なのだけど、子爵家のご令嬢なので私は敬称付きで呼ぶ。そもそも本来は私の顔など見たくもないだろうし。
彼女もお嬢様に拾って頂いたひとりだ。
「同期なんだから敬称は要らないっていつも言ってるよね、コ━━」
「ほら、喋ってないで集中する。シーツ斜めになってるじゃない」
監督していた先輩に叱られた。
ダメダメ、しっかり集中しないと。
お部屋のお掃除が終わったら、専属侍女たちは仕事がなくなるので休憩に入る。上級侍女の先輩方はお茶を楽しんだり外出なさる方もいるし、あらかじめ買い物などをお嬢様から頼まれている場合はそういう用事を済ますこともある。その場合は私たち下級侍女も荷物持ちで連れて行ってもらえるから、それが密かな楽しみだったりする。
だけど私には自由に使えるお金なんてないし、首都の華やかなお店を巡ったらどうしても色々と欲しくなるので、私は荷物持ちのお仕事は辞退させて頂くことにしている。
アルメル様は今日は荷物持ちで外出なさったみたい。
私はというと、見習いなので先輩に付いてお茶の淹れ方の練習や、ドレスの着付けの練習をしたり、礼儀作法の勉強をしたりと忙しい。覚えることはたくさんあるので、休んでいる暇なんてない。
そのほか週に二度ほど、先生をお招きして淑女教育を受けている。平民になった今となっては学んでも無駄かも知れないのだけど、無知であったがゆえにあんな愚かなことをしでかしたのだから、学べるものなら学んでおきたい。
教養は力で、武器だ。
先生への謝礼はかなりの負担だけど、元々高位貴族のご令嬢の家庭教師をなさる方なのだから仕方ない。公爵家がお手当を弾んで下さっているからこそ払えるけれど。
先生への謝礼をお支払いして、賠償を肩代わりしてくださったお嬢様への借金の月々の賦割り分を返済したら、高いお手当もほとんど残らない。それでも残ったら、それは元実家に送ることにしている。もう離籍して赤の他人になった身だけれど、それでも迷惑をかけたのは間違いないのだから、気持ちだけでも送らせてもらうようにするつもりだ。
そんなわけで、私には自由に使えるお金が一切ないのだ。まあ公爵家で働く限りは住む部屋も着る服も食べるものも困らないので、それでも全然問題ないはず。私が贅沢するのを我慢すればいいだけだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時刻は昼を迎え、上級侍女の先輩方は旦那様と奥様の給仕をはじめ慌ただしく働きまわる。でも今日はお嬢様がまだお戻りにならないので、お嬢様付きの私たちはまだ待機だ。
普段なら昼食前には戻って来られて、旦那様たちと昼食をご一緒なさるのだけど、今日は王太子妃教育が延びているのかしら?でも優秀なお嬢様に限ってそんな事はないと思うのだけれど。
お嬢様は結局、お昼のお茶の時間を過ぎてからお戻りになられた。何でも王妃様と王太子妃殿下に誘われて昼食とお茶をお呼ばれしたのだそう。
「貴女のこと、気にかけてらしたわよ」
そんなことを言われても、どう反応したらいいものか。
むしろご迷惑をおかけした身なのに。
「あと、王子殿下にもお会いしたわ。よろしく伝えておいてくれ、って」
何を?
いや本当に何を!?
もしかしてまだお怒りなの!?
いやまあ当然だし自業自得なんだけど。
あれ以来お会いすることも叶わなくて、まだお詫びも申し上げられてないのだけど!
「そういうのではなくてね」
お嬢様は苦笑しながら私に笑みかける。
「元気でやっているか、体調など崩していないか心配なさっていらしたわ」
思いがけないお言葉に、私は思わず泣き崩れてしまった。
私は殿下の将来を奪ってしまった重罪人で、恨まれているとばかり思っていたのに、まさかそんなお優しいお言葉を頂けるなんて。
ああ、やっぱり殿下はお優しくて素敵な方だ。
本当なら、今頃お嬢様との婚姻準備にお忙しくなさっているはずだったのに。
「今の貴女なら、殿下にどうお応えすればいいか、分かるわよね?」
穏やかなお嬢様のお声に、ハッとして顔を上げる。
そうだ。私、泣いてる場合じゃないんだ。
しっかりと行動でお返しすることが、御恩に報いて贖罪する、たったひとつの道なのだから。
「わがり、まずっ。ひぐっ。わだじを選んで下ざっだ、殿下のお目がやはり正じがっだって、えぐっ。認めでもらえる、ようにっ」
「そうよ。だから泣いてる暇なんてないでしょう?そもそも一流の淑女は人前でおいそれと涙など見せないものよ」
「ゔぁいっ…!」
公爵家にお仕えし始めてまだ1ヶ月。
先生に付いて学び始めてからまだ5回。
侍女の仕事も、淑女のマナーもまだまだ。
賠償の支払いも、今はまだ払いきれるか分からないほど。
でも、それでも。
私は前を向いて歩いていける。
歩かなくちゃ、ではなく、歩いていくんだ。
それが、迷惑をかけた多くの人々への、歩いていく力をくれた全ての人々への、何よりの贖罪になるのだと、私はそう信じている。




