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泣き声で懇願しても、彼は顔色ひとつ変えずに炎の中を駆け抜けた。どうして二人もの人間を抱えて、煙の充満する屋内を難なく走り続けられるのかわからない。とっくに気道熱傷やら二酸化炭素中毒やらで倒れていてもおかしくないのに、強靭な意志が彼を突き動かして止まることを許さない。彼でなくては、こうはいかなかっただろう。陳腐なドラマのように、地獄の業火から無事に脱出するなど。
「出てきたぞ!」
「さすがローウェルだ……。おい、急いで馬を用意しろ! プリンシアの意識がない」
「すぐに医師のもとへ!」
屋敷から転がり出てきたリンナたちを、あたり一帯に集まった制服の男たちが松明を片手に援助してくれる。
彼らは国中に散らばる、自警団の面々だ。リンナの所属する近衛騎士団とは対になる組織で、国全体の治安維持や土方仕事などを請け負っている。リンナたちが高貴な身分の人々を相手にするのと反対に、自警団はミュゼガルズに生きるすべての国民のために働く警察のようなものだった。だから指揮系統は宮廷に寄らず、民間主体の運営がされている。おかげで機動力は高いが下働きのような雑用も多く、宮廷直属の近衛騎士団が花形職なら、自警団は武骨な汚れ仕事というイメージが根強いようだ。まるで事件解決の手柄を取り合う刑事ドラマじみている。
ちなみに、地の竜の討伐隊はそのほとんどが自警団の団員で構成されていた。なのにさくらは一度も彼らと交流を持ったことがないのだから笑ってしまう。
「私が先行します、プリンシアの容態がよくない」
「しかし、ローウェル殿もお怪我があるのでは……っ」
「いえ、おかまいなく。それより屋敷のほうを頼みます」
自警団から馬と灯りを預かったリンナは「こちらの少女もあなた方に頼みたい」と言って、さくらの身体だけを抱えて鞍に飛び乗った。むしろ彼こそ誰かに運ばれるべき傷病者なのに、心配して引き留める人々を振りきって馬を駆る。
さくらはその背中についていくことができず、燃え盛る屋敷のそばで彼らを見送った。じぶんの肉体と離れられるのは、魂が器から完全に剥がれたせいなのかなと他人ごとのように思った。
「木を倒せ、急げ!」
屋敷の周辺では、自警団の団員たちが総出で木を切り倒している。火が木々に燃え移り、あたり一帯が焼け野原になるのを防ぐためだろう。しかし、この木立は林なのか森なのか……。もし近くに民家でもあるのなら、早急に火災を鎮めなくては大惨事になる。
夜分遅いというのに燃える屋敷のおかげであたりは明るく、真っ黒い木々の隙間に揺れる松明の灯りが物々しい雰囲気を醸し出す。
いくつもの修羅場を潜り抜けてきたであろう自警団の人たちになら、火事を食い止められるかもしれない。
少し迷い、さくらはもう一度屋敷の中へ戻った。外にはたくさんの「頼れるひとたち」がいる。それはさくらにとっての、というわけではないけれど、この国に住むみんなにとっては間違いなく頼れる相手だ。だから、その彼らの手の届かないところを見てこなくてはならないと思った。屋敷の中に取り残されているかもしれない誰かを、たぶんこの場ではさくらだけが探しに行ける。
生きていたって死んでいたって何かできるわけではない。とにかく確かめたい気持ちだけはあった。
真っ白く煙る屋敷の中は、非常に視界が悪い。けれども胸は苦しくないので、すいすいと廊下を移動し、各部屋を見て回った。扉に鍵がかかっていても霊体のようなさくらには関係がなく、どの部屋も無人だった。とりあえず胸を撫で下ろす。
屋敷全体の軋む音がしている。そろそろ倒潰するのかもしれない。もしも瓦礫に埋まったら、さくらの意識もさすがに途絶えるのだろうか。いや、柱も屋根もさくらの身体をすり抜けて地面になぎ倒されるだけのような気がする。炎も、全然熱く感じない。
さて、これからどうしようか。
いつまで経っても意識は宙に浮かんだまま、消える気配がない。死んだのか死んでないのかよくわからない状態だ。
──誰も取り残されていなかったのはよかったけど……。
ふと、さくらは思いつく。死んだじぶんの身体を追いかけるのは億劫だが、この屋敷に囚われていた少女たちの行方を探しに出かけるのはどうだろう。うまくすれば……さくらの声を聞き取れる子がいれば……別の場所で彼女たちがノーヴァに利用されるのを防ぐことができるかもしれない。
肉体を持たないさくらには、物怖じする気持ちがほとんどなかった。それもそうだろう、誰の目にも留まらず声も聞こえないうえに空まで飛べるのだ。じぶんの死体と向き合う他に、怖いものがあるはずもない。あんなにおそろしかったノーヴァでさえ、今なら脅かしてやれるかもしれないとちょっと思った。
さくらは屋根を突き抜け、空中に飛び立つ。火事のせいで煙たくなった空は、もともと星ひとつない曇天だ。
上空から見下ろすと、幸い周りに他の建物は見当たらなかった。森なのか林なのかはやはり判然としないが、そこまで密集して生えているわけではないので、このぶんなら屋敷周辺で火災は食い止められるだろう。このあとの諸々を心配する役目は自警団のものだ。さくらは数秒間空から制服姿の男たちを眺め下ろし、やがてノーヴァの隠れ家をあとにした。