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 馬車には、はじめから御者は用意されていなかった。おそらくノーヴァ本人が御者台に座るつもりだったのだろう。賊に襲われ、慌ててさくらたちを連れ出し、そのまま馬車で命からがら逃げ出したという設定だ。

 ということは、まだ屋敷で作業しているノーヴァと鉢合せする可能性が高い。しかもさくらが向かっているのは火元となるであろう、地下だ。他の使用人に見つかることもおおいにありえた。


 だが、玄関口から戻り、好きに歩いていても人の足音は聞こえてこない。まるでこの屋敷にはもう誰もいないみたいに、静かなものだった。


「あ……」


 かすかに、煙の匂いがする。

 ろうそくに火がともっていないので、廊下が薄暗い。そのうえ視界が煙っている気がするのは、たぶん目のかすみではないだろう。

 壁づたいに歩きながら、匂いの強いほうへと足を向ける。


 ノーヴァの屋敷は、さくらの想像していた豪邸とはまったく違った。

 敷地は広いし建物じたいも大きいが、部屋がほとんどない。すべての廊下が絵画や人形、彫刻の類で飾られ、一種の美術展になっていた。

 極秘に囲われていたせいで使用人の姿が目に触れなかっただけかと思っていたが、もしかしたらこの屋敷には使用人がもともといなかったのかもしれない。

 きっとノーヴァには本邸としている屋敷が他にあって、ここは完全に秘匿された場所なのだろう。商人ならば屋敷のひとつやふたつ、所有していてもおかしくない。そこへわざわざプリンシアを招いたのは、さくらの人嫌いのせいだとかなんとか説明することも十分可能だ。むしろさくらを知る人間にとっては、非常に説得力がある。


 この屋敷は郊外も郊外、もはや聖都にあるのかさえ疑問だった。人目を憚るつもりなら、森や山の近くに建てるだろう。少なくとも、激しく燃え上がっても誰も気付かないように、立地には気を使っているはずだ。燃え残った屋敷の骨組みを見て、王の配下たちは事の真相を推理することになるのかもしれない。


「ごほっ……」


 いつも通りに息を吸うと、胸がかっと熱くなる。

 足元が白く煙っており、室温もかなり上がってきているようだった。押さない、駆けない、喋らない、戻らない、有事の際の三原則だか四原則だかの、最後の項目を無視している。昔は「戻らない」がなかったが、最近ではこの四つの約束事とは別の決まりごとまで出てきて、小さな子どもでも火事場でどう行動すべきか知っている。


 ハンカチかタオルがあればよかったなと無意識に考えて、苦笑がもれそうになった。さくらの頬はもはや力なくひきつるだけだったが、心では笑っていた。

 今から死のうという人間が、今さらなにを言っているのだろう。

 煙の熱で気道が焼けて、呼吸ができずに死ぬ。それでいいじゃないか。それをこそ望んでここへ来たのではないか。


 曲がり角で壁に手をつき、息をつく。もう一度笑おうとしてみたが、やはり口の端が痙攣するだけで表情は変わらなかった。

 熱気にあおられて顔は紅潮し、目も充血している。手で頬を撫でると涙の跡がはっきりとわかった。


「そこでなにをしているんです!」


 乾いた涙をかりかりと爪でこすっていると、背後で声がした。語調の強い呼び声だ。

 ノーヴァがさくらを見つけ、駆けてくるのが視界に映る。

 今捕まってはすべてが水の泡だ。さくらは慌てて壁から離れ、ドレスをたくしあげて走った。硬い革の靴を頓着なく投げ捨て、解放された裸の足で絨毯を蹴って進む。


 まるで、草原を走っているみたいだとさくらは思った。

 なんの枷もなく、恐怖も苦痛もない穏やかな世界で、好きに駆け回る馬になった気分だった。火事場だというのに思いがけない解放感を味わい、感極まって目尻が少し濡れた。でも頬に新しい涙跡は残さない。


 火の手が回った廊下さえ、さくらは構わず駆け抜けた。

 じぶんがいるのは一階だ。ここまで火が来ているのは、地下がすでに火の海になっているからなのだろうか。それがすごく気になった。

 どこで焼け死んでも一緒だけれど、最後に地下の様子を見に行くのも悪くないかと思える。少女たちが避難させてもらえているならよし、そうでないなら地上への道を教えてやるのでもいい。浅ましいと思われるかもしれないが、人生の終わりにくらい、人のためになるような勇気をふりしぼってみたかった。


「プリンシア! なんのつもりです! 焼け死にたいんですか、今すぐこちらへ戻りなさい!」


 ノーヴァが炎の前で立ち往生している。さくらはそれを振り返り、戻るつもりのないことを最敬礼で伝えた。彼と言葉をかわす気力は、欠片もない。


「プリンシア!」


 彼は舌打ちをしたようだった。プリンシアを死なせたとあれば彼は王になんと言われるだろう。でも彼のことだから、きっとうまく言い逃れするはずだ。


「仕方ない、捕まえて馬車に乗せておけ! 手荒にしてかまわない」


 物騒な命令が聞こえたと思ったら、彼の後ろから別の人間が二人現れる。見覚えのあるシルエットだった。一人は背の高い女、金髪で丁寧な口調の人だ。もう一人は小肥りの男、少々粗野だが口の上手い人だった。二人とも良い人だと思っていたのに、彼らの手によってさくらはこの屋敷へ連れてこられた。

 彼らの名前は知らない。


「待ちなよ、お嬢さん。なんでそっちに行くんだ」

「本当に焼け死んでしまいますよ、プリンシア」


 二人の声を背中に浴びながら、さくらは再び走り出す。


「ああっ、だからそっち行くなって! あぶねぇよ、ほんとに死んじまうよ!」

「地下に少女たちはいませんよ! 助けに行っても意味はありません、みんな私たちが馬車に乗せましたから安心してください!」

「あー、なに、プリンシアはあの嬢ちゃんたちを助けようとしてんのか? だから戻ってきたって? ならこの大女の言うとおり地下はもぬけの殻だ、安心しな!」


 彼らはさくらのことを、簡単に捕まえられると思っている。言葉だけでさくらを操ることができると、知っているのだ。

 だがさくらは聞かなかった。

 二人が本当のことを言っていても、言っていなくても、どちらにせよ地下に向かう。そこがさくらの死に場所だと感じるからだ。


 地下だけではなく、一階にも火を放ってあるのかもしれない。焼け落ちて通れない廊下もあり、さくらはそこを無理やり通った。

 これにはさすがに二人も焦った様子で駆けてくるが、崩れ落ちてきた大きな額縁に行く手を塞がれていた。


「おいっ、本当に戻れなくなるぞ! なにもあんたを殺すつもりなんかねぇんだ、おとなしく馬車に乗っててくれよ! なんでそんなに必死になるんだよ!」


 少女たちを救おうとしている、と男は勘違いしているようだ。でも大女のほうはその勘違いに気付きかけている。半信半疑に、彼女はつぶやいた。


「まさか、死のうとしている……?」


 男が、間の抜けた声色で問い返すのが聞こえた。

 さくらは足を止めず彼らを置き去りにして先へ進む。



 途中で、喉がつかえて咳が止まらなくなった。背中をかがめ、もはや追いかけてくる者もない廊下をのろのろと歩く。

 地下まで行きたかったのに、限界が見えてきてしまった。

 激しく咳き込み、酸欠になって座りこむ。

 壁際にあった花瓶とテーブルをなぎ倒し、隙間を作ってそこに入り込むや、さくらは膝を抱えて体育座りをした。一番落ち着くかっこうといったら、これしか思い浮かばなかった。極限まで身体を縮めて顔を伏せるこのかっこうが、学校でも会社でも宮廷でも、どこででも外敵の視線からさくらを守った。


 火のはぜる音がする。どこかで柱でも焼け落ちたのか、大きな物音もしていた。大きくうねった炎が、ごうごうと唸りながら天井を舐める。さくらのうえに降り注ぐ煙と煤が、傷付いた魂を天へと導こうとしていた。


 うつろな意識の中で、さくらは思う。

 案外、焼け死ぬのは痛くも怖くもない。

 正直に言えば熱いし苦しいが、どこかまどろむようで、寝入る寸前のように気分が落ち着いていた。このまま意識が落ちれば、血が沸騰しても気付かぬまま死ねるだろう。

 このときになってやっと、神様の慈悲をさくらは感じた。


 けれどもふと、意識が鮮明になる。なにか気になる物音でも聞こえたのだろうか。いや、はっきりとした理由はないように思う。

 たとえば、目覚ましのアラームが鳴る三分前に目が覚めるような、そういうたぐいの覚醒に近かった。


 耳を澄ませて、顔を伏せる。なにもないなら、もう一度眠ろう。

 そう思ったのだが、やはりなにか意識の端に引っかかるものがある。


 さくらははじめて感じる第六感のようなものに戸惑いながら、かすむ視界の中をよつん這いで進んでみた。

 一歩、二歩、三歩目で、曲がり角の奥に階段を見つけた。煙がひどく溜まっていて底が見えないが、おそらく地下への道だろう。

 神様の慈悲を感じていたさくらだったが、ここまでくるとなんだか早く死ねと言われている気分になってきた。神様も、早くミュゼガルズからさくらを追い出したかったのかもしれない。

 もうなにもすがるもののないさくらは、手を滑らせて階段を転げ落ちた。痛くないのは、感覚が麻痺しているからなのだろうか。それとも、もっと別の場所が強い痛みを訴えているからなのだろうか。


 最下段まで転がったさくらの身体は閉じた扉にぶつかって止まった。何度も咳き込み、上体を起こそうとして腕に力が入らないことに気が付く。折れてはいないだろうが、手を握り込むのも難しかった。


「だれか、いるの……」


 そのとき、扉の向こうからかすれ声がした。

 はっとして起きようとしたが、やはり起きられない。仕方なく扉を叩き、合図をする。音は立たないけれど振動は伝わったらしく、また向こうから声がした。


「だれか……いるのね、そこに」


 大女と小肥りの男が言っていたことは、どうやら嘘だ。地下にはまだ人がいる。助けを待っている人が、いたのだ。


 さくらは、どこに眠っていたのかというくらいの力をふりしぼって身体を起こした。扉のドアノブを探して、それがないことがわかると、今度はくぼみや傷を探して扉全体を撫で回す。押しても叩いてもびくともしない扉を、なんとしてでも開けなくてはいけないとさくらは思った。

 さっきまで感じていたよくわからない感覚は、誰かに呼ばれていたせいだったと思う。この扉の向こうに閉じ込められた少女が、助けを求める声を聞き取ったのだと今ならわかる。


「すぐに、あけてあげるから……っ」

「……プリンシア?」


 扉の隙間に指を突っ込み、力ずくで開けようとする。火事場の馬鹿力は起き上がるために使ってしまったのか、思うように手が動かない。


「そこにいるのは、プリンシアなの……?」

 

 呆然とした声がする。

 さくらは返事に迷い、さくらです、と答えた。咳混じりで聞こえなかったかと思ったが、扉の向こうの少女はちゃんと聞き取ったしプリンシアの名前がさくらであることもちゃんと知っていた。

 そしてさくらのほうでも、彼女の硬い声に感じるものがあった。


「なんでプリンシアがそこに……。宮廷に戻ったんじゃなかったの!?」


 叫んだあと、咳をするのが聞こえる。それはしばらく止まらず、図らずもさくらに返事をする間を与えた。


「もどらない、わたしは、どこへも戻りません」


 すると、少女は扉を強く叩いてきた。彼女はさくらを罵った子だ。孤児院で一緒だった、あの女の子だ。


「そうやって! あたしをあわれんでいるつもりなの!? あたしたち孤児が一生働いても手に入れられないものを、あんたはただそこにいるだけで与えられる。なのになんでわざわざ手放そうとするの!? その日一日食べるのにも苦労している人がいるのに、どうしてあんただけそんなわがままが許されるのよ!」


 さくらは、扉を撫で下ろすようにして、床に手をついた。


「もうやめてください……」

「やめてあげないわ! あんたなんか死んじゃえばいいのよ! あたしがここで死ななきゃなんないのはあんたのせいなんだから、あんただって死んじゃえばいい!」

「……そこには、他に誰かいますか?」

「いないわよ! あたしがひとりぼっちで、こんな死に方しなきゃいけないのは、あんたのせいだって言ってんの!」

「ごめんなさい、すぐに、助けるから……」


 弱々しい声で言ったさくらを、彼女は容赦なく鼻で笑った。


「助けてくれなくていいわ! あんたなんかに助けられたら、あんた、あたしを見るたびこう思うでしょうよ。ああ、あのときじぶんが助けた子だ、ってね! そんなの絶対にごめんよ! 助けてもらったって、もともとあんたのせいだってことは変わらないんだからね!」

「でも」

「でもじゃないわ! 絶対に助けないでよ! あんたに助けられるくらいなら今すぐ火の海に飛び込むわ! あたしの下じゃ、一瞬で火だるまになれるような地獄が口を開いて待ってるの」


 あんた、あたしを置いて逃げなさいよ、と彼女はせせら笑う。

 最後に人を助けてみたかったが、やはりさくらには似合わないおこないだったのだろう。

 扉に背中を預けてずるずると床に伏し、身体を丸める。


「──燃やしてもらう、ために、来たんです……」


 最後まで罵られてしまったな、と思うと、か細い泣き声がじぶんの口から漏れた。いろんなつらいことが、ままならないことが、さくらの中でぐちゃぐちゃに混じり合って、嗚咽だけが炎に抱かれて燃えていく。瞳は乾き切ったまま、涙どころか景色さえ映さない。


「わたしも一緒に燃やしてもらうために、戻ってきたんです。だから、逃げない」


 扉の向こうからの返事はなかった。

 地下ではないが、地上とも言えないこの場所で命を終えることを、さくらはもう惜しまない。

 終わろう、ここで。


 ごうっと炎が立ちのぼる。

 やっぱり最期は、苦しいものらしい。

 嗚咽を吐きながら、さくらは意識が途切れるのを待った。





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