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私の名前は椿 湊。
幼い頃から、私は一つ上の兄、樹と比べられて生きてきた。
両親に、ではない。兄にでもない。全く関係のない周りの人間に、だ。
私の兄は、勉学という一点で、他とは比べ物にならないほどの情熱を燃やす人だった。
赤ん坊の頃は良かった。周りの見る目が私達を比べ始めたのは、小学生に上がってからだ。
小学一年生の冬。共働きで忙しい両親は、兄を預けていた学童の職員からの電話を聞き、驚愕することになる。
『おたくの樹くんが、6年生の子と宿題を交換しているんです。無理にやらせているのかと思ってその子を叱ったら、樹くんが、1年生用のドリルはつまらないから無理を言って交換してもらったって…。嘘だと思ったんですけど、本当にスラスラと解いていて、周りの子達も彼は6月くらいからずっとそうだって言うし…』
両親は慌てて兄を問い詰めた。つまらないとはどういうことだ、6年生の内容が本当にわかるのか、いつ誰に教えてもらったんだ。
それに対する兄の答えはこうだ。
『わからないところは、6年生に聞いた。最初は本当にわからなかったけど、できるようになった。わかる、が6年生のドリルが解けるかって意味だったら、わかる』
これが小学校に入学して7ヶ月あまりの男児の答えである。
そして小学校3年生になる頃には、兄は天才と呼ばれるようになっていた。その頃の兄のお気に入りの本は、高校入試の過去問集だった。誕生日やクリスマスには、紙の束と鉛筆と消しゴム、それから分厚い3000円くらいのその本を2校ぶんくらい強請り、時間を計って1週間に1教科ずつ解いていくのだ。うんうん唸りながらも楽しそうな兄の横顔を、今も覚えている。
その頃には、私は兄との実力の距離を実感していたように思う。
両親は兄が異常だと知っていた。両親は、自分たちは平凡だという自負があった。
だが、周りはそうは思わなかった。では、妹は?と考える。兄と比べられたとき、私は粗雑で乱暴で、あまりにも子供じみた、平凡でしかない人間だった。
ちなみに私がその頃ハマっていたのはプロレス観戦だ。
平凡であることを、憂いたことはない。
兄と違うことを嘆いたこともない。
なぜなら、私にとって兄は壁ではなかった。前を歩くものでもなかった。
その昔、兄のことで、同級生の男子にからかわれたことがある。
『お前、にいちゃんの残りカスなんだってな。もうちょっとマシに産んでもらえれば良かったのにな』
その日、私は授業で当てられた箇所の音読が上手くできなかった。(その時の兄は、新聞の経済欄であっても淀みなく朗読できた)
残りカス、という言葉の意味を彼が知っていたのか、誰から聞いたのかは定かではない。その時私が感じたのは、とてつもない羞恥と悔しさだった。音読でつかえる子なんて、全く珍しくもない。どうして私だけがこんなことを言われなければならない。お母さんは私をしっかり産んでくれた。私は私だ。兄とは別の、ひとりの人間だ。
それだけのことが、齢9歳の幼い私には口に出せなかった。溢れる感情は涙になる。調子づいた彼がもう一度馬鹿にしようと口を開いたとき、咄嗟に俯く私の顔をだれかが乱暴に上げさせた。
『お前、泣いてるのか』
困ったような顔の兄がそこにいた。
兄は私の顔を袖口で乱暴に拭って、1つ上とはいえ上級生の乱入に怖気づいたその子に向き直った。
『俺の妹は馬鹿じゃない。俺が賢いだけだ』
台無しである。さらに兄はこうも続けた。
『こいつは俺と違って辛抱強く机に向かうことはできないが、俺はこいつみたいに可愛く笑って人と話すことはできないし、素直に相手を喜ばせる言葉も持ってない。どっちがいいかは、聞く人による。だけど』
こんなに饒舌な兄は初めてで、私はらしくないと思った。後から知った。あの兄は怒っていたんだ。
『俺はこいつはすごいやつだと思うし、それがわからないお前の方が馬鹿だと思う』
結局その後どうなったのか、よく覚えていない。
ただ、さっきまで泣いていたくせに、兄の言った言葉と、兄が手を繋いで帰ってくれるということが嬉しくてニコニコ笑いだした私を、兄が不思議そうに眺めていたことは思い出せる。もう大丈夫なのか、突き飛ばされたりはしていないのか、と聞きながら。
兄は壁ではなかった。
私の手を取って、歩いてくれる人だった。
「…いま、なんて?」
そんな日から成長して、今の私は13歳。あと数ヶ月も経てば中学2年生である。兄の樹はこの春から受験生になる。
まあ、樹にとっては高校など、今ですらどこも受ければ受かるといった状態なのだが。
そんな時、食卓で樹が放った一言に、私の脳はぐらぐらと揺れていた。
「高校は、清皇にする」
清皇。私立清皇学園高等学校。
名だたる公立高校や私立高校を抑え、県内…いや、全国で見てもトップクラスの偏差値を誇る高校だ。
「な、なんで!?あそこ、めっちゃ大変だと思うよ!?」
「そうそう!湊からも言ってやってよ!お母さんたちは学費だけを問題にしてるんじゃないのよ!?」
うろたえて突っかかる私に、母も必死で援護する。
清皇学園は、偏差値だけでなく、有名国公立への進学率も半端ない。
それもそのはず。
初等部から大学まである清皇学園グループには、選ばれた名家の令嬢子息でしか入ることができない。将来、日本の経済や文化を担っていく人材の育成が確約されているのだ。通うのは大物政治家の息子や、外国のトップ企業の令嬢など、一般市民とは程遠い教育を受けてきた方々だ。
偏差値で人の価値が決まるわけではけしてないが、いち会社のトップとして、数万単位の人間の生活を担う身で、ほかの人間に付け入らせる隙があってはならない。
そんな意識が、彼らを勉学、ひいてはスポーツまでにも打ち込ませる。
一応特待生制度はあり、一般生にも門戸は開かれている…が。
「清皇学園は、良家の子どもが公の場での振る舞いを学ぶ意味合いで社交パーティーも多いと聞くよ。それに一般市民にはわからない暗黙のルールばかりだと言うし、普通の家庭の子ともロクに打ち解けられない樹がそんなところでうまくやっていけるとは父さん到底思えないなあ」
「そうだよ!このコミュ障!お嬢様に『ごきげんよう』とか言われても『アッハイ』って逃げるしかできないくせに!このヘタレ!」
「にいちゃんやめときなよ、むりだよ」
「せめて顔がはじけるほど良ければねえ」
「酷すぎないか!ていうか母さん、顔は関係ないだろう!ほっといてくれ!」
5歳の弟、祥太までも加わってボロクソに責め立てられ、樹は頭を抱えた。しかも、途中から明らかに脱線している。
このままじゃ駄目だと思ったのだろう、樹がもう一度顔を上げた時、そこには気圧されてしまうくらいの真剣さがあった。
家族は思わず息をのむ。
私の兄、樹は、勉学という一点で、他とは比べ物にならないほどの情熱を燃やす人だ。
「成績だけじゃやってけないってことくらいわかってる。だけど、その辺の高校で適当に1番になるなんて嫌なんだ。日本のトップ…いや、海外からも集められた人材の中で、俺は『勉強』がしたいんだ。特待生は絶対取ってみせる。なんなら首席で合格するって約束するから、お願いだ」
両親は困りはてて顔を見合わせる。
お転婆な私や末っ子気質の祥太と違って、樹はわがままらしいわがままを言ったことがない。樹が欲しがるのはいつも、分厚い問題集や、何学年も上の教科書、そしてそれを理解するための時間。
そんな樹だから、両親はどうするべきか迷っているようだった。特待生制度で学費は無料になるだろう。樹が持ってきたパンフレットによると、上位5位に与えられるS特待は教科書代や制服代にも割引がきくらしい。首席には、学食無料券までつく。
しかし、両親は金銭的理由で渋っているわけではない。
自分たちの想像も及ばない場所で、完全未知のトラブルが樹に起きて、それで樹が傷ついてしまったら。
もしも、樹の未来が閉ざされてしまったら。
母の不安げな顔を見て、父は大きく息を吐いた。
「…わかった。もう父さんは反対しない。お前の好きにするといい」
「ちょっと、お父さん…」
「こんな樹を見るのは初めてだよ。…正直、ここから説得できるビジョンが全く見えない」
「まあ、そうだけど…」
結局は母も折れたようだ。樹は嬉しそうに「ありがとう」と言った。
「まあ、俺も不安がないわけじゃない。清皇のルールについて教えてくれる人には、当てがあるんだ」
「当て?」
「ああ、小6くらいから、清皇に知り合いがいてな。別に仲良くはないんだが、まあ頼めば教えてくれるだろ」
「清皇にツテがあるなんて、全国模試1位は違うわね…清皇ってことはいいトコの子なんでしょ?なんていうの?」
「なんだっけ…鈴木……………?」
「覚えてないの!?そんなんでよく当てとか言えたわね!」
両親は盛大に呆れていた。祥太ですら、白い目を向けている。
椿 樹とは、どこまでも他人に興味が無い人間なのだ。
どうせその子の顔もあやふやに違いない。
ところで私は、さっきから謎の焦燥感に駆られている。樹の口から『鈴木』と聞いたときから、謎の動悸が止まらない。清皇学園。鈴木。幼い頃から知ってる単語の筈なのに。
「ーーっあ!思い出した!雅!鈴木 雅だ!」
「ミヤビ?それはまた…雅な名前だねえ…」
「お父さん、つまらないわ」
清皇学園。鈴木 雅。
なんてことだ。
---私は、その人を、知ってる。
「ご、ごめん!ごちそうさま!!」
居ても立っても居られなくなって、片付けもせずに夕食の席を立って自室に逃げ込む。適当なノートを取り出して、溢れてくる記憶を必死で書き留めた。
それは、前世の記憶、というものかもしれない。
勉強漬けの日々。ひとりっ子の私にのしかかる、優秀な両親からの期待。厳格な両親にバレないよう、お小遣いを貯めてこっそり買ったゲームの数々。
その中でも、メインキャラに一目惚れして、一作だけ買ってしまった乙女ゲーム。
『恋は春の訪れとともに。』
一般家庭で育った主人公、桜庭 小春は、12歳で両親を失ったあと金持ちの叔父夫婦に引き取られ、清皇学園のある県内へと越してくる。実の両親を忘れられず反発する小春の心を3年間優しく包み込んでくれた叔父夫婦のために、なにかできることはないか、と夫婦に聞いたところ、夫婦は笑ってこう言うのだ。
『なにも、お前が健康でいてさえくれれば満足だよ。けど、はは、そうだなあ。清皇学園の人たちと肩を並べるくらいまで立派になってくれれば、もう万々歳かなあ』
小春はその叔父の冗談をきっかけに清皇学園に憧れを持つようになり、2年生で公立高校から清皇学園に転入してくる。
そこからゲームが始まるのだ。
ざっと覚えている攻略対象を書き出したところで、私は思わず頭を抱えた。
「樹、攻略対象じゃねぇか…!」
思い出した記憶の中に、たしかにあった。
途中入学であれど、成績優秀な小春の前に立ちはだかる高い高い壁。小春と同じく一般生でありながら、その圧倒的な実力差で学園から一目置かれる絶対的首席、椿 樹。裕福ではあれど叔父夫婦に迷惑をかけたくない小春は、少しでも学費を減らしたい。特に、不必要なほど高級な学食費を。(安全上の理由から、清皇学園は全寮制なのだ。)しかし、樹がいる限り、絶対に首席にはなれないのだ。樹は自分より下位ながらも直向きに努力して自分に肉迫する小春に、いつしか興味を抱き、それは恋心へと変わっていく。
前世の私は「フツメンだし、まあいっか」と思ってかなり雑にクリアしたのだが…。
スマン樹。真剣にやっとくべきだったかも。
と、まあ乙女ゲームであれば、付きものなのがライバルキャラだ。『恋は春の訪れとともに。』でそれを務めるのが、さっき樹の口から飛び出た鈴木 雅。
誰を選んでも出てきて、一般家庭生まれの小春を激しく侮蔑し、いじめ、邪魔をする。彼女の祖父は日本で二大巨塔と言われる財閥の会長のため、教師ですら彼女を止められない。
そんな彼女は、樹ルートでは…たしか、自分の婚約者である男子生徒より小春が上位なのが気に食わず、「下々の血しか流れていないくせに、名だたる良家の子息令嬢に泥を付けたばかりか、我が清皇の首席である椿様を籠絡しようとなさるの?」などとだいぶ理不尽めの理由で小春をいじめるはずだ。そして最後には断罪され、「椿様に勝てないくらいで何なのよ!私だって、あなたに勝ちたかった!これだけの人間を踏み台にしておきながら、どうしてそんな被害者面ができるの!?」と喚き散らして、主人公を叩いた結果、素行が問題視されて、一族から絶縁された…はず。
ここまでノートに書いて、思わず唸ってしまう。
「樹チートかよ…小春と違って生まれも養親も一般市民なのに…」
だが、雅のことを脇に置けば、樹は清皇でもやっていけているようだ。あくまで、この世界と『恋は春の訪れとともに。』が一緒だとすれば、だが。
「でも、雅と樹が小6から知り合いなんて設定、あったっけ…?」
別に知り合っていてもおかしくはないのだが、樹は清皇のいろはを雅に聞くつもりのようだ。その場合、私の記憶よりも2人は関係が深いということになる。
そんなことを考えていると、コンコンと控えめに扉がノックされた。
「湊、ちょっといいか?」
樹の声だ。少し堅い、緊張した声。聞くのは久しぶりだった。
「い、いいよ。なに?」
慌ててノートを隠し、扉を開ける。
少し不安げな顔をした樹がそこにいた。
「いや…様子がおかしかったから……。俺が清皇に行くのは、そんなに嫌か?全寮制っつっても、申請すれば土日は帰って来れるし…その、まあ、上手くやるよ。湊には心配かけるかもしれないけど…」
「別に、心配はしてない。ほんとに」
夕食での態度から、誤解させてしまったらしい。キッパリそう言うと、樹は「そ、そうか」と少し落ち込んだように見えた。
もしかして、妹が自分を心配したと思って、嬉しかったのか?
蘇るのは9歳のときの記憶だ。乱暴に涙を拭ってくれたこと。同級生にからかわれながら、手を繋いで帰ってくれたこと。
共働きの家庭で、私たちは2人の時間が圧倒的に多かった。
「…樹なら、だいじょぶだよ」
いつも無愛想な樹が、嬉しげに微笑んだ。
これだけ見せれば、少しは女の子も寄って来ると思うんだけどな。
まあ、私も滅多に見れないし、寄って来なくていいんだけど。
椿 湊。乙女ゲームの世界に転生したようです。