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頬を叩く乾いた音が響く。もともと細いその身体は衝撃を受け止めきれずよろめく。当たり前のその動作でさえ罪であるかのように、蔑んだ声が彼女を責め立てた。
「本当にお前は何も出来ないな」
「おじさん、それくらいにしてやってください。雅を追い詰めたのは、たぶん…俺ですから」
「お前が謝ることは無い。これだけ恵まれた環境にいながら努力を怠り、一般の出の人間に追いつけないばかりか、嫌がらせをしてその後始末も出来ないようなこの木偶が悪いのだ」
「彼女は…小春は素晴らしい人です。雅が勝てなくても無理はありませんよ」
「本当に、お前には悪いことをした。これが屑だとわかっていたら婚約などさせなかったのに」
「いえ、おかげで僕も女を見る目は養われたので。それでは、僕はもう帰ります」
「じゃあ雅、二度と彼女に関わらないでくれ」
弁解も、反論も、彼女には許されていなかった。彼らは何を言っても聞く気などない。
だけど、違う。
彼女の努力は、彼が1番知っている筈だ。
追い詰めている自覚があって、何もしなかったくせに。
彼女の細い肩に全ての罪を乗せることを、当然だとすら思っている。
許せない。絶対に許さない。
こんな未来にはさせない。
何を犠牲にしてでも、あの人を幸せにしてみせる。
お、落ち着け。落ち着けわたし。
鏡の前でチェックは散々した。心配した祥太が泣き出す位はした。
起床は6時。準備にかけたのは3時間。と、昨日の5時間。睡眠時間はしっかり8時間。待ち合わせ場所に着いたのは今…10時半。
ちなみに待ち合わせは午後1時。
何なんだお前と言われても仕方ない。
今日は12月23日。
なんと、雅さんにデートに誘われてしまったのだ!
事の発端はつい1週間前。模試で雅さんと遭遇した樹が、「お前に話したいことがあるって、23日暇かって言ってたぞ」と、雅さん…の、お付きの運転手さんの連絡先を渡してきたのだ。くっ…ガードが固い。
その運転手さん(清水 光輔さんというらしい)を通じて今日の待ち合わせに至ったというわけだ。
それにしても、樹でなく私に話したいことってなんだろう?
つい頭に浮かぶのは、雅さんの恋愛事情について。
妹の私に協力を求めるってことならわかるけど…雅さんがそういうことするの、あんまイメージにないなあ。私の偏見かな?
そんなことを考えていると、横から肩をトントンと叩かれた。見ると、黒服の男の人が呆れたような顔で立っている。
この人、なんか見覚えあるような…
「…まだ11時ですが、何をなさっているんですか?約束は1時の筈では?」
なんでそれを知ってるんだろう?
失礼とは思いつつ、まじまじとその人の顔を見る。
…やっぱり見たことあるような……あ!
「仕事人さん!」
「清水です。…まあ、顔を覚えてなくても仕方ないですね。失礼しました。…ところで、こんな早くから何を?」
「遅れてはいけないと思って、2時間前集合をしていました!」
「……………はあ……」
清水さんは頭に手を当ててそれはもう深いため息をついた。いえ、言いたいことはわかりますよ?でも仕方ないじゃないですか。雅さんより前に来て、「待ちましたか?」「いや、今来たところです」ってやりたいじゃないですか!
「…本当は、昼食にもお誘いする予定だったのですが…お兄さんが、『あいつが3時起きとかしないように午後からにしてくれ』と……まさかと思いましたが…はあ……」
大きなため息をもう一度。そんなにため息をついて幸せが逃げないのだろうか?まあ私はこれから幸せを供給して頂くので他人のことなど気にしないのだが。
それにしても、樹には私の思惑はバレバレだったらしい。そういえば昨日寝る前にも、『明日は用事あるんだから、もっと遅く寝て遅く起きろよ』とか訳の分からないこと言ってた気がする。もうちょっと上手く気遣えよ。下手か。
「すみません、どうしても気が逸ってしまって…」
「…まあ、そこまでお嬢様が愛されていると思えば、あなたを責める気にはなれませんが…とにかく、せっかくなので昼食をご一緒しましょう。この先の店でお嬢様がお待ちです」
「え?」
「もしかして、もう食べ終えてしまっていますか?」
「い、いえ、まだですけど…いいんですか?」
「是非。もともとお嬢様がお望みになったことです」
無表情の清水さんに着いて行きつつ、少し不安が募る。
どう考えても、雅さんが行く飲食店と私が行くそれじゃ、格が違うよね?
どうする?私今、何円持ってたっけ…?
「ああ、お誘いしたのはこちらですから、お代の心配はなさらず」
「えっ!?申し訳ないですよ!」
「いえ、私たちが連れて行くのですから。お嬢様をその辺の店に入らせるわけにはいきませんし、あのままあなたを待たせておくのも忍びない。ここは飲み込んでください」
「うう…すみません…」
こんなことなら、まともな時間に来ればよかった。いや、そもそも樹が変なことを教えるからいけないのだ。樹め。帰ったら理不尽な正拳突きをお見舞いしてやる。
そんなこんなで、清水さんは駅の近くにある大きなホテルの中まで入っていく。キラキラした高級感溢れる内装や人々の中で、庶民感満載の私は完全に浮いている気がするが仕方がない。
最上階のラウンジまで上がり、黒い大理石の壁に囲まれた個室に通される。真ん中に置かれた円卓には椅子が2つあり、1つには雅さんが座っていた。
私が来たことに気づくと、雅さんはスッと立ち上がってしゃなりと頭を下げた。
「御機嫌よう。本日は私の我儘を聞いて頂いてありがとうございます」
フィット&フレアの紺色の膝丈ワンピースを着ている。薄暗い中に照明で浮かぶシルエットが美しい。前に会った時より、少し髪が伸びていて、お辞儀をして肩からこぼれ落ちる時でさえも完璧なシンメトリーだ。
いや、前髪は右わけにしているから、完璧ではないのだけど。しかし、気持ち的には完璧だ。うん。
「こ、こちらこそ、お誘い頂いて嬉しいです。お昼ご飯まで…その、ありがとうございます」
「いえ…気を遣わせてしまってすみません」
控えめに微笑む雅さんは今日も美しい。
清水さんが雅さんの正面の椅子を引いて私に着席を促したので、会釈してから座った。
するとすぐに個室の扉が開き、スーツを着た女性が銀色のワゴンを押して入ってくる。聞けば、彼女は雅さんの護衛なのだとか。
出されたのは、ソースの輝きが違う気がするデミグラスソースのハンバーグと、コーンポタージュに、サラダとライス。ファミレスかよ、とつっこんだそこの君。これを食べたら、ファミレスでハンバーグとかもう食べられないぞ。それくらい美味しい。
「美味しいですか?」
「はい!」
微笑ましそうな雅さんに見られるのは少し恥ずかしいが、美味しいから仕方ない。やばい。
私がなにを食べるか、と樹に聞いたところ、『肉…ハンバーグでも出しとけばいいと思います』と返ってきたらしい。正拳突きにアイアンクローもプラスしよう。
いや、ハンバーグが好きなのは事実だけど!
優雅に食べる雅さんに対し、私の食べる姿は見苦しいことこの上なかったと思うが、雅さんも清水さんも、料理を運んできてくれた女の人も、終始暖かい目で見守ってくれていて、お金持ちって器が広いんだなあと思った。
そして、食後の紅茶を飲んでいると、雅さんが「今日の要件なんですが」と話を切り出した。
そうそう、そういえば話があるって呼ばれたんだった。ランチとデートに浮かれて忘れていた。
咄嗟に居住まいを正す私に、雅さんが封筒を渡す。サイズは手紙を書く一般的なそれと同じだが、手紙にしては少しぶ厚めな気がする。
「これを樹くんに渡して頂きたいんです」
「…これは…もしかして、恋文…」
ま、まさか本当に私がキューピッドを…?
「ち、違います!これは…清皇のルールや、暗黙の規則を書いたものです。必要かと思いまして」
「あ、そういえば樹が聞かなきゃって言ってたような」
「本当ですか?迷惑にならなくてよかったです」
雅さんは少しホッとしたような表情を見せた。
なんだ、そういうことか。ていうか樹のやつまだお願いしてなかったのか…。
受け取った封筒を眺める。普通の市販のものに見えるから、おそらく中身は直筆だろう。樹が困らないように、時間を割いて書いてくれたもの。
「…雅さんは、樹が清皇に行ったら嬉しいですか?」
「?…はい、もちろん」
「それは、樹のことが好きだからですか?」
雅さんが目を僅かに見開く。私は出来るだけ深刻な雰囲気になってしまわないように、緩く首を傾げてみた。
「私は…」
すぐに「はい」と返ってくるとばかり思っていたから、迷ったような雅さんを見て少し意外だった。
もしかして、まだ自分の気持ちがわかってない、とか?
「私には、婚約者がいます」
しかし、少し眉を下げて雅さんが言ったのは、そんな言葉だった。
「今、両親にいる子供は私と3つ下の妹だけです。事業を誰が継ぐとしても、より鈴木の家を盤石にするために必要な結婚です」
「…雅さん、答えになってません。樹のことはどう思ってるんですか」
「ですから、婚約者がいると申し上げております」
今度は眉を下げずに、ニッコリ微笑んで言う。
よそ行きの顔だ。愛想だけの。
短い時間だけど、笑う雅さんを見てきたからわかる。
婚約者がいる、という頑なな答えの意味がわからない訳ではない。
家のための婚約者がいるから、ほかの男への恋心など間違っても口には出せない。雅さんが言っているのはそういうことだ。
だって、「樹くんはお友達です」とは言わないじゃないか。
「…ごめんなさい。変なこと聞きました」
「いえ。お兄さんに近づく変な女がいれば、気になるのは当然のことですわ」
「いや……はい」
変に否定するべきじゃないと思って、素直に頷いておく。雅さんはようやく愛想笑いを解いて、ゆるりと笑った。
「あ、そうだ。雅さん、この後ちょっと時間ありますか?」
「はい、問題ありませんが」
「じゃあ、この手紙と、お昼ご飯のお礼に、何かプレゼントさせてください!ちょうどクリスマスですし!」
そう言って、申し訳なさそうな顔をする雅さんを半ば無理矢理駅のデパートまで連れて行く。雅さんがなんでもいいと言うので、何が良いかなあと思いながらぼんやり店を眺めていると、髪飾りなどを売る雑貨屋(ただしちょっといい感じのクラスの)の前で、私の視線は吸い寄せられた。見ると、雅さんもそれを見ている。
「これ、いいですね!」
それは、鈍い金と銀の…あの、名前わかんないけど透鍔みたいな下地に、少し大きめのエメラルドグリーンの蝶があしらわれたバレッタ。同じ色の小さな宝石が少しずつ散りばめてあって、微かに光っていて美しい。手にとって雅さんに当ててみれば、蝶が持つ妖艶で華やかな雰囲気と、雅さんの黒髪と和風美人な顔立ちが絶妙にマッチして、なんかもう、天才?これを作った職人を神官として祀りたい。鈴木 雅教教祖椿 湊ですよろしく。
「ええ…」
「これにしていいですか?」
「あ、はい…本当に、よろしいんでしょうか…」
雅さんがかなり不安そうな眼差しをしている。可愛い…じゃなくて。たしかに、お値段は割といかつい。だけど雅さんが普段付けているものと比べればかなり安物だろうし、私の今の所持金で足りる程度だ。
「はい!私が雅さんにプレゼントしたいんです!それに、あとで樹にも金を出させますので、お気になさらず!」
「…では…本当に、ありがとうございます。大切にさせていただきますわ」
私が何を言っても引かないだろう上に、このまま遠慮し続ければ逆に私に失礼だと思ったのだろう。雅さんは申し訳なさそうに、だけど本当に嬉しそうに、蕩けるような笑顔でそう言った。
会計を終えてバレッタを渡すと、雅さんは護衛の女の人に頼んで、そのバレッタで髪をハーフアップにしてもらった。
うん、やっぱり似合ってる。世界一だ。
「私、今まで同年代の女の子と、こんな風に過ごしたことがなくて…はっきり言えば、友人がいなかったので…今日は、本当に…本当に、夢のような日でした」
雅さんのご厚意で家まで送ってもらう車の中で、ひっそりと彼女は言った。
清皇での雅さんはわからないが、あまり人付き合いが出来ていないのか。ああ、だから中等部最後の学園祭を私たちとずっと過ごすなんてことができたのかもしれない。
「重いと感じられるかもしれませんが…今日のこと、私は一生忘れません。嘘ではありませんよ。ずっと、覚えています」
私は嬉しくて鼻の下を伸ばしきっていたけれど、雅さんの顔はどことなく泣きそうだ。
嬉し泣き寸前ってことなのかな?
家の前で車を降りて、ありがとうございましたと頭を下げたあと。こちらこそと雅さんが言って、窓を開けたまま車が走り出す直前。
「さようなら」
囁くように言われたそれに、私は「さようならー!」と大声で応えた。
あとでお母さんに怒られたけど。
それが12月23日のこと。
そして。
「私を誰だと思っておりますの?清皇生でもない庶民の分際で、近寄らないでくださるかしら」
蔑んだ目で私を見下ろす美しい顔。
先程見た後ろ姿には、黒髪に映える蝶のバレッタ。
これが、年が明けた4月、樹の入学式でのことだ。