リンファ
ガクが少女をおぶって自分の店に連れ帰ると、妻のフォンファが小さく悲鳴を上げた。
「なによガク、この子どうしたの? 血が付いてるじゃないの」
「血を浴びただけみたいだ。たぶん親兄弟が殺されて埋められたんだろう。でも見ろよ、随分と器量良しだ。これなら高く売れるぞ」
恐る恐るフォンファが覗き込むと、確かに可愛らしい。西方の血が混ざっているのだろうか、薄い茶色の髪に長い睫毛。鼻は形良く唇も可憐な桜色だった。
「とにかくこの血を洗い流して綺麗にしてみてくれ。どうするかはその後だな」
「そんなこと言ったってピクリともしないじゃない……ねえ、もしかして病気で死にかけてるんじゃないの?」
「そうだな。起こしてみるか」
ガクはペチペチと頬を叩いてみた。それから肩を揺すぶり、「おい」と声を掛ける。
「やっぱり死にかけ……」
フォンファが呟いた時、ようやく少女の目がゆっくりと開いた。薄い翠色の大きな瞳だった。
「おい、お前。名はなんという?」
ガクが尋ねると少女は首を振った。
「わからない」
「わからない? どこに住んでたんだ?」
「……わからない」
「親の名前は? 親戚は?」
少女は首を振るばかりだ。どうして森で倒れていたのか、どうして血まみれだったのかも何一つ覚えていなかった。
「頭が悪いのかしら」
「いや、どこかで聞いたことあるぞ。なんかの拍子にそれまでのことをスッポリ忘れちまう病気があるって。それじゃねえか? だから捨てられたんだろ」
「血まみれで?」
「なんか事情があったんだろうな。まあそれなら好都合だ。こいつはかなりの上玉だ、後宮にだって売れるぞ」
ガクは少女の顎をクイと持ち上げてじっくりと眺めた。
「後宮ったって、今の王さんはまだ子供じゃないの」
「王が成長してお盛んになった頃にちょうどいい年頃になってるだろうよ。後宮で上手くお手付きになりゃ、俺らにもおこぼれが回ってくるだろ。かと言ってあまり早く後宮に上げるといびり倒されて最悪殺されるからな、五年後くらいにしよう。それまでに炊事洗濯、読み書き計算は教えといてくれ。まあつまりお前の手伝い、下働きだな。後宮に売れなけりゃ娼館へ売るからどっちにしても損はない」
二人がペラペラと喋っているのを、少女はぼんやりと見つめていた。頭の中に霧がかかっているような気分だった。何か大切なことを忘れているような……。でも、いくら考えてもわからないのだった。
「おい、お前の名は今日からリンファだ。俺はガク、こいつはフォンファ。小さいけど二人で店をやってる。お前は今日からここで働くんだ」
「わかったかい、リンファ。返事は?」
「……はい」
「よし。返事はちゃんとすぐにすること。じゃあまずはその血を洗い流さなきゃあね」
台所の水甕から水を汲み、ぼろ布を浸すとフォンファはリンファの顔についた血をぬぐい始めた。
「あらぁ、本当に綺麗な子だね。色も白いし。あんた、やっぱり目利きだわ」
「ふふん、そうだろう。お前を選んだのもいい判断だったと思ってるぜ」
それを聞いたフォンファは少し顔を赤らめて微笑んだ。
ガクとフォンファは娼館で出会った。あまり器量の良くなかったフォンファは人気がなく、暇なので帳簿付けなどの裏方仕事も兼用させられていた。そのため読み書き計算がしっかり身についており、店を開くのに有用な嫁を探していたガクの目に留まったのである。人気がないので身請けの額も少なく済んだし、ガクにとってはお得この上なかった。
フォンファはガクが損得で動く人間で、自分を愛してるわけではないことはわかっていた。だが暴力も振るわないし、仕事も真面目にしているガクに身請けしてもらえて良かったと心から思った。そして今では、ガクを深く愛しているのだ。
「お前もそろそろお腹が大きくなって動きにくくなるだろうから、リンファにいろいろ用事をやらせるといい」
子供を身籠もっている自分の身体のことも考えてリンファを連れて帰ったのかと、フォンファはさらに嬉しく思った。子供が生まれたらリンファに子守りをさせることもできるだろう。
「リンファ、そういうことだから。よろしくね」
「はい」
リンファはまだあまり事態を飲み込めていなかったが、さっき言われたようにすぐに返事をした。目の前にいる人たちは怖い感じはしなかった。だから逃げ出したりせずこの人たちの言うことを聞いておこうと幼いながらに判断したのであった。