公爵家侍女は襲われる
ひとしきり街をブラブラ散歩し、そろそろ帰ろうかと馬車停まりへと足を向ける。ちょうどそこへ、向かいから女がひとり、歩いてきた。
女、だと思った。自分ほどではないが小柄で、やや華奢な体格をしていたから。
確信を持って言えないのは、その人物が外衣を身にまとい、フードを目深に被って顔を見せていなかったからだ。
まだ季節はそこまで寒いというわけでもない。なので少しだけ不審に思って、それで印象に残った。
念のために少しだけ離れて、充分な距離を取った上ですれ違ってやり過ごそうと考えた。
なのに、行き違う際にその人物は急に向きを変えてぶつかってきたのだ。
あまりに急なことで、避ける間もなかった。
身体同士が触れ合った瞬間、右の脇腹に猛烈な痛みを感じた。
「〜〜〜〜!?」
思わず痛んだ脇腹に目を向けた。
そこに、半分ほど刺さり込んだ短剣が目に入って驚いた。
服がみるみる真っ赤に染まってゆく。
血だ。
そう思った瞬間、脚から力が抜けてその場にへたり込んだ。
「あっははは!」
フードの人物が急に嗤い声を上げた。
聞いたことのある声だった。
見上げたら、憎悪の炎を両眼に宿した先輩が立っていた。
「いい気味!」
「せん…ぱい…?」
「先輩、なんて呼ばないで頂戴!貴女のせいで私は何もかも失ったというのに、貴女だけのうのうと公爵家の人間の顔をして!罪人の分際で!貴女も全部失えばいいんだわ!」
先輩、いやシュザンヌが勝ち誇ったように傲然と胸を張る。
外衣の下に着ている服は庶民の着ているような粗末な仕立てで、へたり込んだ状態から見上げることで何とか見えた髪はパサパサで艶も失っていて、顔も手も薄汚れて陽に焼けていたが、今のあたしにはそれに気付けるだけの余裕はなかった。
「どう?少しは思い知ったかしら!?」
勝ち誇ったように見下ろしながら、シュザンヌが言う。
一体何を思い知れと言うのだろう。貴女が全てを失ったのは、貴女自身のせいなのに。
震える手で、とりあえず短剣を抜こうと柄を握った。
痛い。とにかく痛い。早く抜かないと。
「ああ、それ抜かない方がいいわよ」
「………えっ?」
「抜けばそこから血が吹き出して止まらなくなって、貴女そのまま死ぬわよ?」
言われたことを飲み込むまで数瞬かかった。
死ぬ、抜けば死ぬ。
あたし………死ぬの………?
すでに猛烈な痛みが全身を支配し、思考も感情も痛みに塗り潰されている。抜かなければ死ぬと全身が警告しているというのに、それを抜けば死ぬ?
じゃあ、どうすればいいの?
誰か、誰か、助け━━
「助けなんて来ないわ」
フードを被ったまま見下ろしてくるシュザンヌの後ろに、いつの間にか男たちが集まってきている。いずれも質素な身なりで、誰もが下卑た笑みを顔に浮かべていた。
「そら。あんたたちにあげるわ。好きになさい」
シュザンヌの言葉を理解するのに、またしても数瞬遅れた。
あげる?好きにする?何を?
……………………あたしを?
「ハッ。アンタも趣味が悪い」
「刺されて死にそうな女を犯したがるあんたたちに言われたくないわね」
「ハハッ、違ぇねえ!」
犯す。
いくら痛みに頭が回らなくなっていても、その言葉の意味するところくらい分かる。
つまりシュザンヌは、自分を刺して殺そうとしただけでなく、死ぬまでにこの男たちに犯させて、身も心も尊厳も、そして命も、自分の何もかもを奪おうとしているのだ。
なんであたしがそんな目に遭わなくちゃならないの?
冗談じゃないわ、逆恨みにも程がある。
だけどオーレリア先輩は今一緒じゃないし、公爵家の馬車が待っているはずの馬車停まりはまだもう少し先にあって、馭者さんも今のこの状況にはきっと気付いていないはず。
周りの通行人たちが気付いているかは分からないけど、この状況で声をかけて来ないということは、きっと見てみぬふりをされている。
助けを呼ぼうにも、痛みと恐怖で身体が震えて、上手く声が出せない。どうにかして助けを呼ばないと、あたし、このままこいつらに蹂躙される。
と、そこでオーレリア先輩の顔が脳裏を過ぎった。
そうだ、通信鏡。
あれどこ入れたっけ?………ああ、そうだ。腰のポーチの中。
震える右手をポーチの中に突っ込んで、手探りで手鏡を探し当てる。手当り次第に接続器を押しまくる。
繋がれ、どこか。どこでもいいから。
「さあ、さっさとその娘を連れて行きなさい!」
その声とともに、右腕を捕まれ無理矢理に身体を引き上げられた。その反動でポーチから手が離れてしまう。
「〜〜〜っっっ!」
あまりの痛みに声さえ出ない。
耐えるので精一杯。
すでに全身から脂汗が噴き出ていて、顔から血の気が引いているのが自分でも分かる。歯の根も噛み合わない。傷口が熱く、それ以外から急速に熱が奪われ始めている。
「そら、自分でしっかり立ちな!」
そう言いながら、男のひとりがフード付きの外衣を被せてきた。男たちに囲まれ、こんなものを被せられたら短剣で刺されてるなんてぱっと見には分からなくなってしまう。
「いた……、いたい………!」
「知るか」
「ヘヘッ、姉ちゃんも災難だねえ」
「俺たちゃあんたに恨みはねえが、あんたの身体はありがたく使ってやるからよ」
「いや………!」
精一杯抗ってみても、力の入らない身体はほとんど無抵抗で、あっという間に近付いてきた脚竜車に押し込まれてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
狭い車内に転がされて、そのまま一体どれくらい揺られていただろうか。ずいぶん遠くまで連れ去られたと、朦朧とする頭でもそのくらいは理解できた。
だけどきっと、首都の城門は抜けてはいない。抜ける時には脚竜車の中を改められるはずだし、そもそも停まることも役人が車内を覗き込むこともなかったから。
だけど、それなら、どこに運ばれたのだろう。
あんまり遠いと、助けが来るまでに時間がかかり過ぎてしまう。間に合わなければ、終わりだ。
脚竜車が、スピードを落として停まった。自分を足元に転がしておいて座席を独占していた男たちが次々と車外に出て行く。
最後に残った下っ端らしきふたりに乱暴に立たされて、ふらつく足であたしも車外へと引きずり出された。
そこには、家とも呼べないボロ小屋が建ち並んでいた。
いや正確には、小屋だったものが並んでいる。
スラムだ。そう理解した瞬間、自分の運命までも理解した。
スラム街なんかに入り込んだ日には、死体すら見つからなくても不思議はない。
「おら、さっさと入れ」
男のひとりがボロ小屋の扉を開け、後ろから別のひとりに背中を小突かれて押し込まれる。
「いや………」
抵抗したのは声だけで、身体の方はすでに抵抗する力さえ失っていた。
いっそ意識も失えればどんなに良かったことだろうか。だが痛みに苛まれる身体も頭も、意識を手放そうとはしてくれなかった。
小屋は文字通りの“小屋”で、中は屋根と壁と床だけで間取りも何もなかった。だがそれでも、大人の男が10人ほどは寝られる程度の広さがあった。
その床の壁際にボロボロのテーブルが置いてあって、両側にこれまたボロボロのソファが二脚据えてある。テーブルとソファが端に寄っているせいで、それ以外の場所が広く使えるようになっている。
広く使えるということは、つまり━━
ドン、と背中を押されてその広い床に倒れ込んだ。咄嗟についた手の平が痛んで思わず手をどける。床がささくれていて手に刺さったのだ。
うそ、やだ。
こんな所で!?
だがそう思う間もなく、数人が早くもベルトのバックルを外し始めている。
「まあ、待てお前ら」
真っ先に脚竜車を降りて小屋に入っていった男が、ソファを独占してふんぞり返りながら声を出した。
「んだよ兄貴、俺たちゃ後回しか?」
「そうじゃねえ。お楽しみはもうひとり来てからだ」
兄貴、と呼ばれた男がいっそう下卑た笑みを浮かべた。
きっとこの男がリーダー格なのだろう。その証拠に、周りの男たちは文句も言わずにその言葉に従う姿勢を見せている。
もうひとり?まさか、オーレリア先輩まで!?
「なあ嬢ちゃんよ。それまでちっとお話ししようじゃねえか」
あたしは話すことなんてないんだけど。
だけど、今ここで時間を稼がないと助けが間に合わないかも。
「はなしって、なに………?」
「なあに、簡単なことよ。嬢ちゃんがもっと金を積めば、あんたを助けてやって代わりに復讐まで請け負ってやろう、ってな話だよ」
リーダー格の“兄貴”がとんでもない事を言い出した。その目がどこまでも欲と金だけを映しているように見えて、空恐ろしさに思わず喉が鳴った。
「あ、あたしが誰だか解ってるの?」
「話は聞いてるよ。公爵家の侍女なんだろう?」
「分かってるなら、す、すぐに解放しなさいよ。さもないとあんたたち全員、命はないわよ」
「心配いらねえよ。この仕事が終われば俺たちゃ全員首都から散り散りに逃げる算段なんでね」
「に、逃げられるわけないじゃない。アクイタニア公爵家の力を甘く見たら、ほ、本当に死ぬわよ」
ダメだ。声が震えて、ちっとも脅しにならない。
相変わらず脇腹が痛いままで、でも熱はあまり感じられなくなっていて、何故か少し眠い。
疲れた。ちょっと眠りたい。
「おおっと、眠っちまったらそのまま死ぬぜ、嬢ちゃんよ」
「うそ………」
短剣抜いても死んで、眠っても死ぬの………?
じゃあどうすればいいのよ………
その時、急に腰からポーチを引ったくられた。
ポーチを引ったくった男は無遠慮に手を突っ込んで中身を物色する。止める間もなく男は財布を見つけ出した。
「おほっ、金貨入ってんじゃねぇか!」
ちょっと待ちなさいよ、それあたしの全財産なのよ!金貨が3枚、銀貨が3枚(約3万6千円相当)で、それ以外に残ってるお金なんて無いんだから!
だが精一杯伸ばした腕は、虚しく宙を掴んだだけで終わる。瀕死の娘の伸ばした腕ごときに捕まるような間抜けはいなかった。
「ちっ、このガキあんま持ってねえな」
「あっ兄貴、手鏡もありやすぜ」
それはホントにダメ。それは公爵家の財産だし、それを奪われたらもう助けなんて呼べなくなっちゃう!
「ん?この手鏡、なんか光って━━」
『全員、抵抗を止めて外へ出てこい』
不意に聞こえたその声は、何故か複数同時に耳へと届いて変な臨場感があった。
そう、それはまるで手鏡と小屋の外から同時に聞こえてきたような━━
「なっ!?」
「兄貴!外に騎士がいる!」
『速やかに投降すれば命ばかりは助けてやろう。ああ、すでに包囲しているから逃げ場などないと思え』
「やべえぞ兄貴、裏にもいやがる!」
あれ、この声。聞いたことあるような━━
「ちっ、なんでこんなに早く見つかってんだよ!?」
「わかんねえ!けどマジでやべえぞ!」
「どうするんだよ兄貴!」
「うるせえ!とりあえずてめえら、表の奴らに突っ込んで道を切り開きやがれ!」
「無茶言うなよ兄貴!外に何人いやがると思ってんだよ!?」
『返答は、なしか』
「いっ、いや!待ってく」
リーダーの男が叫び終える前に、扉が蹴り開けられた。
次の瞬間、騎士たちがなだれ込んで来て、男たちは全員が剣を突き付けられ組み伏せられた。
「無事ですか!?」
真っ先にあたしの元へ駆けつけて来てくれたのは。
「ら、らるふ、さま」
「気を確かに!今青の術師も来ますから!」
助かった。
助けに来て、くれた。
良かった。
そう思って安堵した瞬間、意識は手からこぼれ落ちるように途切れた。
【魔術と魔術師について】
「青の術師」とは治癒の術式が使える青加護の魔術師のこと。
この世界、魔力が世界の根源要素であり、森羅万象の全てが魔力で構成されている。
魔力は大きく五種類(五色)に大別され、それが黒、青、赤、黄、白の五色。森羅万象の全てはこの五色のいずれかの影響を受けていて、それをこの世界では「加護」という。魔力は森羅万象全てを形作るため、人間はもちろん動植物も無機物も、神々であってさえ必ずいずれかの「加護」を持っている。特定の加護の人々が同じ加護の神々を信奉することで宗教さえも成り立っているのがこの世界である。
[治癒]の術式は青加護のみが扱える「加護魔術」であり、そのため青加護の魔術師は治癒師として大変重宝される。全ての人間は魔力で構成されていて、つまり量の大小はあれど潜在的に魔力を内包しているため、青加護であれば[治癒]の修得が可能であり、修得してさえいれば本業が何であろうと必要な場面で「青の術師」として活躍することができる。もちろん、魔術師を本業として活動する者のほうが信頼されるのは当然のこと。
魔力の保有量には個人差があるので、一般的に魔力保有量が多いほど優秀なのは言うまでもない。保有量が極端に少ないと(魔力1)、自己の生命維持に回す分の魔力しかないため魔術が使えなくなる。これが俗に言う「魔力なし」で、全人口のおよそ1割ほどが魔力なしと言われている。一般的には魔力2〜4程度が大多数。
魔力なしは少ないけれど珍しいというわけでもなく、右利きに対する左利きのような感じで、特に差別や迫害の対象にはならない。
このほか、この世界で一般的な宗教である「神教」の青派の法術師(聖職者)が治癒を扱えるが、法術師は基本的に冒険者として活動する者以外は大半が神教神殿に入っていて、神殿で寄付をしなければ治癒が受けられない。




