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おしゃべり好きな女の子と出会った翌朝、ベッドヘッドのデジタル時計を見て驚いた。
「日付が変わってない……」
思わず声に出してつぶやき、ベッドを降りた。
「あらどうしたの、さくらちゃん。検温とごはんの時間ですよ」
部屋を出ていこうとしたさくらを看護師が呼び止める。言われてみればまだ診察開始の時間には早かった。みんなまだ朝ごはんを食べて出掛ける準備をしている頃だろう。
さくらはおとなしくベッドに戻り、検温を受けた。あまり好きではない焼き魚をおかずに白米を半分ほど食べ、もう半分をわかめのお味噌汁で流し込む。たくあんには手をつけなかった。
昨日部屋を出たのは何時だったっけ、と焦れったい気持ちをもてあまし、さくらは朝食を終えるとすぐにベッドを飛び出した。放っておいてもごはんのトレーは回収してくれるはずだが、それを待たずに動き回った日はなかったので少し罪悪感がある。
部屋の外でスライドドアをゆっくり閉めながら、ちょっとだけさくらはためらった。
だが結局焦りに負けて、昨日行った精神科と心療内科のある棟へ向かった。
目当ての待合室に着くと、人は誰もいなかった。今日も点滴をぶらさげてやってきたさくらを、無人のソファーが出迎える。
さくらは新発売の本を買いに行くときのように胸をどきどきさせて、ソファーの端に腰かけた。
もうすぐでほしいものが手に入る。手に入ったらまず何をしよう? 温かい紅茶を淹れて、チョコレートでも用意しようか。それから毛布を膝にかけて、音楽は歌のない映画のサウンド・トラックをかけよう。それから、それから……。
そんなふうに、このあとのことを想像したい気分だった。
はやる気持ちのままに一時間が過ぎると、一人目の患者がやってきた。受付が開いたのだろう。しばらくすれば二人、三人と待ち人が増え、カウンセリングも始まったようだった。
例の少女が来たのは、さらに一時間後だ。
「あれっ」
彼女は第一声を、さくらの顔を見てあまり驚いてなさそうに言った。今日こそは何かしら言葉をかけて立ち去りたいと考えるのに夢中だったさくらは、とにかくもう一度話をしてもらわないことには始まらないとばかりにすぐに腰をあげていた。話しかけるきっかけはなんでもいい。彼女の目に留まりさえすれば、むしろ向こうから話しかけてくるだろう、昨日そうであったように。
案の定、少女は人懐こくパタパタと寄ってきて、首をかしげた。パーソナルスペースが狭い子なのか、背丈があまり変わらないせいでけっこう顔が近い。
「お姉さん、今日は早いね」
至近距離で大きな瞳に見つめられ、さくらはたじろいだ。パーソナルスペースの広さに自覚のあるさくらは、申し訳なくも上体を反らしたうえで一歩下がり「うんそうなの」と答えようとして、妙な違和感にぶちあたる。
「いっ、い、急いで、来たの……」
いつもならうまく言葉が出てこないうちに相手が口を開くので諦めるのだが、どうしても今回だけは、うやむやにしたくなかった。なんとか声を絞り出して「今日は」と付け加えると、少女は真顔になって「じゃあ今日も向こうで話そ!」さくらの腕に絡み付いてくる。
引っ張られて、廊下に出る。
明るい日差しのある渡り廊下で、少女が振り向いた。楽しそうで、うれしそうな笑みを浮かべていた。
「やっぱね、そうだと思った! 最近、何度も同じ日を繰り返してたから、イレギュラーが現れたら逃さないようにしよって思ってたの。お姉さん、一回目の今日も、ここに来てたよね?」
違和感の正体は、これだ。
さくらは慌てて、首振り人形のごとく高速でうなずいた。
「う、うんっ、うん! 昨日、バスの事故のこと、聞いたよ」
「そう! よかったー、ホントは昨日の時点で言ってみようか迷ったけど、違ったらまた頭がおかしくなったと思われるからやめたんだよ」
じゃなきゃいきなりバスの横転事故の話なんかしないよ、と少女は苦笑いする。誰彼かまわずなんでも話しちゃう子なのかと思っていたが、どうやらある程度の分別はつくらしい。
昨日の時点で核心に触れるか迷っていた彼女と同様に、さくらもまた彼女に言葉をかけることができなかった。その後悔を晴らすように今日という日が繰り返されている。そのことに意味がないなんてことはあり得ないはずだ。
少なくともこのタイムループを抜け出すには、何かを変えなくてはならない。さくらの運命の日を変えた、あのときのように。
「最近、同じ日を繰り返してるって、言ってたけど、具体的にはいつ……?」
さくらの問いに、少女はあごを撫でながら唸った。
「まあ、繰り返したっていうか、夢なんだけどね」
「夢?」
「そう」
「ど、どういう……」
少女は困ったように鼻をひくつかせ、ジーンズのポケットからスマホを取り出した。彼女は少しやぼったい格好をしていて、唇の腫れた変なキャラクターがプリントされたTシャツに茶色のパーカーを羽織っている。
少女が手慣れた様子で画面を操作し、十月のスケジュールを表示させて言った。
「十月七日だね、ひどく繰り返したのは。ホントの診察日は今日、カレンダー的に言うと十月十日なんだけど、その日にも診察に行くことになってた。先生の都合で今日に変わったの。ホントに急にね」
「よ、よく、わからない」
「だろうね。つまりね、カレンダー的には、一日も繰り返してはいないってわけ。びっくりだよね。でもあたしの夢の中で、十月七日は三回、十月十日は一回、繰り返してる。そのどれもがカウンセリングの日で、他の患者さんの顔ぶれだっていつも同じ」
さくらは噛み砕かれた説明にもうまく順応できず、ただ困惑した。
「まあ、簡単に言えばあたしは今月、もう四回もカウンセリングを受けてるってことだね。今日で五回目。ちゃんと一日ぶん繰り返すから、先生の話したこととか、誰とすれ違ったかとか覚えちゃったなー」
「で、でも、夢、なんだよね……?」
「うんそうだね、起きたらほとんど覚えてないよ。ねえ、お姉さん、ぶっちゃけ夢かよって思ってるでしょ。他人が聞いたらそりゃそうだよね、でもね、あたしにとっては今日のための予行演習だったと思うのね。お姉さんに、ちゃんと訊きたいことを訊くためのね」
少女はスマホをポケットにしまい直し、窓の下の手すりに寄りかかった。
「ねぇ、ミュゼガルズって地名、聞いたことある?」
はっと息を飲むと、それだけで伝わったのか彼女は考え込むように視線を窓の外の景色へ逃がした。
「……あたしの思い出、夢じゃなかったんだねー……」
「ミュゼガルズ、に、いたことが……?」
「そうだね、あたしがいたとこだと思うよ。身体がってことじゃないのかもしれないけど、少なくとも記憶は持ってきてる。聖都ミュゼガルズ、ギディオン王の治める土地、【祈りの姫君】が降る場所。そういうふうな、認識だけど。お姉さんは?」
黒い瞳が、さくらの罪を暴こうとしているみたいに、じっと見つめてくる。
からん、と点滴のチューブが揺れた。
無意識に後退りしようとしていた足に、力を込める。さくらは少女の綺麗に編まれた黒髪に目を向けた。
「たぶんわたしは今もまだ、ミュゼガルズにいる」
すると少女は神妙な顔をして、またあごを撫でた。
「じゃあ、今日のこれも、夢なのかな?」
「わ、わたしは、現実なのかもしれないってちょっと思ってた……けど」
この病院での出来事を、少女が夢だと言うなら。
きっとさくらの夢でもあるのだ。
だが、本当にそうだとしたら、運命を変えたあのときから、ずっとずっと長い夢を見ているということになるのだろうか。やけに現実味があるし、夢の覚める気配もなければ夜も普通に眠っている。一分一秒を、一日中数えることもできるだろう。
「まああたしも、起きてみるまでは夢か現実か区別つかないんだけどね。現実だったら困るから、お姉さんにミュゼガルズのこと訊くのためらったわけだしね」
フォローが入るが、川に飲み込まれたあと実は助けられていたと考えるにはあまりに楽観的だ。
一回目に死んだときにはおばあさんはいなかった、それがすべてだ。
そう考えたとき、少しがっかりしたじぶんがいた。
まったく今さらでじぶん勝手なことだが、自殺未遂となった現状をさくらは苦には思っていなかった。退院したあとの苦労を知らないからだといってしまえばそれまでかもしれない。父も母も優しく、世界はゆるやかにさくらを見守っているだけだからだ。
もしも助かっていた場合は、ここからやり直すこともできる気がした。誰かに助けを求めるということ、そして誰かに助けてもらうということを、はじめて知ったような感じがする。何しろ自殺未遂までしたのだ、何度仕事を辞めたって、ニートになったって、たいしたことではないように思える。今後はきっと、何があっても助けを求めることをためらわずにいられるだろう。
死ぬくらいなら仕事を辞めろとテレビで言っていた。
そのことの意味を、ようやく実感した気がした。
苦痛から逃れるために屋上から飛び降りる人は、その苦痛を乗り越えた先にあるものが手に入るとは考えない。それがどんな幸福だとしても、今目の前にある苦痛が大きすぎて、重すぎて、これを退かせられるなら何もいらないとまで思ってしまう。
だから、さくらは死を選んだ。
後悔がないとは、今、言い切れなくなっている。
どれほどの辛さを抱えているのか、理解してほしい人の目の前で手首を切って見せればよかった。誰もいないところで死んでしまわないで、助かる可能性を残しておけばよかった。
たぶん、あのときが、人生の中で本当に一番助けてほしいときだったと思うから。だから、言葉で言う「助けて」よりも行動で示す「助けて」を伝えられればよかったと本当に思う。それが、本気で助けを求めるということだと、さくらは感じた。
だけど、実際は、誰の助けも入れないようにして、さくらはこの世を捨てた。
さくらは死んだのだ。
もう死んでいるのだ。
ここにいるのは、ノーヴァの妹と話をするため。
ただ、それだけ。
間違っても、過去を変えるためではない。
さくらは少女のほうへ一歩踏み出した。
これが夢でも別にかまわない。あったはずの幸福を捨てたのはさくらだから、この夢にしがみついてはいけない。
「あの、あのね、あなたには、お兄さんがいるかな……」
さくらのつたない質問に、少女は真摯にうなずいた。




