表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/40

012頁



6



 数時間、少女のために祈ったが、なんの変化もないのを見てノーヴァは「まあ、予想はしていましたが」とつぶやいた。落胆の色は薄く、表情もこれといって変わらないので、さくらは彼の心情をはかりかねた。


「私はプリンシアの祈りというものを見たことがないので一応訊ねますけれど、手を合わせてからどれくらいで願いは叶うものなのですか?」


 さくらが押し黙ると、彼はその沈黙の意味を察して肩をすくめる。


「……なるほどね」


 薄ら笑いの滲む声だ。縮こまるさくらの周りをゆっくりと歩いて、血の気の引いた顔を楽しそうに観察している。


「祈っても叶わない? そうおっしゃりたい?」


 こぶしを強く握ったのを、ノーヴァは見逃さない。笑みを深めた彼はさくらを立たせ、食事にしましょうかと言った。これに拍子抜けしたのはさくらのほうで、つい顔をあげて彼をまじまじと見つめてしまう。

 彼は苦笑した。苛立ちを我慢したような顔だった。


「一日やそこらでどうにかできるとは思っていません。八年も待ったのです、解決にはそれ相応の時間がかかることくらい承知の上です」

「も、もし、目覚めなかったら」

「別にどうもしません。目覚めるまであらゆる手を尽くすだけです。さあ、わかったら部屋に戻りましょう、食事の用意をさせました」


 足の鎖を引きずって、与えられた部屋に戻る。

 食事のカートが用意されているのを見て、気持ちが悪くなった。それでも促されてテーブルの前に座り、震える手でカトラリーを探る。最初に使うのはスプーンからだ。

 ノーヴァ自ら給仕するらしく、彼はさくらの前にスープ皿を置いてにこりとした。


「さあ、どうぞ。お好きなだけ召し上がってくださってけっこうですよ」


 貼り付いたような笑みが頭上からさくらを見下ろす。

 返事がうまくできなくて、うなずいた。

 やけに静かな時間だった。目をそらさずにいるノーヴァの視線だけが、強く感じられる。脇の下に冷や汗が滲んだ。


「おや、お気に召しませんでしたか?」


 食事の進まないさくらを、ノーヴァが甘ったるく気遣う。

 彼の目は弓なりになったまま、ぴくりともしなかった。

 笑っているけど、笑っていない。

 このひとの、優しさの理由がわからない。罵られるのはもちろん怖いが、こういうふうになんのつもりで優しくしてくれているのかわからないのはもっと怖かった。


「ではこちらはどうでしょう。レモンを使ったソースがかかっていて、さっぱりと召し上がっていただけるかと」


 テーブルに移された鶏肉のソテーが、一キロの肉の塊に見えてきて、とてもじゃないが食べられないと思った。

 でも、食べるのを拒否してしまったらノーヴァはなんと言うだろうか。妹を助けられず、用意されたものをありがたく受けとることもできないさくらを、きっとノーヴァは冷めた目で見る。


 さくらは小さく身震いした。

 訳のわからない優しさでも、苛立ちをぶつけられるのよりはずっとマシだ。じぶんが我慢してどうにかなるならそのほうがいい。


「おいしい、です」


 鶏肉をひとかけ、口に入れてそう言う。さわやかなはずのレモンソースが、つんと舌を刺激する。そこまで強くはないとわかっているのに、匂いがきついと感じた。

 えずきそうになって、必死に唾を飲み込んだ。肉のかけらは、口の中に残したままだ。今これを喉に落としたら、確実に吐く。舌の付け根が、異物を排除しようとうねっている。


「本当に? お口に合わなければおっしゃっていただいてかまいませんよ」

「は、はい。大丈夫、おいしいです」

「──わかりやすい嘘ですね」


 テーブルにとん、と手が置かれる。

 一気に血の気が引いて、身を守ろうと反射的に面を下げた。


「あなたはとても頭の弱い方だ。宮廷でもそうしていらしたのですか? そうやって……いろんなことを見え透いた嘘で誤魔化して?」

「っうそ、じゃな……いです」

「はて、では肉を口に入れたままおしゃべりなさっている自覚はおありで? プリンシア・サクラ」


 鋭い指摘を受けて、喉がひとりでに絞まった気がした。急いで口にあるものを飲み込みたくとも、それはまるで噛み続けたガムのように舌の根に引っ掛かっている。

 猛烈な恥ずかしさと焦りが目尻からこぼれそうになり、慌てて目蓋を閉じた。


「ほら、飲み込めていないくせに。また誤魔化そうとなさった」


 全部お見通しだとばかりに、ノーヴァはほくそ笑む。


「でも全然誤魔化せていないんですよ、ご存じでした?」


 奥歯で噛んだ肉から苦い汁が滲み出る。唾液さえも、肉に邪魔されて飲み込めない。


「苛立つほどに、あなたの表情は露骨だ。なんにも隠せていない。なんにも誤魔化せていない。あなたがどんなに言葉を重ねても、幼稚な嘘が並ぶだけなんですよ。聞いているこちらとしては、誤魔化そうとするあなたの性根の悪さを感じ取ってそれで終わりです」


 苦しくて、あえぐように噛みしめた歯の隙間から息を吸う。そのとき嗚咽のような声がかすかにもれると、ノーヴァはわざと顔を寄せてきて薄笑いをする。


「もしや、ごじぶんでも気付いていらっしゃる? じぶんを守ろうとして放った言葉が、逆にあなたの首を絞めている。もはや誤解なんてかわいいものじゃありませんね。あなたの言うことなんて信用できないと思われているんですよ。

 またあいつは嘘をついているぞ、そんな見え透いた嘘で我々を誤魔化せると思っているのか? 馬鹿にしやがって──とね。あなたも、もうわかっているはずだ」

「わ、わかっ、わかっ……」


 わかっていた。誤魔化そうとすればするほど、嘘をつけばつくほど、首が絞まっていく。だけど正直に、じぶんの考えや行動を告白することができないのだ。素直に言ってしまったら、なんて薄汚い奴だと真正面から冷たい目を向けられる。嘘だとバレバレの嘘でも、その場をしのげればそれでいいと思っている節がさくらにはあった。どちらにしろ悪口を言われるのなら、直接ぶつけられずに済む陰口のほうがマシだと思えた。

 さくらは膝の上で、力いっぱいこぶしを握った。漫画のように手のひらから血が流れることはない。やわらかな皮膚に食い込んだ、やわらかな爪は、数秒もすれば消える痕しか残さない。


「あなたのことを本当に信じてくださる方は、どれだけいるのでしょうね」


 誰一人いないのだと、わかっていて彼は言う。さくらには、その悪意ある問いかけへ返す答えがなかった。


 さくらには、面と向かって嘘を暴こうとするひとは誰もいなかった。もはやさくらの言っていることが嘘なのか本当なのか、その真偽を確かめようとする人さえいなかったかもしれない。

 例外はリンナだけだった。ああもあからさまに非難の目を向けてくるようになったのはいつからだったろう。

 よくお似合いですよと微笑んだ侍女が、さくらのいないところで「誉め言葉も尽きてきたわよ」などと仲間内で笑っていたのは知っている。だから、彼女たちが信じていますよと言ってくれていても、それを本気にしたらいけない。リンナと同じかそれ以上に、彼女たちもさくらを信じていないのだ。ジンにしたって国王にしたって、本当は笑顔の裏でさくらを疎んじているんじゃないのか。

 胸の奥がうねり、熱い塊が喉を駆け上がってくる。

 軽くえずいて、すぐさま口元を押さえた。

 ノーヴァはその様子を顔色も変えずに観察していた。


「この屋敷にいること、あなたの希望でと私が侍女の方に説明いたしましたが、まったく疑っておりませんでしたよ。まるであなたのわがままには慣れているというふうにね」


 ぱたたっと膝に涙が落ちる。


「誰かが助けに来てくれるといいですね。囚われの姫君には、颯爽と現れる王子さまがいるものですから。あなたが真に皆に慕われるプリンシアであるのなら、きっと助けが来ますよ」


 ──舌を噛み切る勇気が、わたしにあればよかった。





 六日間、日中はずっと祈りのために時間を割いてきた。昨夜に関しては夜通し祈った。

 もしも力が健在で、お役目のときのように祈りが叶うとしたら、そろそろ成果が出る頃合いだ。討伐隊が行く道筋はあらかじめ決められ、入念な下準備があって挑むことだから、さくらはそれに従って細かく祈りの対象を変えていた。「無事に谷を抜けられますように」と祈れば、やがて「負傷者なし」の報が王宮に届けられる。イレギュラーな事態には当然対応できないので、移動中にワームに出くわすと、天の加護を失ったように多くの負傷者を出すこともあった。


 けれども、祈りさえ間に合えば、吉報が届く。当時のさくらはそれに気をよくして、敬虔なふりを続けた。


 なんだか考えれば考えるほど、さくらに祈りの力はないように思える。それなのにどうしてか、ひとを昏倒させる祈りだけは叶ってしまった。その逆の願いは無視されるのに、どうして。


「なんで、目覚めないんだろう……」


 ピンポイントな祈りでないといけないとして、目覚めて欲しいという願い以上に的確な表現が見つからない。ミミリアに対して、さくらのわがままの取り消しを願っても叶わなかったのだから、何か違う文句が必要なのかもしれなかった。もっとも、表現が合っていれば効果が現れるというような魔法じみた力を祈りと呼ぶのなら、だが。


 仮眠するようにと言われたのに、眠れないまま時間だけがいたずらに過ぎる。


 溶けかけた氷のようにベッドに伸びたさくらには、寝返りを打つ気力さえなかった。

 ゆうべは徹夜だったのに、眠気が訪れない。熱を帯びた身体は重怠く、頭だけが興奮しているようだった。翌日に起こる嫌な出来事を想像して、眠れない夜を過ごした日々が思い出される。聖都ミュゼガルズに来る前は、毎晩そうやってベッドの上をごろごろしていた。

 懐かしく、そして身体の芯から震え上がるような恐怖を感じて、さくらは枕を抱き締める。


 学校も、会社も、さくらが死んでみせてやらなければ何も考えない。そうしてやらなければ、考えようと思い付きもしない。いや、どうせ喉元過ぎれば熱さも忘れるのだ。

 聖都ミュゼガルズも、同じ。

 もしもここから逃げ出せるのなら、どこへ行こうか。何をしようか。

 空想しようと思っても、それらはなんの楽しみもさくらに与えなかった。

 行く先々で嫌われる未来しか思い付かず、無一文でなんとかやっていけると思えるほどさくらは人付き合いがうまくない。きっと路頭に迷い、見知らぬ人に一言だって話しかけることもできずに餓死するだろう。今の季節なら凍死するのが関の山だ。


 孤児院で「変われるかもしれない」と希望が差したことを思い出すと、なんだか悲しくてしょうがなかった。


 夕方頃になって、ノーヴァが部屋を訪れた。いつも通りの、目の笑っていない冷えた笑顔をつくっている。


「お目覚めでしたか。おや、顔色が悪いようですね、あまり眠れませんでしたか?」

「い、いえ……」

「またお得意の嘘」


 めまいがするほど、心臓が飛び跳ねた。

 ノーヴァは冷たい笑みをこぼし、ベッドの足に繋がれた鎖を外す。


「まあいいでしょう。さて、プリンシア。今から少しお付き合い願いたいことがあるので、一緒に来ていただけますね?」


 じゃり、と鎖を引かれて、さくらはうなずく。声に出して返事をするのが、たまらなく怖かった。




 


※※※



 目を覚ますと、檻が視界に入った。いまだ鳥籠に囚われたままなのを知り、カフと名付けられてしまった少女は涙をこぼした。

 あたりは暗く、誰かのすすり泣く声が聞こえる。カフの他にも、泣いている女の子がいるのだ。


 もしもノーヴァの若旦那が、人身売買に手を染めていない健全な男性だったら、今頃じぶんは幸せに暮らしていただろうか。貧しい孤児院での暮らしを懐かしむ余裕さえみせて、優雅なドレスを身にまとっていたのだろうか。 

 たとえば、侍女をつけてもらって、着替えや髪結い、入浴なんかも全部他人任せにしたらどんな気持ちがするだろう。食事は毎日決まった時間に用意されて、席につくだけで食べられる生活だ。鮮やかで華やかなドレスをひるがえし、夜会に参加すれば、見目麗しい殿方にダンスを申し込まれる。うまく振る舞ったら、王宮に伝のある有力な家の男性と結ばれることだってあったかもしれない。


 そんな夢物語が、手の届くところまで近づいていたはずだったのに。


 広間にぱっと光が散り、あちこちから悲鳴があがった。相変わらず鳥籠の中には少女たちが閉じ込められ、日によって減ったり増えたりを繰り返す。さいわい、カフはまだ戦いに参加したことはなかったけれど、新顔も増えてきたこのごろでは、そろそろじぶんの番だと震えあがらずにはいられなかった。


「ご来場のみなさま。本日もお集まりいただき、まことにありがとうございます」


 今日もノーヴァの声が降ってくる。もう何日経ったのかわからない。一ヶ月経ったような気もするし、まだ三日くらいしか過ぎていない気もする。

 震えるのにも体力を使うので、カフは他の少女たちと同じようにぐったりと鉄格子に寄りかかってノーヴァの声を聞いた。

 今日、じぶんが戦わされるとも知らずに。


「それでは、今夜お披露目いたしますのは見目麗しき十五歳の少女でございます。対するは醜女とそしられ、しいたげられてきた不運の少女」


 カフは、急に胸騒ぎがして、跳ね起きた。暗がりを見回し、足音が聞こえないか必死で耳を澄ませる。


「鍵を開けなさい」


 足音は聞こえない。

 見目麗しい少女にも、醜い少女にも、覚えはなかったけれど、胸騒ぎがしていた。

 心臓の鼓動が鼓膜を揺らし、吐き気を誘う。この嫌な予感を止められるなら、何かしなければと思った。とっさに檻の継ぎ目がどこだったか探そうとして、振り向いたカフは悲鳴と一緒に内臓を吐きそうになった。

 鍵の輪を手にした小肥りの男が、カフの檻の前に立っている。


「ひっ……いや、いや、いやよ、うそでしょう!?」

「残念だが全部本当だし夢でもねぇ。お嬢さんの番だぜ」


 男の手によって、カフの檻の鍵は開けられた。抵抗しても引きずり出されるだけだと、数日をこの広間で過ごしたカフにはわかっている。

 それでも、格子にしがみついて助けを求めずにはいられなかった。きっとここにいるどの女の子も、同じだ。別の檻から、泣き叫ぶ甲高い声が聞こえてくる。

 カフは鉄の格子に腕を絡めて、ひきつった笑みを無理矢理浮かべた。


「ね、ねえ、さっきノーヴァさまはおっしゃってたわね」


 男が首をかしげるので、震える喉から声を絞り出して続けた。


「美しい少女と醜い少女が、た、戦うのでしょ?」

「そうらしいなあ」

「で、でも、でも、あたしはどっちにもあてはまらないわ! だってそうでしょ? あたしよりきれいな子はいっ、いっ、いっぱいいるし、ぶさいくな子だって、いるもの。ね、ねぇ? そうでしょ? あなたは行くところを間違ってるわ。あなたが開けなきゃいけないのはあっちの檻よ、そうよ、あっちよ。ね!?」


 どこへともなくひとさし指を向けると、男はどぶ水をすする乞食を見るような目でカフを見上げた。


「ここで合ってる」


 ざっと血の気が引いて、鉄格子を掴む手から力が抜けた。意識を失いかけたのかもしれない。がつんとぶつかりながら鳥籠の床に落ちた両手と、傾ぐ身体を、男が容赦なく引っ張った。まるでガラクタしか入っていないずだ袋を引っ張り出すような乱暴なしぐさだった。


 地面に引き下ろされて、カフは泣き叫んだ。檻に戻ろうとがむしゃらに手を伸ばしたが、背中を蹴飛ばされて前につんのめる。そしてそのまま何度も蹴られ、髪や服を掴まれて広間の真ん中まで移動させられた。髪がたくさん抜けたのか、頭が痛かった。


「あんまり手間かけさせると今度は大女にやらせるからな。あいつはもっと容赦ねぇぞ、ほら、あれを見な」


 あごをぐっと持ち上げられ、顔があがる。視界に入ったのは、髪の毛だけを掴まれ床を引きずり回されている少女だった。金髪の女が、長い赤毛を紐のように握って、まるで金持ちがする犬の散歩みたいに少女を連れ歩いている。


「じぶんで歩かないなら引きずるだけだと申し上げたでしょう」


 金髪の女は口調こそ丁寧だが手つきは乱雑で、時おり手に絡まった髪の毛を掴み直してこちらへやってくる。

 カフの目の前に投げ出された少女は、下膨れの顔を歪めてうずくまった。しかも殴られでもしたのか、彼女の左目は腫れていて、ほとんど開いていない。

 貧弱そうな女の子でよかった、とカフは思う。以前見た、ふくよかな体つきをした少女が相手だったら反撃どころか逃げることさえままならない気がする。でも立たされた彼女はカフよりも頭ひとつぶん背が高く、筋張っていて、叩かれたら痛そうだ。


 バルコニーから、手すりを叩く音がする。檻の中にいたときにはわからなかった、大勢の人々の息遣いや強い視線を感じた。


「じゃっ、せいぜいうまくやんなよ、お嬢さん」


 去り際に小肥りの男が言うので、思わず追い縋ろうとした。じぶんはノーヴァの若旦那に引き取られたお嬢さんなのだ。だから奴隷のようにここにいるのは何かの間違いだ、と言うつもりだった。

 けれども金髪の女に襟首を掴まれ、引き戻される。振り返れば、青い瞳がじっとカフを見下ろしていた。女の所業はさっき見たばかりだ。カフは慌てて女の手を振りほどき、距離をとった。この人の前で反抗したら何をされるかわかったものじゃない。とにかく、相手の女の子を叩いて蹴って降参させるのが、今のじぶんにできる唯一のことだ。もう、やるしかない。


 ノーヴァが試合開始のコールをすると、小肥りの男と金髪の女は暗がりに姿を消した。残された女の子とカフは一度だけ目を合わせたが、カフのほうはそれを振り切って手をあげた。彼女の懇願するような視線は、無視した。


「ひいっ、やだやめて! やめてえっ! 痛い! 痛いぃっ……」


 どんなに彼女が泣き叫んでも、カフは聞かなかった。聞こえないふりをした。じぶんが痛いことをされないために、彼女を叩き続けたし、髪を引き抜いたり、足のすねを何度も蹴ったりする。

 けれども少女はカフより背が高かったので、なかなか床に倒れない。おのれの身を庇うように振り回された彼女の手がカフの頬を引っ掻き、ひるませた。

 少女はカフに怪我をさせたことにハッとしたようだったが、その目は新しい事実を発見したみたいに見開かれ、そして次にキツく細められた。

 反撃される。

 背筋に緊張が走り、カフは無我夢中で彼女の胸ぐらに体当たりした。なにがなんでも床に引き倒し、有利な体勢をとらなくてはいけない。そうじゃないと、身長で負けているカフには勝機が見えなかった。


「たおれろ! たおれろ! たおれろ!」


 力の限りに叫ぶ。もはやじぶんが何を口走っているのかもよくわからなかったけれど、相手の女の子は癇癪を起こした子どものようにカフに掴みかかってきてこう言った。


「ひとでなし! あなたはひとでなしだ!」


 だからなんだというのだ。


「いいからたおれろ!」


 うまく舌がまわらない。それでも叫び返し、胸の痛みを八つ当たりのように彼女にぶつけた。

 しばらく、二人は揉み合い、カフはひたすら彼女を叩いた。

 彼女はカフを叩きはしなかったけれど、床に引き倒されることだけは許さなかった。

 決着のつかない二人の争いはノーヴァの一声で終わりを告げ、再び現れた小肥りの男と金髪の女によって引き離される。


「はじめてにしちゃあ、なかなか悪くなかったぜ。なかなか悪くない、醜い戦いだった」


 男に軽く背中を叩かれ、おそらく、ほめられたのだろう。

 なんだか、失ってはならない大切なものを自ら手放してしまったとしか思えなかった。




 カフは次の戦いが始まっても、身の毛のよだつ悲鳴が聞こえても、檻の中でまるまって震えていた。

 じぶんの手のひらを見ると、ひどく汚れているような気がしてならなかった。それが砂なのか泥なのか油なのか、はたまた血なのかはわからないけれど、爪の間にも悪いものが挟まっている感じがしていた。

 それらのことを、カフは、考えないように努めた。悪いことをしてしまった、と自己嫌悪がはじまれば、次はもう人を叩くことができなくなる。それでは、今度はじぶんが痛い目にあうだけだ。だから、じぶんが無事にここを出ることだけを考えようと思った。


 この日から続けて三回、カフはオークションに参加した。ひどく叩かれることもあれば、耳が引きちぎられそうになったこともあった。そのぶんカフのほうも相手を攻撃し、痛くするのも痛くされるのも嫌で嫌でたまらなくて、いっそ舌を噛み切って死ねないだろうかと思い始めた頃だった。

 珍しく、ノーヴァがカフの檻を訪ねてきた。まるで鉄格子などないみたいに、彼はやわらかな微笑をたたえている。


「こんばんは、カフ」


 カフは、もう、カフだった。元はもっと女の子らしい名前だったが、ここでは、彼のつけたカフでしかなかった。これは、おそらく女の子たちに割り振られた番号らしいといつしか気付いた。


「今日はいつもよりがんばっていたね、カフ。相手は腕の骨を折ったよ。今は治療をさせている。といっても、添え木をあてることくらいしかしてあげられることはないけれど」

「じゃあ、あの、もう戦いには参加しないの……?」

「まさか」


 骨を折ればしばらくのあいだはオークションを降りていられるのかと思って訊ねると、彼は何が楽しいのか笑みを深めた。


「手負いの獣はきみが思うよりよく戦ってくれるものだよ。それより、私はきみとおしゃべりをするためにここへ来たわけではないんだ」


 カフは青ざめ、できる限り後ずさりした。戦わせるだけでは飽きたらず、何か他にも痛いことをされるのではないかとおびえる。

 ノーヴァはそれを悠々と眺めながら、優雅に片手をあげて誰かを招いた。

 その誰かは、カフがここへ来てから何度も助けを求めた、プリンシア・サクラその人だった。


「……プリン、シ、アっ」


 このとき、カフの中でわき上がったのがなんだったのか、じぶんでも説明できなかった。けれども熱くねばつき、一気に噴き上がるような激しさのある感情だった。

 カフは鉄格子に掴みかかり、白く清潔なネグリジェに身を包むプリンシアに向かって猛然と怒鳴った。


「おまえのせいで! おまえのせいで! おまえがっ、おまえがあたしの不幸を願ったせいで! このひとでなしの木偶の坊が!」


 死ね、と言いそうになった口が、顔面蒼白のプリンシアを見てかろうじて閉じられた。でも本当は言いたかった。この女さえいなければこんな不幸は訪れなかったかと思うと、孤児院で世話をしてやっていた数日間さえ惜しくなる。このひとでなしのためにじぶんがどれだけ我慢して冷たい水に手を突っ込み、汚いぞうきんを洗ったことか。

 何度怒鳴っても怒りはおさまらず、ノーヴァが薄ら笑いを浮かべたまま止めないのをいいことに罵り続けた。


 そのあいだ、プリンシア・サクラは天の裁きを受けるかのように黙り込んでいた。いっさいの言い訳も、弁明もしない。もしかしたらこの人には何も聞こえていないのかもしれないと途中でカフは気付いた。

 プリンシア・サクラは、今にも倒れそうな青白く痩けた顔をうつむけて、どこかに意識を飛ばしているように見えた。


「ねえ、なんとか言いなさいよ! 人の不幸を願っておいておまえだけが幸せになるなんて間違ってるって言ってるのよ! なに、なんなの、そのドレスは? あたしがこんなに怪我をして、だぼだぼの服を着ているっていうのに……っ。人と戦わされて、痛い目にあってるっていうのに……っ、なんでおまえだけがのうのうとドレスなんて着てるのよ! あたしと代わりなさいよ! このっ、ひとでなし、ひとでなしっ、ひとでなしっ!」

「……申し訳、っありません」


 かぼそい声で、彼女は言った。ぼろりとこぼれた涙は大粒で、あとからあとから溢れてくる。彼女はそれを両手で拭って、しゃくりあげながらひどく泣きじゃくった。

 おまえが泣いたってあたしは救われない、そう怒鳴り付けると、プリンシア・サクラはとうとうくずおれ、床にうずくまってむせび泣いた。何度も何度も謝っていたが、謝るくらいなら最初から人の不幸なんて願わなければいいのだ。


「あたしをここから出してよ」


 もはや聞こえていないだろうとは思ったけれど、言わずにはいられなかった。


「おまえが祈ればそれくらいできるんでしょう!? さっさとっ、さっさと祈ってあたしを助けてよ! そうじゃなきゃあたしが祈るわ、おまえが今すぐ地獄に落ちますようにって!」


 プリンシア・サクラは、声をあげて泣く。

 おとなのくせに、こんなにあからさまに泣く人をはじめて見た。命の危険もないのに、ただ、カフの放つ言葉が痛いから泣いているのだ。カフが流した恐怖の涙に比べて、なんて軽い涙だろうと思った。

 けれどあんまり悲壮な泣き方をするから、ほんの少しだけ、溜飲がさがった。世の中の人々が崇め、敬う【祈りの姫君ティフェイクス・プリンシア】をここまで泣かせているじぶんが、彼女を越える大物になった気がしたのだ。

 プリンシアも、たいしたことない。

 くだらない、ただの女だ。

 それも、そこらの少女より脆弱で頼りなく、とるに足らない地味な女。

 彼女がプリンシアでなく、普通の少女として孤児院に入ってきたとしたら、カフは確実に子分として扱っただろう。


「おまえみたいなのがプリンシアだなんて、なにかの間違いなんじゃないの? 本当はちゃんとしたプリンシアがいるか、そもそもプリンシアなんかいてもいなくても変わらないような存在なんじゃないの? ワーム討伐も、おまえの祈りなんてなくたってきっと成功したのよ、そうよ、絶対そう!」


 檻の中にいてはプリンシアを蹴り飛ばすことができない。だからせめてその心をズタズタに切り刻んでやりたかった。カフがプリンシアを傷付けるためだけに、不敬罪だということを忘れて罵詈雑言を放つと、ノーヴァが面白い冗談を聞いたみたいに笑い声をあげた。

 プリンシア・サクラは、ついに、えずき始めた。


「素晴らしい。きみはとても素晴らしいよ、カフ。あとでご褒美をあげようね」


 目の前で激しく人が泣いているのに、ノーヴァは顔色ひとつ変えずにそう言った。そして金髪の女を呼び寄せ、まともに座ってもいられないプリンシアを抱えさせる。


 もしかしたら、ノーヴァもプリンシア・サクラを傷つけてやりたくてカフの前に連れてきたのだろうか。だったら、オークションに参加させたほうが手っ取り早いのに。それにもしプリンシアが相手なら、カフは今まで以上に手加減なしに戦っただろう。

 あの薄ぼんやりした没個性の茶色の髪を全部引きちぎって、鼻をへし折ってやるのだ。

 カフはもう、人の殴り方を覚えてしまっている。


 人知れずくすりと笑うと、ふと衣擦れの音がした。


「女は口が達者だなあ、こわいこわい」


 誰の声かはすぐにわかった。暗がりに、小肥りの男の小さな目がある。ふんっと鼻で笑うと、彼はもう一言付け加える。


「ひでぇことも平気で言っちまえる。おお、こわい」


 かちんとして言い返してやろうと意気込んだのに、なんと言ったものか思い付かなかった。

 過去最高に口悪く罵った自覚はある。そして、人を傷付けるという目的のためだけに、言葉を選ばなかったことも、相手がどう思うかもまったく考えなかったことも、じぶんの言葉で相手が死ぬほど苦しめばいいと本気で思ったことも、じぶんで、ちゃんと、わかっていた。


 今さらプリンシアの機嫌をとろうとも敬おうとも思わないけれども、それでも、人を殴ることと同じくらいに悪いことをしたのではないかという胸騒ぎが、少しだけ、した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ