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抱擁を解いたあと、ミミリアは真剣な表情でさくらに言った。
「最後に、お伝えしておかねばならないお話がございます。プリンシアは、神の姿をご覧になったことがありますでしょうか? 実は私、今回の件はすべて、神の作為のような気がしているのです」
「は、はあ……」
曖昧に相づちを打ち、続きをうながす。
するとミミリアは、重要な任務の報告をするみたいにひそひそと告げた。
「あの、私、病院送りになりましたと申し上げましたでしょう? そこで、とある方にお会いしたのです。その方とお話をしたあと、自然とこちらへ戻ることができました。まるで、私たちのその邂逅こそ、私が異世界へ渡った理由であるかのように」
「そ、その人は……ミュゼガルズにいる誰かと同じ顔をした人、とかですか」
「それが、少なくとも私は見たことのない方でした。私の話す言葉はニホンの言葉と違っていたので、誰とも会話ができなくて困っていたところ、その方だけは私と話すことができたのです」
ミュゼガルズから日本に渡った人か、あるいは、帰郷した歴代プリンシアの関係者か。
固唾を飲んで続きを待つと、彼女の口からこぼれたのは神の作為を感じずにはいられない名前だった。
「彼女はリコさんという方でした」
「そ、それって、みつあみの……っ」
身を乗り出して訊くと、ミミリアは悲しげに微笑んだ。
「ああ、やはり……ご存知でいらっしゃったのですね。リコさんから、あなたに伝言がございます。けれど、彼女は私と会うまでミュゼガルズの言葉は忘れたと思っていらっしゃったようなのです。正しい表現かどうか自信がないとおっしゃっていましたが、おそらく通じるのではないかと私は思います」
「な、何と、言っていたのですか」
心臓の音が耳の奥で鳴っている。時間軸がよくわからないが、『さくらと会ったことのある理子』からの伝言だというのなら、覚悟して聞かねばならないと思った。
ミミリアが一呼吸置いて口を開く。
「約束は果たした、と」
そのとき、扉をノックする音が響いた。
呆然としているところへ「人事官長官補佐の二名がプリンシアとの面会を希望されています」と乳母の声がかかって、にわかに冷や汗をかく。
彼らとはまったく面識がなかった。なんの用事で呼ばれたのかは考えるまでもない。
ジンに相談しようにも、彼は王と共に執務室へ行ってしまっている。彼が置いていってくれた騎士団員はまだ後宮の入り口で待機してくれているだろうが、長官補佐のほうが立場が上だろうから有無を言わせずさくらを会談の席へ促してくることもありえた。
行きたくはないが、話を聞くだけならなんとか耐えられるかもしれない。ノーヴァやあの少女のときみたいに、終わりがないわけじゃないから。我慢して聞き流していれば、きっとそのうちジンが連れ出しに来てくれる。
もしくは、リンナが。
さくらはミミリアと目を合わせて、会釈した。
「伝言……ありがとうございました」
それだけ言うと、気遣わしげなミミリアを置いて寝室を辞した。
後宮の入り口まで戻ったさくらは、近衛騎士と補佐二名が睨み合っているのを見て足を止めた。
騎士のほうは「約束もなく無礼だ」「礼を欠いている」と言って入り口で通せんぼしている。補佐二名のほうはグレーのコートをきっちりと着込んだ威圧的な姿で、何かの書類を差し出していた。
おそるおそる近づいていけば、にこりともしない補佐たちがいち早くそれに気付き「ご機嫌麗しく、プリンシア」と固い声で挨拶する。
いつもはさくらのそばにいた侍女がさくらの代わりに丁寧な挨拶を返してくれて、それに合わせるようにお辞儀をすればいいだけだった。なんと返せばいいのかとっさに思い出せず、いくらか口ごもってから「あ、あの、ご、ごきげんよう」と小さな挨拶をする。
だが彼らはそんな挨拶などどうでもいいと言わんばかりに、ごきげんようと最後まで言い終わらないうちに「こちらの書類をお渡しするよう長官から仰せつかりましてございます」とそっけなく用件を告げる。
近衛騎士が気色ばんでさくらと補佐たちの間に割り込み、いらぬと突っ返すが、補佐も負けていない。
「邪魔をしないでいただこう。疑わずともこれは長官直々に執筆された書類であるぞ」
「申し訳ありませんがお引き取りくださいませ。公的なものではない可能性がある場合、易々と受け取るわけにはいかないのです。プリンシアへお渡しするものはまず、我々の団長が検分する規則となっているはずですが」
「その団長とやらは今朝謹慎が解けたばかりでは? 長官の印があっても渡してはならぬと言うなら、今すぐ団長をここへ呼べばよい。ただし、もしも団長までもがこれを突っぱねるのなら、我々にもやり方というものがある」
「どういう意味でしょう」
「陛下から直接、プリンシアに渡されることになろうと言っているのだ。そうなれば心構えも何もない。我々は最大の慈悲として、これをここに届けに来ているのだぞ」
婉曲な言い回しだったが、さくらには補佐たちの言いたいことが充分伝わってきた。
さくらは震える足を一歩前に出し、もう一歩進み、また一歩前へと身体を動かす。近衛騎士が止めてくれたが、書類を受け取るだけならなんのことはない。素直に受け取ると、補佐たちは一分一秒でもここにいたくはないというようにさっさときびすを返した。
「プリンシア。我々は団長から、あなたのことをくれぐれもよろしく頼むと仰せつかっているのです。どうか不審な書類になど目を通されませんようお願い申し上げます」
「まったくです。その書類は我々が厳重に保管いたしますから、どうぞご安心くださいませ」
「い、いいえ」
さくらは、読んでみたいと思った。何が書かれているのか想像してみても良いイメージはまったく湧かないが、これが最後だという思いがあった。ミミリアと話せた今、そして理子からの伝言まで聞けて、さくらにはこの王宮に思い残すことなどない。
書類を抱きしめたまま、さくらは近衛騎士たちに連れられて彼らの居住区に向かった。王宮に隣接された騎士団塔は、宮廷全体を囲む防護壁ともくっついている。石造りで装飾はほとんどなく、ひたすら堅固で武骨な見目をした場所だった。ここが、貴人を護衛する近衛騎士と、宮廷すべてを守護する衛兵含め一般の騎士たちの生活拠点である。
さくらは出入り口近くの応接室に通され、小さくくりぬかれた窓が戸で塞がっているのをちらりと見た。
近衛騎士たちは重厚な石のテーブルにお茶とお菓子を用意し、四人座ってもまだたっぷりと余裕のあるソファにストールやらブランケットやら毛布やら、防寒具をやたら置いていってくれた。
「団長が戻るまで、こちらでお待ちくださいませ。もしかすると一晩明かしてしまうかもしれませんが、どうかご辛抱を。暖炉の火は、すぐに入れさせますから」
「す、すみません、おかまい、なく」
近衛騎士は、にこりと笑った。
「いいえ、ご不便おかけいたします。ご入り用のものがございましたら、扉をノックしてくださればすぐに応じられますので気兼ねなくご利用ください」
そして部屋に一人きりになったさくらは、気怠さを覚えてソファに横になった。
たくさんのことが一度に起こりすぎて、何から考えていいのかわからない。まさか知恵熱でも出たのだろうかというくらい、次第に倦怠感が強くなっていく。
暖炉に火が入れられ、夕食を用意してもらったが、さくらは食器に手を触れることなくソファに沈んでいた。
夜半、何度か意識が浮上した。
そのたびに部屋の外では誰かの話す声がしており、怒鳴っていることもあった。よくよく聞いてみれば、いつも同じ声が慇懃無礼な言い回しで訪問者を追い返している。訪れる者はなんやかやと理由をつけて中に入ろうとし、またある者はさくらへの面会を求めていた。誰も彼も別の部所からの使いであり、渡したい書簡があるらしい。
そういえば、とさくらは重い腰をあげ、暖炉のそばへ移動した。人事官から受け取った書類をかじかむ手で広げ、寝ぼけ眼を書面に落とす。
「あ……」
めまいがして、さくらは冷たい床に座り込んだ。眠気は覚め、心臓が早鐘を打っている。
紙の上の文字は、すべて、さくらへの苦情を表していた。いろんな筆跡で、丁寧な言葉遣いのものもあれば簡潔に箇条書きされたものもある。
アンケートでもやったのか、と思ったが、宮廷には意見箱が設置されていることを思い出して虚脱感に襲われる。何をしても枯れない涙が、ほろりと『意見書』に落っこちた。
いったい何人が、これを書いたのだろう。
直接さくらに帰還を求めるのではなく、外側からじわりじわりと攻める方法をとったのは、さくらの脆弱さをわかった上での判断なのだろうか。
最後まで読めない。読みたくない。苦しい。
鼻をすすって、それでもまた一ページ、一ページ、目を通してしまう。
今、外で押し問答しているどこかの部所の使いも、このような意見書を持ってきているのだろうか。
「申し訳、ありません……」
王も、これを読んだのだろうか。
さくらを帰還させるための署名は、相当数集められて王に献上されたという。
なのに王は、さくらに逃げろと言ってくれる。日本に戻ってもさくらの肉体はないと彼らは知らないから、まだ逃げる余地があると思ってくれている。
でも本当はないのだ。さくらが勝手に確信を抱いているわけじゃない。そうじゃなくなった。
理子からの伝言は、確かにさくらの死を伝えていた。もしも生きてベッドに横たわっていたのなら、帰ってこいと言ったはずだ。それがなく、ただ一言「約束は果たした」であるのだから、意味はそのまま受け取らなくてはならない。
さくらの父と母には、本当に、本当に申し訳ないことをした。病院で理子がさくらを探し当てられたということは、おそらくさくらは病院に運ばれて死亡確認されたのだろう。それを見届けた両親の痛みや悲しみはどれほどだったのか、想像して余りある。
そしてそこへ行って「がんばったね」と声をかけてくれという願いを叶えてくれた理子には、感謝してもしきれない。あの子のことだから、変な子扱いされても今さらだし、なんて言って笑いそうだが、できるならぎゅっと抱きしめてお礼を言いたかった。
夜明け頃、眠りきれずまどろんでいたさくらは、控えめなノックの音を聞きつけて目を開けた。
こつこつ、と音がする。扉ではない。
身を起こして立つと、また音がした。窓の戸のほうから聞こえる。
近付いて、戸に手をかける。左に引いても右に引いても戸は動かない。がたがたと揺れるだけだ。
だがその音で、部屋の中にいるさくらが戸を開けようとしているのに気付いたらしい。外にいる誰かが、一度こつんと戸を叩いてから、
「プリンシア」
と短く呼んだ。ささやくような声だったが、さくらにはすぐにわかった。
リンナ・ローウェルだ。
だがさくらは彼の名をフルネームでしか呼んだことがなく、ここでそれを口にしていいものか悩んだ。
「あ、あの、はい、ここにいます」
悩んだ末にそんな味気ない返事をすると、リンナから指示があった。
「下の閂を引き抜いたら、ゆっくり、静かに、戸を少し上に持ち上げてみてください。女性でも簡単に外せるようになっています」
「あっ、はい」
言われてみれば戸の下には棒が一本通っていた。戸と壁に取り付けられた筒状の鍵穴を揃えて棒を通すと、確かに閂のように固定できる。
さくらは言われた通りに閂を外し、苦労して戸を開けた。完全に窓枠から取れた戸を床にそっと置くと、壁に背を向けて立つリンナの髪がわずかに見えた。朝日を浴びて赤っぽく光る黒い髪。周囲を警戒しているらしく、さくらのほうを振り返るのに少し時間がかかった。
「不躾な訪問、申し訳ありません」
ひとまずそう謝っていたが、申し訳なさそうではまったくない。むしろ口上は放っておいてさっさと本題に入りたそうな顔をしている。
こんな朝早くに、しかも窓からの面会だ、火急の用事があるとしか思えない。
首を横に振ってリンナを見つめると、いつもと変わらずまっすぐな目差しが返ってくる。
彼はすぐには何も言わなかった。じっとさくらを見て、清水の舞台から一緒に飛び降りようとでも言い出しそうなほどに、ひどく真剣で、思い詰めた様子でもある。
どうしたのと気軽に聞けないじぶんが、ふがいない。
「……プリンシア・サクラ」
リンナが厳かに口を開く。彼は毅然としていた。
「──あなたを迎えに参りました」
「迎え……」
リンナはうなずき、聖都の外にある街の話をする。
そこは時季によってかなり寒暖差のある土地で、聖都からは山をひとつ越えたところにあるという。人の流れは比較的穏やかで、周辺には小さな村がたくさんある。果物も野菜も魚も豊富、市場は年中賑やかだがミュゼガルズほど雑多ではなく、女性や子どもが一人歩きしていてもそこまで危険はない。
ここでいったん言葉を切り、その街の近くの村に馴染みの孤児院があるのだと彼は言った。
「子どもは、多くありません。一日中掃除をしたり、畑に手をいれたり、非常に牧歌的な場所です。マザーは一人しかいませんが、とても経験豊富な方で……その、達観しているといいますか、相談事をするにはうってつけの人物です。それから、マザー見習いの娘が一人います。活発でよく働きますが、基本的にうるさいのでこちらは無視しても問題ありません」
「……は、い?」
返事に困るがリンナは説明を止めない。
「村の人々は、何かといっては食べ物を渡そうとしてきます。嫌いなものがあってもとりあえず受け取ってください、あとでマザーに押し付ければなんとかしてくれますから」
「あ、あの……」
「それから近くの雑木林は風通しがよく、澄んだ小川や泉もあります。木に果物がなっていたら、自由にとっていただいて大丈夫です。それから、」
リンナはそこで、話し尽くしてしまったというように口をつぐみ、彼らしくなく視線を窓枠に落とした。
「とにかく、穏やかなところです」
「は、はい」
「日照りの季節はここよりも暑く、雪花の季節はここより寒くなります。それでも、ここよりは……ここよりは、アルヴの村のほうがあなたには合っていると私は思います。マザーも、こちらの近況をご存知ですので、もしも、あなたさえよければ……」
ここにきてようやっと、人目を憚りさくらと接触を図った彼の意図を察する。
彼は、ここからさくらを連れ出そうとしてくれているのだ。
王宮に長居はできないとジンが言っていたけれど、昨日の今日でそこまで手配できるわけはない。
山をひとつ越えた、さくらの知らない穏やかな土地がある。それを教えるために、もしかしたら彼はずいぶん前から準備をしてくれていたのかもしれない。
──行って、みたいな。
わざわざリンナが道標を用意してくれたというのなら、行ってみるべきだろう。彼が選んだ場所が、さくらを変に甘やかしたり厳しくしたりするとは思えなかった。そういう信頼感が、彼相手にはある。
そして実際問題、さくらには土地勘がない。
三年もミュゼガルズにいたのに、外の世界をまるで知らないのだ。
どこにどんな街があって、どんな人々が暮らしているのか。国の果てすら、さくらは知らなかった。聖都ミュゼガルズだけが世界のすべてで、国の果てで、世界の果てだった。
でも違うのだ。ミュゼガルズを出れば、他の街があるのだ。それらをひっくるめて、この世界の人々はひとつの国を作っている。
「い、行きたい、です」
さくらは、イエスかノーかの質問に、おそるおそるイエスと答えた。
いっそ、そこへ行けと言ってくれたら従ったのにとも思ったが、たぶんそれではだめなのだ。リンナはそういうふうに人を甘やかしたりしない。ジンみたいに、優しげな顔でさりげなく誘導する人でもない。
「それは本当にあなたの本心ですか」
何を、と思う。
「お嫌なら嫌とおっしゃってくださって、かまいません。他にも候補地は、」
「いいえっ!」
思わず鋭い声が飛ぶ。
恥ずかしくて、もう口を閉じてしまおうかと思ったけれど、言いたいと思う気持ちも強かった。感謝しているのだと、彼にきちんとわかってほしかった。
──ちゃんと言うから、だから、疑わないで……。
うつむき、ひんやりとした石の窓枠に手をつく。
「い、行きます。あなたが選んでくれた場所、だから」
彼の瞳が、一瞬、濡れた宝石のように煌めいて見えた。窓の向こうの、一歩下がったところにいた彼の右手が何かを掴もうとしたみたいに持ち上がったが、結局、拳を握っただけで終わった。
それからリンナは、こう続けた。たぶん、最後まで言わないつもりだったのかもしれない。
「……あなたが行くと決めたのなら、私も行きます。近衛騎士の剣を置いて、あなたと一緒に」
そう言われた瞬間、かあっと胸が熱くなり、まばたきできなくなった。はふ、と温かな吐息をこぼすと、白い靄が広がる。それが消えるまでに、もう一度はっきり伝えなくてはいけないと思った。
「……っ、わ、わた、し」
──どうして、こう肝心なときに!
喉に引っかかる言葉を、吐くようにしてでも、形にしたい。
近衛騎士をやめてしまうのか。仲間のことはいいのか。ジンの腹心ではないのか。王の、ミミリアの護衛は。訊きたいことは山ほどあったけれど。
一緒に行きたい、と思った。
「つれていってくださいっ」
顔をくしゃくしゃにした、不格好な心の叫び。声自体は小さかったが、リンナにさえ聞こえていれば問題はない。
彼は、彼らしく、凛とした表情でひとつうなずいた。
「必ず」




