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王は、もはや溜め息を飲み下せず、深く長い吐息とともに「ローウェルを呼べ」とつぶやいた。かろうじてそれを聞き取った臣下が、痛ましげな表情でうなずき、慌ただしく退室していく。
書状によって召喚するのではなく、謁見を許可するのでもなく、口頭での呼び出しを受けたリンナ・ローウェルが、どれほど険しい顔で現れるか王には手に取るようにわかった。
案の定、数刻の間を置かずに強張った顔でやってきた彼は、王の前で深く頭を垂れたあと低く「プリンシアが、何か」と訊ねてきた。じぶんがなぜ呼ばれたか、彼はきちんと把握している。
「急に呼び立ててすまなかった」
ひとまず労い、顔をあげるように言うと、鋭い眼差しと王の悩ましげな視線が交錯した。そしてその一瞬で、ローウェルはおそらく、王の苦悩を感じ取ったようだった。けれどもこればかりは、口で説明しなければ彼に事の次第を察することはできないだろう。
「十日前、プリンシア付きの侍女から報告があがった。いつもの定期報告だ」
はい、とローウェルは殊勝に返事をする。
一瞬口を閉ざしたくなったが、王は頭痛を振り払うように強い声で告げた。
「まず結論から言う。プリンシアが孤児院を出て、とある商家の屋敷に身を寄せたらしい。これを受け、私は彼女の侍女と商家組合の長、そしてその商家の主から話を聞いた」
彼のグリーンアイが仄暗い光を灯し、唇が噛み締められた。誰に向けたものなのかは判然としなかったが、抑えきれない憤りを彼の瞳に見た。王はさすがに不憫になり、少し声をやわらげた。
「順を追って話す。報告書はあとで見せよう」
「陛下」
「なんだ」
「それは彼女の意思ですか?」
的確な質問だった。この問題は、まさしくそこが肝なのだ。
答えに詰まった王は、指先でこめかみを押しながら、うなる。
「わからん。だが侍女も商家の主も揃って彼女の意思だと言う。しかし……」
「今の彼女にそのようなことをする度胸があるとも思えませんが」
ローウェルがプリンシアのふるまいをかばうようなことを言ったので、意外な思いで手を退ける。
たとえ周囲が是と答えても、王だけは否の可能性を疑わなければならない。王位にあるものは、すべてを平等に、公平に扱わなければならないからだ。
しかし、今回のことでは、どうもプリンシアを信じきれないでいる。ただ、下手を打つと神の機嫌を損ね、二度と【祈りの姫君】を貸し与えてもらえなくなるかもしれない。そんな理由から「プリンシアの意思ではない可能性」を捨てられずにいるのだ。だがローウェルのほうには王のように打算的な考え方をする必要がないし、実際そのように考えている様子は見受けられない。
「おまえはどうして、彼女の意思ではないかもしれない、と思うのだ。孤児院で、おのれの行いを反省したはずだと言いたいのか? そう簡単に人は変わらないと思うのだが。実際、孤児院では彼女絡みの問題が起きただろう」
単刀直入に訊ねると、ローウェルは言葉を探すように視線を落とした。彼にしては珍しいことだった。
「……彼女にはやや虚栄心の強いところがあります。ですが、自ら動いて我を通すほど度胸のある方ではなかったと思うのです」
「反省したのではなく、彼女の性格ではそもそも孤児院での生活から逃げる勇気がないだろうということか?」
「いえ……正直申し上げて彼女が楽な道に逃げ込むことは容易にありえるでしょう。特に今回は相手のあることなので、商家の屋敷を訪うよう誘われればうなずくこともあるかと。ただ、長期的に滞在した場合、我々に報告がいくことは彼女も承知のはずです。陛下のご命令に従わなかったことを咎められる覚悟があって先方の屋敷に留まっているのかと考えると、どうにも疑わしい……」
「つまり?」
「王宮からの叱責や失望感に耐え続ける苦痛と、孤児院に戻る苦痛が、彼女の中の天秤ではどちらに傾くのか。そこを見極めなくてはならないように思います」
声に揺らぎはなかったが、やはり珍しく、彼の口調は普段ほど強くない。
彼も、プリンシアを庇いきれなくなっているのではないかと王は思った。
「プリンシアは、私が見た限りではおとなしく、気の弱い娘だったのだがな……。侍女が言うには、夜のうちに無断で出ていったようだ。件の商家から連絡があったそうで、そこへ行くとプリンシアは戻りたくないと言うばかりで顔さえ見せぬらしい」
「顔も出さないのですか」
「見せれば連れ戻されると怯えておられるようだ。部屋から出ぬ、と商家の者は言っていた。ノーヴァという商家なんだが、組合に問い合わせてみるとどうやら優良な商人らしいな。組合にいさかいの仲裁を頼むことはほとんどないそうだし、税も毎月きちんと払っているようだ」
「ノーヴァ家の方は、なんと?」
「屋敷に留まっていただくことに問題があるのならどこへなりと安全に送り届けるつもりだ、と。プリンシアをもてなせる財はあるようだし、組合も喜んで保証するくらいの有力な商家だ。ノーヴァ家についてはすべてを洗うつもりでいるが、それで何も埃が出なければ、そのままプリンシアを預かってもらうのもひとつの手ではないかと私は考えている」
ここで、ローウェルは何かを言おうとした。大きな声を出そうとしたのかもしれない。けれども相手が王であることを思い出して、ぐっと抑えたようだ。
静かだが、かすかな震え混じりの声で彼は言う。
「プリンシアは王命によって、孤児院で敬虔な日々を過ごすよう定められたはずです」
「いざとなれば、プリンシア相手に王命は効かん」
「それでも、その命令を守るための手配がされました。プリンシアも一度はそれに従ったのです。確かに、あの方は保身のためとなると何をするかわからないところがあります。けれど、宮廷から遠ざけられ、そのことによってプリンシアとしての価値を疑い始めたあの方が、この期におよんで豊かな暮らしを求め、孤児院を出るような真似をすると思われますか? 仮に彼女の意思で孤児院を出たとすれば、何かしら嫌なことが起きて、ただ逃げ出したかっただけでしょう。どちらにせよ商家に預けたままでは彼女を甘やかす結果に……」
「待て、待てローウェル。存在価値を、疑う? プリンシアたる彼女が?」
王は思ってもみないことを言われて、首をかしげた。
「そうです。内親王殿下を目覚めさせることが叶わず、自らの力が及ばないという現実に彼女は打ちのめされた」
「ああ……、その件は耳にしている。礼拝堂でプリンシアがひどく取り乱したことは多くの者が目にしたようだ。人の口に戸は立てられん。しかし、孤児院での扱いに嫌気が差して逃げ出した可能性があるなら、まさしくそうなのではないか? 慣れない環境で、いさかいも起きたばかりで。十分過ぎるほどありえる話だと私も思うのだが」
「……否定できません。ですが、少なくとも、プリンシアは内親王殿下をお救いできなかったことを本当に悔やまれておいででした。そのことだけは私が保証致します」
ローウェルは、プリンシアの意思がどのようであっても商家に預けたままでいいはずがないと言いたいようだった。
王とて、ふたつ返事でプリンシアを他人に預けるわけにはいかないのだが、宮廷の一部は彼女のおかげで揺れに揺れている。特に使用人からの苦情が多く、彼女が問題を起こさず、おとなしくしていてくれるのならばどこで誰のもとに身を寄せていようがかまわないといった心境だった。いくら公平であろうとしても、頭痛がそれを邪魔する。
「陛下。プリンシアの力が戻らなければ、内親王殿下は弱っていくばかりです。商家に預け、そこで神の寵愛を再び受けられるとお思いですか?」
「……いや」
この国唯一の王位継承者、ミミリアのことを言われると、ローウェルの示す選択肢を軽く扱うことができない。
しかし、プリンシアのことで頭を悩ませなくてよくなるのなら、もはや彼女に頼るのはやめて病の原因究明に力を注がせたほうがよほど建設的な気がする。誰かにプリンシアを預けてしまいたい、というのが王の本音だった。悩まなくてはならないことが、他にたくさん、いくらでもあるのだ。
本当に頭が痛い。
「ローウェル、おまえが王ならどうすべきだと考える?」
疲れはてた王の思考を読み取ったように、ローウェルは鮮烈な眼差しを伏せた。言葉を選んでいるのか、すぐには答えが返ってこない。
いっそこの男に、プリンシアのすべてを任せてみようか。彼の人となりは知っているから、悪いようにはしないだろう。しかし、プリンシアのふるまいが目に余るようなら、彼の厳しい眼と言葉が彼女を死の淵まで追い詰めてしまうかもしれない。それだけが、少し気がかりだった。
「……私は彼女の力が戻らずとも、よいと思っている」
彼が答える前に、王は秘めやかな口調で言った。
ローウェルは弾かれたように視線をあげる。
「もちろん、ミミリアには目覚めてもらわねば困る。しかし、そういう運命だったのだと諦める覚悟くらいはあるぞ。後継者を見繕うのは大変だろうが、地の竜討伐のために呼び出したプリンシアに、世継ぎ問題まで解決させようとは思わん」
「しかし」
「よい。だから、プリンシアがノーヴァの屋敷にいたいというのなら止めはせん。敬虔さも求めぬ。ただし、問題だけは起こさせないよう側に人を付けさせろ」
触らぬ神になんとやら。
王のこの対応を、ローウェルはどのように受け止めただろう。
彼は床に膝をつき、面を伏せて従順に応えた。
「近衛騎士を一名、付けさせます」
「ああ、頼むぞ。侍女では足りん」
「けれどその前に」
「なんだ」
王から彼の表情は見えなかったが、声と口調だけは冷静そのものだ。
「一度、あの方の意思を問うために都へ降りる許可を」
「一度でいいのか」
「はい」
うなずくと、彼は腰から剣を引き抜いた。これにぎょっとしたのは王で、とっさに焦りを隠すことができなかった。
「ま、まて、剣など返してくれるな。そんなことをせずとも許可くらいいくらでも……」
「いいえ、陛下」
剣を両手で捧げ持ち、彼は言った。王よりよほど、肝が座っているように思えた。
「生涯、この剣をもってギディオン国王陛下を裏切ることはありません。今、改めて誓いを捧げます。私は、陛下から賜った格別のご恩を死したあとも忘れません」
「……近衛騎士を辞める、わけではないのだな?」
「陛下に許される限り、今のところは」
「そ、そうか……なら、よいが」
「けれども、もし、プリンシアが私の提案を受け入れてくださったときは、あの方とともに宮廷を離れる覚悟です」
王は目を見開き、そして、ついに言ってきたかという思いで額を押さえる。もしかしたら、ローウェルはそれを言う機会を、静かに待っていたのかもしれない。それをこそ、ずっとずっとずっと、言いたかったのだろう。
「おまえは……従順に誓いを捧げてくれたかと思ったら、すぐそれか。まったく、これでは否やと首を振れぬではないか」
あからさまに溜め息をつくと、ローウェルは小さく申し訳ありませんとつぶやいた。宣言を撤回する気はないらしい。そもそも前言撤回するような男ではないと王は承知している。仕方がないと折れてやるしかなさそうだ。
「よかろう。許可する。ただし、プリンシアの意思に従うように。面倒はごめんだ。よいな?」
「御意のままに」
「何が御意のままに、だ。おまえと話していると、こちらこそ御意のままに、と答えそうになるぞ」
ローウェルは、王の軽口を聞いて、かすかに笑った。だから、王は、しょうがないなあと父親になったような気分で苦笑した。
「行け、リンナ・ローウェル。じぶんの目で確かめてこい」
「御意」