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「闘技場は、いかがでしたか?」
ノーヴァはさくらのための食事を用意しながら、うたうように言った。
席についておとなしくしていたさくらは、びくりとして視線を落とす。彼がその様子をじっくりと観察しているのは、わかっていた。
「何か感じるものがあったのでしたら、よいのですが」
最後にワイングラスへレモン水を注いで、彼はしたくを終える。さくらの返事がないことに、彼はもう慣れている。いや、返事ができないことを、彼は承知しているのだ。いわく、さくらはなんでも顔に出ると言うから、口ごもっていても彼にはさくらの心情が手に取るようにわかるのだろう。
「さあ、どうぞ」
目の前に用意された食事を、さくらは直視できずにうつむく。
食べ物の匂いを嗅ぐだけで、吐き気がこみあげる。とても物を口に入れられる気分ではなかった。
ノーヴァは冷たく微笑み、今日も食が進みませんねとささやくように言う。
食器を手にすることもできないでいたさくらは、息苦しさを覚えた。吸っても吸っても胸が苦しい。吐けば吐くほど肺が軋む。それでもきっとさくらの肉体は死なないのだろう。ずっと苦しいまま、惨めに生きていくのがじぶんにはお似合いなのかもしれない。
唾さえ飲み込めず、さくらはノーヴァのじっとりとした視線から逃れるために「祈ります」とうめいた。歯の隙間から絞り出したそのセリフを、ノーヴァは意味深な笑みで受け入れた。
「……成果を期待していますよ。プリンシア・サクラ」
喉元まで這い上がってきた嘔気を、首を押さえることでなんとか飲み下した。
彼の非道は、彼の妹を救うために行動した結果だ。きっと、妹のためならなんでもやってしまえるだろう。さくらが保身のためにすることごとくも、彼の非道と大差ない気がした。
さくらは彼の妹が目覚めるよう強く祈る。何度も、何度も、何度も、たくさんの言葉と高い集中力で神に語りかけている。
(……いつまで、こうしていればいいの)
まるで、生きたまま地獄に落とされたような心地だった。祈りの届く可能性はまったく感じられないのに、祈ることをやめれば存在価値のない土塊となってしまう。
ミミリアも呼び戻せない、ノーヴァの妹にも声を届けられない、リンナを昏倒させかけ、孤児院に争いの種を持ち込み、周囲を引っ掻き回す諸悪の根源。それが今のさくら。じぶんの性格がクズだとか、もはやそんな話ではない。さくらは、人様を不幸にしているのだという自覚をきちんと持たなくてはならない。
いっそじぶんが眠りにつきたかった。だがその願いを神が叶えることはない。
七日間、さくらは祈り続けた。ここまでしたのだから目覚めるはずだと苛立ちのような感情さえ湧いていた。
しかし、彼女の目蓋は閉じられたままだ。
どんなに本気で祈ったところで、やはりさくらにはどうすることもできないのだろう。ミミリアやリンナが倒れたのが偶然とは思いがたいが、もう、さくらは限界だった。
じぶんに力があるのかないのかなんてどうでもいい。なければ批難するというのならしてもらってかまわない。だからどうかこの苦痛から逃がしてくれ、とさくらは乾いた瞳を閉じることもできずに床に座り込んだ。
そんなさくらの様子をベッドに腰かけて観察していたノーヴァが、ふいにため息をついた。久しぶりに夢から覚めたように、さくらは我に返って肩をはねさせる。
さくらが無能であることを、彼は正しく察しただろう。察して、その予想が合っているかどうかを確かめる時間も十分にあった。
さくらを丁重に囲い込む理由が、彼にはもうない。
この期におよんでとっさに己の身の安全を心配したじぶんが、どうしようもなく浅ましく感じる。なんなら殺してもらったほうが楽になれるのに、どうしてもさくらは胸元をさらけ出せない。心臓を守るために背中を丸めて、恐怖に震えてしまう。
さくらの肉体は、生きたがっているのだ。そしてたぶん、ぼろ雑巾のようになったはずの、この心も。
「プリンシア」
ノーヴァが呼んでいるのは、いったい誰のことだ、と思った。
返事がないことがわかると、彼はさっきよりも強めの口調で繰り返し呼んだ。さくらが顔をあげ、反応を示したのを確認してから、彼は鼻で笑うような皮肉げな表情で続けた。
「やはりあなたではだめだったようですね」
役立たず、という宣告だ。
性懲りもなく、心臓が騒ぎ始めた。胸をさらしていたらナイフを突き立てられてしまうような気がして、肩を縮める。胸に引き寄せた両手が、握っているにもかかわらずひどく震えていた。
「宮廷におられたとき、妹のように眠りから覚めないという者の話を耳にしたことはありますか?」
問いの意図がわからず、無言でいると、彼は無表情でさくらを振りあおいだ。
「ありますか?」
もう一度問われ、首を横に振って答える。
ノーヴァはそれを見て、さくらから視線を外した。見ている価値もない、というようなそっけなさだった。
「……あなたと話すと、なんだか苛々しますね」
ぽつりと静かに、けれども手加減なく放たれた彼の言葉に、吐き気をもよおす。
吐くほどの恐怖や痛み、苦しみ、悲しみを、この屋敷に来てから何度味わっただろう。
ノーヴァはさくらの様子など気にかけず、むしろこの部屋にはじぶんしかいないみたいにうつろに続ける。
「話が全然先に進まないんですよ。あなたは返事もろくになさらない。何を聞いても中途半端な言葉が、聞き取りにくい声でつぶやかれるだけ。正直、うんざりします。そんなだから、皆あなたにいらつき、文句を言うのではありませんか?」
「……な、んの」
「なんの話かとお訊ねになりたい? 心当たりがあるくせに。ねえ、そうでしょう。商人というのは人脈を大切にするものでしてね、宮廷にだって伝はあるものなのですよ。だからあなたが周りにどう思われていたかなんて、聞き出そうと思えばすぐに聞き出せるのです。まあ、あなたをよく知る人物が誰一人いないことには困惑しましたが」
ノーヴァは、声を出して笑った。さくらに聞かせるための、笑い声だった。
「プリンシア、あなたの侍女が言っていましたよ。好きになさればよろしいのです、とね。この屋敷にいることを、あなたが望んでいるのだと彼女は信じて疑わない。だから王宮へもそのように報告なさったのでしょうし、もう手に負えないと陛下に訴え出るおつもりのようですよ」
ここでやっと彼は笑い声をおさめ、静かに微笑んだ。
万にひとつも、助けが来る可能性はない。そう言われたも同然だった。じわじわと絶望感が腹の底に満ちていく。
「ただひとりついてきてくれていた侍女にまで見放されて、おかわいそうなプリンシア。陛下は迎えを寄越してくださるでしょうか? それとも、私が、あなたの滞在を快く受け入れるとお伝えしたら、陛下は喜んで私にお任せくださるのでしょうか?」
彼はさくらの反応をどうでもよさそうに眺めている。さくらが唇を噛み締めても、噛み切ることはできないと知っているような態度だった。
「実は、王から私へ召喚命令が下りました」
さくらは、息を飲んだ。
もしかして、非常事態に気付いた王がノーヴァ家の闇を暴いてくれるのではないか。だが、素直に期待を持てない。むしろにわかに嫌な予感がしていた。
案の定ノーヴァに焦る様子はなく、むしろほくそ笑んでさくらに歩み寄った。
「商家組合の組長も呼ばれたようですね。話をうかがってきましたが、どうやら私の家の評判をお訊ねになられたとか。そこで組長はずいぶんと私を誉めちぎってくださったらしくてね、プリンシアが私の屋敷にいるとわかっても返せとはおっしゃらなかったそうですよ。私もね、いつでもあなたをお返しすると申し上げたのに、そうしてくれとは言われなかった」
「え……」
「残念でしたね。助けが来てくれるかもしれなかったのに」
じぶんが危険をおかさなくても、誰かが助けてくれる。誰かがこの屋敷の暗部を暴いてくれる。
そういう他力本願の考えに、彼らは現実の厳しさを見せつけた。
うつむいてぶるぶると震えるさくらを、ノーヴァは楽しげに見下ろしている。
「あなたは厄介払いされたようですね、おかわいそうに。しかし王は、もうあなたの面倒を見るのに飽いたみたいだ。叩いても埃は出ませんが、こんな一介の商人に預けておけるくらい、あなたを手放したくてしょうがなかったのでしょうね」
まとわりつくような甘い声で告げられる、狼少年の末路。そんなことはない、と反論する術を、さくらは持たない。こういうのを、自業自得と人は呼ぶのだ。
気を抜けば、舌を挟んだ歯と歯に力をこめてしまいそうだった。
「さて、プリンシア。……このスープを飲んでください」
いったん退室して食器の乗ったカートを持ってきたノーヴァが、さくらの前に皿を差し出す。肩を怒らせて警戒するさくらに、彼は容赦なくスープを掬ったスプーンを突きつけた。
「眠り薬が入ったスープです。今夜、ここを焼いて人身売買の証拠を消す予定ですので、あなたには王の膝元へ戻ってもらいましょう」
「なん、で」
「なぜ? 王の許可があったとしても、役に立たないあなたをいつまでも囲いこむつもりはないんですよ、私。監視もおそらくつけられるでしょうしね。私は、王の干渉があった時点であなたを手放すと決めていました。たとえ王が、返してくれなくていいと言っていてもです。まあ、そんなところに無理矢理突き返されてしまうあなたに同情くらいはしますが」
ゴミを押し付けあうみたいに、さくらの処遇を決めかねている。こんなに惨めなことは、もとの世界にいたとき以来だ。
引き結んだ口に、力づくでスプーンが突き込まれる。
「ほら。強い薬です。眠っているあいだに、あなたは宮廷の邸へ帰れますよ。惨めなことは、眠ってやり過ごせばよろしいのです」
「や、焼いたって、証拠は消え、ないっ」
「消えますよ。私には財も人脈もある。口もうまいと自負しているので、あなたを狙ってきた賊に闇討ちに遭ったと訴えれば丸く収まりますから。あなたが何を言ったところで、きっと誰も相手にしない。そうでしょう? もはやあなたを信じて力を貸す者などいないこと、ごじぶんが一番よくおわかりのはずです」
舌を押さえつけて割り込んでくるスプーンから、生温かい液体がこぼれる。それを、さくらは素直に飲み下してしまった。
口下手というのもおこがましいほど、さくらの口は重く、声も出しづらい。さくらがたどたどしく訴えることを「このひとになら聞いてもらえる」と思い浮かべられる顔もない。商人として信頼のあるらしいノーヴァと、証拠もなく口だけでやりあえる自信が、さくらにはまったくなかった。
ひと口、ふた口、スープを飲み下すたび、何かが死んでいく気がした。
「いい子ですね。準備が整ったら、また迎えに来ます」
はじめてほめられて、安堵してしまうじぶんがおかしかった。