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屋敷の中庭に、馬車が用意されていた。
さくらはほとんど眠った状態でそこへ運び込まれ、ノーヴァの妹とリコーが共に乗り合わせている。
闘技場のあった地下では、おそらくもう火が放たれていることだろう。油を撒いて、すべてを燃やし尽くすまで消えないよう配慮されたやり方で、ノーヴァは自らの罪をなかったことにしようとしている。
もしもこの一件がさくらの故郷で起きたことであれば、必ず罪は暴かれ、ノーヴァの悪事は露見しただろう。誰も見ていないからといって、悪いことはできない。そう思わせるだけの技術が、あの世界にはあった。
だがミュゼガルズには、火事の原因や火元を特定するための技術がない。火消しの経験のある者が、可能性を語るので精一杯だ。そのぶん状況証拠だけで容疑者を断罪できるけれど、それがいいことなのかさくらにはわからない。でも今回に限っては、ノーヴァの罪が明るみに出るのなら、何かひとつでいいから証拠が残ればいいと思う。
──また、他人頼りだな……。
ノーヴァは強い眠り薬を使ったつもりらしいが、どうやらさくらにはあまり効いていないようだった。さくらは眠りきれない中途半端なまどろみの中で、じくじくと胸がうずくのを感じる。
屋敷の地下に囚われていたあの傷だらけの少女たちが今後どうなるのか、気になっていた。
人身売買の証拠とやらの中に彼女たちも含まれてしまうのだろうか。それとも、さくらたちのように馬車に詰め込まれてまたどこかで戦わされるのだろうか。
ここで死ぬのも、別の場所で戦い続けるのも、もしかしたら同じことなのかもしれないとふと思った。
どうせ苦しいなら、いっそここで焼かれてしまうほうが楽なんじゃないだろうか。
──いやちがう、それはわたしのことだ。焼かれて終わりたいのは、わたしだ。
ここに集められた少女たちは、なにか悪いことをしたから戦わされているわけじゃない。さくらみたいな甘ったれの悪人でもないだろう。彼女たちは、ノーヴァが妹を助けるために利用されているに過ぎない。オークションによって金を作るという意味でもそうだし、リコーに関しては直接的に妹の眠り病に関わらせている。
以前、リコーの眠りが覚めたことがあった。この屋敷に来て数日経った頃だったと思う。さくらが祈っている最中で、ノーヴァもそこにいた。
覚醒しきっていないリコーの口に半ば無理矢理水を流し込む、冷やかな男の表情。迷いのない手つきに、慣れを感じた。薬入りの水によって、しばらくすると彼女は再び目を閉じる。
やめて、と言えなかった。
数日、まともに食事もとれないでいるリコーは、あきらかに顔色が悪かった。ちまちまと水を含ませているから死にはしないのだろうが、睡眠薬で一日中眠らされることが彼女の身体にどんな悪影響を及ぼすか考えるだにおそろしい。
ノーヴァは、リコーを眠りの沼に手ずから突き落とし、出られぬようにその小さな頭を押さえつけている。そんなことをしてなんになるのかとさくらが思うのは、彼も承知していた。疑問を言えないでいるさくらに、彼はこう話した。
「妹の眠り病が、近くにいる者に移るかもしれないでしょう?」
彼はなんの期待もしていないような淡白な声色で言う。
「私には移らなかったが、同年代の少女にならわからない。ありえるかもしれない。そう思ったのですが」
結局、リコーに眠り病が移ることはなかったが、おそらくこのあと何年何十年とノーヴァは同じことを続けていくだろう。
誰かが止めなければ、妹が目覚めるまで延々と。
さくらは、重たい目蓋をあげ、目の前に座っている少女をぼんやりと眺める。
一向に目覚める気配のないノーヴァの妹はくたりと椅子の背に身を預けて、静かに呼吸を繰り返していた。王宮でも、ミミリアが同じように日々を過ごしているだろう。周囲の人々の涙を受け取りながら、どこかへと魂を飛ばしている。
闘技場のようなオークション会場には、すべてはさくらのせいだと罵り、さくらの祈りになんの効力もないと暴いた少女がいた。孤児院でも見かけた顔だった。おそらく向こうにいたときすでに彼女の恨みを買っていたのだろうと思う。さくらの世話を焼いたのに、願いを叶えてもらえなかったとか、たぶんそんなところだ。
でも、さくらになんの能力もないとしたら、彼女の不幸はさくらのせいではない。理論的にはそういうことになるけれど、なぜだかどうして、反論はできなかった。本当に、世界に起こる不幸の何もかもが、さくらのせいのような気がして仕方がなかった。
従来、プリンシアは役目を終えれば国に帰るものだ。それを無視してミュゼガルズに留まったから、世界の不幸は何倍にも膨れ上がったのではないかと思えた。
だから、もしかしたら、ノーヴァの妹が眠りから覚めないのも、さくらのせいなのかもしれない。
では、さくらが消えれば彼女たちは目覚めるのだろうか……。
故郷に帰りたくない、宮廷にも戻りたくない、誰にも嫌われたくない、胸が痛いのも苦しいのも悲しいのも、もう、たくさん。
さくらはじぶんに問いかけた。
……ここで死んでみようか。
怖いけれど、でも、たった一度苦痛を我慢すればすべてのしがらみから解放されるのだ。
明日のことを、不安に思う必要だってなくなる。
ぞくりとして、鳥肌が立った。だが、嫌な感じではない。いっそ心地よいようにも思えた。
──……今なら行けるかもしれない。あの、火の中に。
眠気が少し覚めて、さくらの手が震え始めた。
本気で死に向かって歩こうとするじぶんを、身体が哀れんでいる。
さくらは身体に言い聞かせた。よく考えてみろ、と心で語りかけた。
宮廷のプリンシア邸に戻ってもさくらに居場所などない。侍女に厭われ、リンナに冷たく睨まれ、ジンに軽くあしらわれる。そんな日々を生きていくのは、身体が熱に焼かれるよりもきっとつらいだろう。
ましてや、故郷に帰ってただのさくらとして生きていけるのか?
無理だろう。嫌だろう。
ふっと腰が軽くなり、さくらは馬車の中で立ち上がった。身体もようやく納得したらしかった。
涙の最後の一粒が中庭の土に染みを作る。さくらはそれを、踏みつけて歩いた。
※※※
数日前から、オークションがおこなわれなくなったのは気付いていた。
そもそも、プリンシアが地下へ来てから、カフが闘技場へ引きずり出されることもなくなっていた。
よく周りを見回せば、人の影も少ない。からっぽになった鳥かごがぷらぷらと揺れている。
数日のうちになにかが起こる気がする。観客を飽きさせないために、人の入れ替えがあるのかもしれない。もし、捨てられる側になったとしたら、それはこの戦いから解放されるということになるのだろうか。それとも、捨てるとは殺すという意味なのだろうか。
カフの嫌な予感は、やはり数日後に現実のものとなった。
「なに、なんなの……どうして外に出されてるの」
金髪の大女と小肥りの男が、せっせと鳥かごの鍵を開けて回っている。中にいる少女を引きずり出し、例のごとく嫌がるのを無視してどこかへと連れ去っていく。それも一人や二人ではない。
檻に囚われた少女たちはその様子を怖々と見守り、外に出されるほうがいいのか出されないほうがいいのか見極めようとしていた。カフも例外ではなく、二人の管理者たちをじっと目で追った。
闘技場内の鳥かごが半分ほど空になった頃、わたしも出してとわめき始める子が出てきた。だが大女も小肥りの男も頓着しない。なにかの指示に従っているのか、片っ端から鍵を開けているわけではないようだった。
やがてカフの近くの鳥かごを開けにやってきた小肥りの男が、にやりと笑って事の真相を暴露した。いやに得意げだったが、腹立たしく思っている場合ではなかった。
彼は、ここはじきに火の海になる、と言うのだ。
「どういうこと? 火の海? 火事になるというの?」
まさか国に悪事が露見しそうになって、慌てて証拠隠滅をはかろうとしているのだろうか。
カフは、さらに増した嫌な予感を振り払うように、鉄格子に飛びかかった。
「待ってよ、じゃあ、あたしたちはどうなるのよ! まさかあたしたちまで一緒に焼くと言うんじゃないでしょうね!」
「ああもちろんだとも。全員始末しろとは言われてないんでね。ちゃんとみんな出してやるさ」
それを聞いてほっとしたのもつかの間、男はわざとカフの目の前で鍵を揺らして言った。
「だが、あんたはここに置いていけと言われている」
「は……?」
とっさに手を伸ばしたが、男はすばやく一歩下がって薄ら笑いを浮かべた。
「あんたはプリンシアを追い詰めるために用意された小道具だ。用がなくなれば廃棄される、当たり前だろう?」
「な、なに言ってるの、用がないって……あたしを売るんじゃないの? オークションで」
「いいや。あんたはプリンシアに関わりすぎてるんでな、旦那には最初から売るつもりがなかったようだ。ちなみに当のプリンシアは王のもとへ帰ることになったらしいぜ。あんたが望んでやまない絢爛豪華な宮廷の大屋敷で、きらびやかなドレスを着る生活に戻ったんだ」
カフは、男の言うことがまったく信じられなくて、かえってなにも感じなかった。
「ばかを言うのはよしてよ。あたしは、あの女のせいで何度も痛い思いをさせられたのよ。それを、なんで、ノーヴァさまの画策みたいに言うの」
「そっちこそなにを言ってんだか。プリンシアをうまく利用するために連れてこられてんだからよ、旦那のせいでもあるしプリンシアのせいでもあるってこったろ?」
「違う! あたしが言ってるのはそういうことじゃない! あの女があたしを呪ったんだ! だからこんなことになってるのよ。こんな、こんな怖いところで売られそうになってるの!」
「それこそ違うっての。最初から旦那のいいように使われてるだけさ。あんたは悲劇の主人公じゃねぇんだ。そもそもあんたの頭に花が咲いてなけりゃこんなことにはならなかったんだよ、だからあんたは呪われてなんかいないのさ」
なにをいい加減な、と怒鳴るカフを、男は哀れむような眼差しで見上げてくる。その視線に、いらいらしてしょうがなかった。
「あんたは最後まで頭に花が咲いてるみてぇだな。ま、バカは死ななきゃ治らんと言うから、そこで死んでみるといい。本当にバカが治ったら教えてくれ、俺も試してみたい」
大女が遠くで男を呼んでいた。彼はもう一度鍵をちゃらりと揺らしてみせてから、少女を引きずって暗闇へ消えていってしまった。
残されたカフはしばし呆然としたが、すぐに正気を取り戻して鉄格子に掴みかかった。
「待って! 待ちなさいよ! ねえ! 出してよ!」
どんなに叫んでも、人の気配は戻ってこない。
鳥かごは、強く揺らしても鎖から外れることはなかった。
「……あ」
しばらくすると、どこからともなく焦げ臭い匂いがしてきた。闘技場のろうそくはすでに消されているが、ほのかに明るく見える場所がある。その明かりはだんだんと周囲へ広がり、ゆらゆらと揺れているのがわかるようになった。
本当に、ここは火の海になるらしかった。
「うそでしょう、うそ、待って、どうしよう……」
カフは焦った。鳥かごに残された少女はもはやカフだけ。一緒に生き延びるすべを考える仲間もいなければ、最期を共に嘆いてくれる友もいない。
まったくのひとりぼっちで、カフは焼け焦げて死んでいかなければならないのか。
ぞっとして、カフは死物狂いで鳥かごを揺らした。なんとかしてここから出られれば、あとはなんとかなると思った。
「火が回ってきちゃう、はやくはやく、はやくっ」
叩いても蹴っても鉄格子はびくともしない。鳥かごは右に揺れ、左に揺れ、カフを酔わせるだけだった。
息苦しく、そして胸のむかつきもあり、炎と煙がはっきりと視認できるようになったあたりでへたりこんだ。吐きそうで吐けない嫌な感じが消えない。深呼吸してみても、濃い煙の匂いを吸うと余計に胸が痛くなる。喉まで痛くなってきて、ついには咳き込み始めてしまった。
炎は闘技場を飲み込む。壁をかけあがり、天井を覆った炎が煙を吐き出し、あたりを白く染め上げる。
カフは目を開けていることもできなくなって、檻の中でうずくまっていた。本当にここで死んでしまうらしい、と泣く気力もなく考えた。
そんなとき、きりきりと金属的な音が聞こえてきて、カフの意識が浮上する。
なにごとかと顔をあげようとした瞬間、鉄がぶつかり合うような派手な破壊音がして、視界がぶれた。
身構える暇もなく、全身に衝撃が走って、したたかにぶつけた肩が痛んだ。
しかもなにがなんだかわからないまま、ごろんごろんと鳥かごごと回ったようだった。
気がつくと、カフの鳥かごは鎖から解放され、闘技場の床に落ちていた。しかも横倒しになっていて、鉄格子が微妙にひしゃげている。触るとどこもかしこも熱かった。
「あつい……」
考えている余裕はない。
すぐに立ち上がり、鍵の部分を集中的に踏みつける。熱で弱っていたのか、何度も蹴っているとやがて錠は壊れた。
それからカフは隙間に身体をねじ込んで鳥かごを脱し、火の海へ飛び込んだ。
火事になった建物内でどういったふるまいをすればいいのか、カフは知らない。だから、服が焦げても髪が焦げても、息ができなくても、ただ走るしかなかった。
なんとか闘技場を抜け出しても、外の部屋も煙が充満していてどこがどこなのかさっぱりわからない。それでも行けるところまでカフは進み、そうして階段を見つけた。ここは、煙がさほど来ていない唯一の場所だった。
久しぶりにまともな空気を吸い、生き返った心地がする。
カフは希望を見出だし、煤でまっくろになった顔をわずかに微笑ませた。
だがその笑みはすぐさまこわばり、階段の最上段でずるずると座り込むこととなる。
上の階への道は、開かない扉でさえぎられていた。ドアノブもへこみもなく、ただの壁と言われても大差ない扉だった。階段の先にあるから扉と思っただけで、あるいは本当に壁なのかもしれない。
火煙はすぐそこまでのぼってきている。
もうカフには逃げ場がなかった。
「だれか! だれか……」
たすけて、と祈ったとき思い浮かんだ顔には、もはや憎しみの感情はわいてこなかった。