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 アラームが鳴る前に、目が覚める。

 白い天井をぼんやり眺めていると、聞き慣れた音がピラピラと鳴り出した。


 今日も十月七日。


 階下から、やはり母の呼び声がする。


「やっぱ夢」


 人に声をかけるのが苦手なさくらは、声を出すことじたいも得意ではなく、めったに独り言はしなかった。けれども誰かに聞かせたくて、口に出して「夢だ」と断言した。いつか終わる夢を何者かによって見せられている、それに気付いているぞという意思表示だった。

 だが、どうすれば終わるのかわからない。

 本当は夢じゃなくて、その何者かが過去を変えようとしているのだとしたら?


 さくらは急いでベッドから降り、着替えて家を飛び出した。呼び止める母や父には目も暮れず、駅まで走る。改札で、定期券を忘れたことに気付いて切符を買い、いつもより一本早い電車に乗った。田舎の電車は、三十分に一本しかない。


 そして川に飛び込み、あの日とは違う道筋をたどったさくらだったが、目が覚めるとまた十月七日の朝に戻っていた。

 まるで、ファンタジー映画みたいだ。たとえば死んでしまった恋人を救うため、何度も過去をやり直すみたいな、そんなベタな映画だ。

 だが笑えない。何度も何度も川に飛び込めるほどの勇気はない。一度目だって、感情が昂ったから飛び込めたのであって、何回も同じことを繰り返していたら恐怖や恨みは薄れていくに決まっている。つまり、死ぬ怖さを乗り越えてまで死にたいと思う気持ちが、薄れていくということだ。そのうち川に入れなくなる。

 でもそれでは困るのだ!


 さくらはアラームを止め、階下に降りた。あの日よりもずっと暗い顔をしているさくらを、両親はいつになく心配そうに見守っていた。具合が悪いなら休んで、と言われて、休んでもいいのか、とふと思った。


 もしもあの日、死ななかったら。

 もしもあの日、休んでいたら。

 想像してみようとしても、できない。そんな選択肢はなかったと今でも思う。


 あの日あのとき、仕事をしなくて済むなら死ななかったかと聞かれても、おそらくさくらはうなずかなかっただろう。生きていることが嫌で死んだのであって、転職すればいいとか運命の人に巡り会えるとかそういうのは考えなかった。

 がんばって生きた先にきっとあったであろう幸福なものすべてを捨ててでも、さくらは死にたかったのだ。この苦痛から解放されるなら、どんな幸福もいらないと言い切れてしまえたのだ。


 でも、焼け死のうとしたさくらと比べると、川で死んださくらには甘さがあったと今になって思う。

 もしも仕事を休んだら、もう二度とあの職場に復帰することはできなかっただろう。どうやって辞めればいい? 次の就職先はどうやって見つければいい? 次もダメだったら? その次もダメだったら? 周りからはどんなふうに見られているんだろう、ちゃんと働かないと両親の教育がよくなかったなんて言われる、甘えているじぶんが嫌だ、それでも辛いのが我慢できない──そんなふうに、休んだあとの煩わしさに、負けた。死んだら全部なくなるから、さくらは解放感で微笑んでいた。死ぬ直前の、水を飲み込むそのときまで。


 本当に苦しかったのは確かだ。死にたいほどだったのも確かだ。だけどその環境から抜け出す術はあったし、両親を頼ることだってできた。世の中ちゃんとした人ばかりじゃないのだから退職願いも出さずにバックレたってよかった、命を差し出すほどのことじゃなかった。


 さくらは十月七日のじぶんの行動をなぞり、川辺まで来て立ち止まった。


 川は深く、幅がある。途中に段差があって、小さな滝がかぽかぽと音を立てていた。

 風が吹き、川向こうの竹林が大きく揺れる。

 静かな朝だった。

 耳を傾けてみれば、ときおり道路を走り去る車のエンジン音が聞こえる。

 これから仕事だと思わなければ、清廉な水音がさくらの心を穏やかにしてくれた。川面でくるくる回る葉っぱが、前触れなく水中に沈んでいった。


 本当はあの日、この川をさかのぼって逃亡しようかとも思ったのだ。職場から家に電話がかかってくるだろうから結局はやめたのだが、そのまま仕事に向かうのが嫌で、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で仕方なくて、川に入った。


 死ななかったあの日を、試してみようか……。

 不意にそう考えて、鞄からスマホを取り出す。電話を掛けるのも苦手だが、あの日には選べなかった選択肢を一度試してみたいと思った。


 数字の上を滑る指が、震えている。

 緊張と不安が、手汗として滲む。


 相手が応じたら、挨拶をして、名乗って、体調が悪いので休みます、と言えばいい。大丈夫、言える。言える。


 トゥルル、とコールが鳴り始めたとき、心臓がばくばく動いていた。懐かしい感覚だった。

 そろそろ受付の人が受話器をとるはずだ──


 と、そのとき、


「お嬢ちゃん、どうしたの?」


 電話の向こうではなく背後から誰かに声をかけられた。


「こんなところで、どうしたの……」


 わずかに振り向き、そこにおばあさんがいることに気付いたさくらは、とっさに駆け出した。

 手に持ったスマホからぶちりとコールの途切れる音がしたが、さくらはそこに声を吹き込むことなく川へ身を踊らせる。


「あっ、お嬢ちゃんどこいくの!」


 やってはいけないことをした、まさにその現場を見られたような恐ろしい衝動がさくらにそうさせた。余計なことをするんじゃなかったと思いながら、さくらはたくさんの水を飲み込んだ。




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