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 少女は目を覚ました。

 きっと次に目を開けたときは、フリルとリボンのたっぷりついたネグリジェを着て、ふかふかのベッドに寝ているんだと思った。だから、真っ先に視界に映るのは天蓋から下がるレースのカーテンで、じぶんが起きたことに気がついた召し使いが声をかけてくるはずだと思って疑っていなかった。

 でも、さらさらのリネンが手に触れない。

 首が痛い。

 腰が痛い。

 なにかがおかしい、と感じて、目蓋をあげるのが怖かった。もしかしたらすべては夢で、お金持ちの豪商なんて存在しなくて、リコーもじぶんも相変わらずボロをまとって硬い寝台に横になっているんじゃないか。仮にそうだとしたら、なんて最低な夢なんだろう。両親に捨てられたと気付いた幼い日の絶望が、よみがえったみたいな気分だ。


「起きたのかい?」


 ノーヴァの声がして、ああよかったと胸を撫で下ろす。幸福な夢はまだ続いている。

 少女は喜んで目を開けた。そういえば馬車に揺られるうちに眠ってしまったのだった。だから触り心地のいいリネンがなくても仕方がない。だってここはまだ、幸福の道の途中で、馬車の中で――


「……え――ここ、どこ……?」


 鉄の棒が並んでいる。ノーヴァのやわらかな笑顔が棒の向こうにあって、一瞬、彼が檻の中に囚われているように見えた。

 でも、違う。

 檻の内側にいるのは、じぶんのほうだ。

 少女は飛び起きて、あたりを見回した。

 周囲を囲む狭い檻。鳥籠だ。黒々していて、ところどころ赤茶色の錆がついた鳥籠に、少女は捕らわれていた。周りにも同じような鳥籠がいくつもあって、天井から吊り下げられているものと地面に置かれているものとがある。少女がいる鳥籠は吊るされているほうで、地面からはおよそ一メートルくらい離れていた。


「ノーヴァさま、あの、ここは」


 なにがなんだかわからない。幸福な夢を見ているつもりなのか、心臓がどきどきしている。思わず胸を押さえてノーヴァを見つめたが、彼はにこりとしてこちらに背を向けてしまう。


 彼の視線を追うように顔をあげると、鳥籠はどこかの大部屋に設置されているようだった。中央の広間を囲むように、周囲の壁にはいくつものバルコニーがくっついている。窓がない部屋なのか、とても暗い。天井のシャンデリアが宝石のようにきらきらとまたたいて、広間だけを照らしている。

 どうやらバルコニーには光が当たらないようになっているらしく、そこになにかがあるのか、それともひとがいるのか、少女にはわからなかった。


「君を歓迎するよ、カフ」


 ノーヴァは目だけで振り返って、そう言った。少女はカフという名で呼ばれたことなど一度もない。なのに彼はごく当然のことのようにカフと呼んで、檻から離れていってしまう。


「えっ……待って! 待ってください、ノーヴァさま! ノーヴァさま!」


 慌てて鉄格子にとりすがって彼を呼び戻そうとするのだが、彼は見向きもせずに部屋を出ていく。代わりに入ってきたのは小肥りの男で、見るからに粗野な動作で頭を掻きながら少女のところへやってくる。彼の手にはじゃらじゃらと連なる鍵束が握られていた。


「よっす! あんたがカフだな」

「だ、だれよ、あなた。あたしはカフなんて名前じゃないわ」


 馴れ馴れしい口調につい眉を寄せると、彼は怒ることなく気の毒そうに苦笑する。


「俺のことはどうでもいい。あんたはあんたの心配をしたほうがいいぜ。まあ、もとからそれができてりゃ、あんたはこんなとこにはいなかったわな。ちいっとおつむの足りないお嬢さん」

「どういう意味?」


 男は腹の立つ軽い口調のまま、親指で他の鳥籠を示してみせた。


「ごらんのとおりさ。ここにゃ、女の子が集められてる。見えるだろ? みんな怪我だらけ、包帯だらけ、ついでにぐったりしてる。なんでだと思う?」


 鳥籠の女の子たちをよく見ようとしたとき、再び扉が開いて、今度は女が入ってきた。ノーヴァではないことにがっくりする。背の高い、金髪の女だ。すらりとした手足を無駄なく動かして、男のもとへやってくる。


「ご説明はお済みで?」

「いんや、まだ途中。ごちゃごちゃ言うより始めちまったほうが早いぜ、きっと」

「また大雑把な」


 女は呆れたふうに肩をすくめたが、こちらをちらりと見るや「まあそれもそうか」と同意した。男から鍵を預かり、地面についている鳥籠のところへ歩いていく。


「なに? なにをしようというの?」


 さすがに不安になってきて、鉄格子を揺らしてみる。外れる気配はまるでなく、ゆるやかに鳥籠が揺れるだけだ。籠を支えている鎖がうっかり切れたら怖いのですぐに動くのをやめると、男はその様子を粗相をした犬を見るみたいな目で観察していた。


「あんたくらいの女の子はみんな頭に花が咲いてるらしいな。すぐに甘い罠に引っ掛かって、悪い大人に騙される。バカなことだよ」


 嘲るように言われて、かっと頬が熱くなる。少女は赤面してうつむいた。檻を掴んでいた手を離して、スカートを握る。孤児院で着ていた服はいつの間にか脱がされていて、黒いワンピースに着替えさせられていた。装飾の一切ない、ぶかぶかなくらいの武骨なつくりだ。


「ここは闘技場さ。うちの旦那さまがお作りになった、オークションの一種だ」

「……オークション?」

「そう。観戦型オークションっていったらいいかね。今、都で流行ってんだが、まあ表の人間は知らねぇか。女の子を戦わせて、んで、勝ち残った子どもを買うんだ。ふつうに買うより楽しいらしいぜ、金持ちの考えることはよくわかんねーわな」


 女が鍵を使って、鳥籠の檻を外した。「さあ、出ておいで」中にいた十二歳くらいの女の子は突然金切り声をあげ、鉄格子にしがみつく。男は他人の傷を見るように眉間にしわを寄せたが、その場を動かない。


 身の毛がよだつような悲鳴が広間に轟き、他の鳥籠に捕まっている女の子たちもにわかに反応を示し始めた。まるで檻から出たら殺されるかのように、みんな身を縮めて鉄格子を握りしめている。

 けれどそこを女が力尽くで引きずり出し、ふたりの女の子たちを広間に放った。

 ひとりはやせっぽちの小柄な子ども。ふたりめはややぽっちゃり気味の子だ。どちらも他の子どもに比べれば包帯は少なく、きょどきょどと目を動かしては怯えた様子で首をすくめている。どう見ても戦いに慣れているふうではない。


 本当にこのふたりが戦うのだろうか。少女は離れていく男と女を見送らず、女の子たちをじっと見つめた。


「ご静粛に」


 明朗な声が、広間に降ってくる。


「本日もお集まりいただきまして、まことにありがとうございます。それではさっそく、昨日の続きをいたしましょう。戦闘歴三日の新人同士、さすがにそろそろ戦ってくれるはずですが……」


 一旦言葉が切られ、バルコニーから浴びせられる手拍子はあえて放置される。あそこには大勢の観客がいるのだ。


「大丈夫、落ち着いてください。今日こそは戦ってもらいましょう。そのために用意したものもございますから、もしよろしければそちらも落札対象にさせていただきます」


 ひとびとの声は聞こえないのに、場が温まっていくのがわかる。手を叩く音、手すりを叩く音、扇を打ち付ける音、そういう激しい音が重なって、広間全体が震動している。空気が熱されていく感覚とは逆に、少女の体は温度を失っていった。


 ――誰か。


 目の前で、女の子ふたりが「戦え」と言われて戸惑っている。当たり前だ。喧嘩くらいなら少女もしたことはある。けれども戦うことが目的で相手に暴力をふるったことなど一度もない。


 特に少女が今までしてきたことといえば、影でそのひとを笑うこと。悪口を言うこと。意地悪をすること。直接、ひとを叩いたり殴ったりしたことは、なかったと思う。それは広間のふたりも同じなんじゃないだろうか。

 ただし、それを理由に舞台を降りることは許されなかった。


 姿なき声が「用意した」と言っていたものが、膠着するふたりのあいだに投下される。吊り下げられた鳥籠から揚々と飛び下り、軽く片足飛びをしてみせる女の子が、いた。おとなしそうな黒髪の少女で、戦闘に長けているようにはとても見えない。華奢で身軽で、およそ表情といえるものもない。なんの感情も浮かんでいない黒の瞳が、ひたと小柄な子どもを捉える。


 ――ああ、神さま。


 身構える暇もなかった。小さな子どもは力加減をされることなく足で蹴り飛ばされ、ぐたりと床に伏せる。バルコニーから鳥の羽がついた扇がいくつか投げ入れられて、黒髪の娘は意図を読んだようにひとつあごを引く。

 そして次の瞬間、うめく子どもをさらに蹴り上げ、抵抗がないのを見ると胸ぐらを掴んで壁際に放り投げる。

 鈍い音を立てて壁に激突した女の子は、かひゅかひゅと変な声ですすり泣き、芋虫のように身を縮めた。


「な……なんてことをするの……」


 ――ああ、神さま、神さま、神よ。こんなことは、夢だと言って。悪い夢だと言ってよ!


 少女はがたがた震えるじぶんの身を抱いて、なるべく舞台から離れた。背中に当たる鉄格子が、逃がさないとばかりに少女の背骨を弾き返してくる。


「さて、ザフ。君もあんなふうになりたいかい?」


 語りかけられたふくよかな女の子のほうは、びくりとして天井を見上げた。たくさんあるバルコニーのどれかに、声の主がいる。それはおそらくノーヴァであり、この狂ったオークションをやめさせられる唯一の人物でもあった。けれど彼が姿を現すことはない。

 黒髪の娘が、ふっくらとした女の子の身体をじっと見つめる。女の子は一度全身を震わせると、断末魔の叫びにも似た雄叫びをあげて、娘に突進していった。

 やられる前にやるしかない、そういう心の声が聞こえてくるようだった。


 ――ひどい、なんてひどい夢なの。


 バルコニーから強い拍手が降ってくる。

 娘と女の子が素手で殴り合う、そんな光景に興奮している人間たちがいるのだ。

 無我夢中で相手の襟を引っ張り、頬を叩き、髪をむしる。強そうに見えた娘も、やり合ううちに鼻血を吹き、歯を折られた。脂肪があるぶん動きは鈍いが、ぽっちゃりした女の子のほうが腕力があるみたいだった。

 やがて黒髪の娘は床に引き倒され、がむしゃらに手を振りかぶる女の子に一方的に殴られ始めた。


 ――やめて、やめて、やめてよ! 女の子なのに! なんでこんなこと……。


「勝てば落札していただけるのだからね、本気でやらなきゃここから出られはしないよ。ザフ」


 ザフという女の子は、力なく横たわる娘になおも殴りかかる。本当に死んでしまう、と少女が悲鳴を飲み込んでいると、ベルが鳴った。

 ようやく、戦いが終わったのだ。

 脱力して動く気配もない黒髪の娘は、あの金髪の女に引きずられていく。

 残ったザフは充血した目で、それを見送った。けれど彼女の身は依然として臨戦態勢で、戦う相手を求めるようにうろうろと視線を彷徨わせている。


 バルコニーからは割れんばかりの拍手が贈られ、紙吹雪が舞った。よく見ると、お金のようだった。なにか重石がついているのか、くるくると舞いながら部屋の端のほうに揃って落ちていく。


「では、落ち札を数えさせていただきます」


 落ち札とは投げられたお金のことだろう。小肥りの男がどこからともなく出てきて、ザフの視界に入らないよう部屋の隅をこそこそと駆け抜けていった。

 今、ザフの気を引いてしまったら、次の相手はじぶんになる。男もそれを感じていたのだろうか。


「赤のねずみさま、三十。黄のねずみさま、十。青のねずみさま、十五。緑のねずみさま、十八。灰のねずみさま、二十三。他に落札希望の方はいらっしゃいませんか? ――……旦那さま、三十が落札価格ですね」

「どうやら決まったようですね。赤のねずみさまはのちほど控え室のほうへどうぞ。残りの落札おちふだはおひねりとさせていただきますのでご了承くださいませ」


 男はお金を回収して、また部屋の外へ出ていった。重石には色がついていたらしい。投げ入れた額が一番多いひとが落札することになるというわけだ。


 ――こんなの人身売買じゃないの!


 奴隷制度はまだひそかに生きていると聞いたことがあったけれど、まさか聖都でこれほど堂々とひとの売り買いがされているとは思わなかった。

 プリンシアがいるこの時代でも、このざま。少女は世の中の悪をすべて見た気分で、がくりと頭を垂れた。


 お金持ちの子どもになって、優雅に暮らしてみたかった。プリンシアがしているであろう、豪華で美しくて、きらびやかな生活を、一度でいいからしてみたかった。だから今回はなりふり構わなかったのに。

 千載一遇の機会を逃すものかと友人たちに協力させて、プリンシアを売るような真似までして、そして行き着いた結果がこれだというのか。

 怒ればいいのか悲しめばいいのかわからない。

 でも、欲を持たなければよかったとは言えない。きっと裕福な日々を望まずにはいられなかっただろうから。それでも、じぶんは考えなしだったと後悔した。こんなに恐ろしい目に遭うのなら、孤児院にいたほうがどれほどましだったか。どこか寂れた町の食堂で下働きをして暮らすことになったとしても、ここでひとに殴られひとを殴るよりはよっぽどいいと思った。


 少女はかちかちと鳴る歯を必死に食いしばって、涙を飲んだ。


 ――孤児院に帰れるならきっとあたし、なんでもします。ひとに意地悪しません。悪口も言いません。皿洗いだってなんだってします。だからお願い神さま、あたしを孤児院に帰してください!


 毎日、食事の前に神さまにお祈りするのはただの習慣で、そのくせなにか問題が起きたときはいつも神さまにお願いをしてきた。日頃からいい加減に感謝の祈りを捧げていたからなのだろうか、願いのどれもが叶ったことはなく、祈りなんて面倒なだけだと思っていた。

 だけど今回ばかりは、叶えてくれるのなら本当になんでもするつもりだった。


 ――助けて、神さま、神さま、お願いだから、誰でもいいからあたしを助けてよ!


 震える手で祈っていると、ザフの血走った目が唐突にこちらを向いた。

 少女は「ひっ」と喉をひくつかせて、鉄格子にめり込むほど後退る。

 ザフは獲物を見つけた猟犬のように、ゆらりと身体を傾け――少女のほうへ駆けてきた。


「やだ! いや! お願いこないで!」

「あんたも死んでちょうだいよ!」


 勝てば外へ出られる。痛い思いをしなくて済む。

 彼女の声が聞こえるみたいだった。

 鉄格子に掴みかかり、中に少女がいるのにぐらぐらと揺らす。少女は床に手をついて踏ん張るより他にできることがなかった。ザフに近づいたら殺される。そう思った。


「やめて! お願いやめて! やめてよっ! ……ひっ」


 血まみれの口が鉄格子に噛みつく。彼女の手の爪にはひとの血と脂がついていた。指の関節は皮膚が剥けて傷になっている。それなのに彼女はじぶんの怪我の痛みなど感じていないかのように鳥籠を襲い、中の鳥を喰らおうとしていた。

 彼女の見開かれた眼が怖かった。

 ひとはこんなにも暗く鋭い眼ができるものなのか、と思った。


 ――いやだ、やだ、もうやだ、誰か助けてよ……っ。お願い、プリンシア、助けて……!


 小肥りの男がザフを止めにくるまで、少女は痙攣を起こしたように全身をひくつかせていた。


 ――プリンシア! あんたの祈りで本当に奇跡が起きるんなら、あたしを助けてよ! それくらい、簡単にできるんでしょ!? もうひどいことしないから、あたしを助けてよ……っ。


 願いはむなしく、いつものように空気に溶けて消えてしまった。





 さくらは、誰かの悲鳴を聞いたような気がして跳ね起きた。その瞬間、じゃらりと音がして、足首になにかが食い込む。鎖――鈍い灰色の鎖だ。


 孤児院で気絶させられたことを思い出し、現状に納得してしまう。妥当な展開である。とはいえ、右足を繋がれてはいるものの、今のところふかふかのベッドに転がされているだけだ。特に身体は痛くないし、室内は精緻な唐草模様の壁紙で彩られている。どう見ても牢屋ではない。

 訝しく思ってふと視線を巡らせると、さくらはそこでようやく同じ部屋に存在していた他の人間に気がついた。


「りっ、リコー……?」


 なんと呼んだものかと若干の躊躇いを孕みつつ、さくらはつぶやいた。

 豪商の家に引き取られたはずの黒髪の少女、リコーが窓際の椅子に座っている。ぐったりと首を傾けて、丈のある背もたれに頭を預けていた。どうやら眠っているらしい。呼んでも反応がない。


 ――わたしを気絶させたのはノーヴァの部下だ。リコーがここにいるってことは、ノーヴァ本人も悪いひとだったのかな。


 彼女はさくらと同様、孤児院の服ではなく、白いネグリジェのようなものを着ていた。折り返した襟が大きく背中に垂れている。こちらの世界ではあまり見かけないセーラーデザインだ。


 薄くてふわふわした生地が落ち着かなくて、さくらはしきりにお腹をさすった。久々に着る絹の服は手触りこそ良いものの、邸での息苦しさが思い出されて不快な気持ちがじんわり滲んでくる。

 胃が痛むような感覚を味わっていると、ドアノブを回す音がした。はっとして振り返れば、部屋にひとつだけある、板チョコのような扉が開くところだった。


「おや。お目覚めでしたか」


 遠目にしか見たことがなかったが、入ってきたのはノーヴァだと直感した。細身の体躯にセンスのいい紺のスーツ。手には高価な宝石の指輪が三つもあって、ここでも柔和な笑みを絶やさない。


「プリンシア。お初にお目にかかります」


 秘匿していたわけではなかったけれど、避けていた自覚があるだけに既にさくらがプリンシアだと知られていたことは驚きだった。そういえば、彼の部下もさくらに確かめることなくプリンシアと呼び掛けてきた。


 さくらの見た目はこれまでの出来事からもわかる通り、一目でプリンシアとわかるようなつくりをしていない。平凡と自らを紹介するのもおこがましいくらい、コンプレックスの塊だ。上中下で言ったら下に入るとじぶんでわかる。

 なのにも関わらず、よくあの雑然とした孤児院でさくらを見つけられたものだ。一度でも当代のプリンシアに会ったのでなければ、人混みにまぎれたさくらを発見するのはほぼ無理だろう。さくらの容姿には特徴と呼べるものはおよそない。


「手荒な真似をして申し訳ありませんでした。すでにご存じかと思われますが、私はノーヴァ家の当主、ここらでは若君と呼ばれている者です。本日は折り入ってお願いがございまして、このような品のないお招きを差し上げた次第で」


 さくらは黙っていた。なにか言ったほうがいいとはわかっているのに、言葉がまるで出てこない。

 部屋の入り口に立つ穏やかなノーヴァと、窓際で眠りこけているリコーとを交互に見やった。窓にはカーテンが引かれ、その裾から光は漏れていない。お腹の空き具合や眠気から考えるとおそらく昼間だろうとは思うのだが、それが午前なのか午後なのかまではさすがにわからない。壁に取り付けられた燭台の炎が、ぼんやりと霞む。


「その子が気になりますか?」


 にこやかに微笑んで、ノーヴァが足を踏み出す。

 とっさにシーツを掻いて後ろに下がると、彼は苦笑してベッドサイドを通りすぎた。


「彼女には妹の遊び相手になってもらおうと思っているんですよ」


 孤児院で話した理由が今も変わっていないというなら、その妹とやらはペットかなにかではないのか。例えば犬とか猫とかの。

 意識のない女の子を椅子に座らせたままにして、おまけにさくらを鎖で繋いでいるのだ。本当に人間の妹がいるとしたら、兄妹揃って悪いひとたちなのかもしれない。

 ノーヴァはリコーのそばまで行くと、彼女の細い手首を持ち上げた。そこにはさくらと同じ鎖があり、よくよく見れば両の足首からも鎖が垂れている。


「く、鎖……。なんで」


 さくらが途切れ途切れのつたない口調で責めると、彼は肩をすくめて仕方がないという顔をした。


「暴れられては、困るので」


 やはり暴れられるようなことをするつもりなのだ。

 手汗がシーツに染みて、しめっぽくなっている。細かく震える指でシーツのしわを直しながら、さくらは考えた。

 彼はいったいなにをするつもりなのだろう。わざわざ寄付金を積み、孤児院を訪れたうえで孤児を引き取ったのだし、まさかいきなり殺したりはしないと思いたい。


 ――じゃあ、わたしは?


 さくらはプリンシアだ。それは彼も承知している。待遇もリコーよりはましで、綿雲のようなベッドに寝かせられていた。そこから引きずり下ろされる気配もないし、ノーヴァは終始さくらに丁寧な言葉遣いをする。


 ――でも、殺されないからって、なにもされないわけじゃない。


 どうしよう、もしも祈りを乞われたら。

 さくらには、祈りの力はもうない。あったかどうかすら検証できていないのに、ミミリアの件では不可解なことばかり起きている。

 むやみやたらに祈ってはいけない、と思う。正直なにが起きるかわからない。また誰かを眠りの淵から突き落とすことになったらと考えると怖気が走った。

 いや、逆になにも起きなかったとしたら、さくらは殺されるだろうか。聖性もない、美貌もない、役に立たない、そんな女をいつまでも手元に置いておきたいと思うものだろうか。


「そんなに青い顔をされなくても大丈夫ですよ」


 いやに優しげな声で、ノーヴァは言う。甘い果実をもぎ取るように、やわらかな手つきでリコーの手を揺らしている。


「あなたに望むことはひとつです。それさえ果たしていただければ――なんといったかな、この子は……確か、そう、リコーでしたね?」


 さくらが頬を強ばらせてリコーを見つめると、ノーヴァの苦笑が吐息に混じって聞こえた。


「人質というほどのものではありません。あなたが問題を解決してくださった瞬間に、彼女の役目も終わる……そういうことです。プリンシアを相手にこのようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、仮にあなたが私の申し出を断るか――あるいは失敗なさるか……この場合には、彼女の役目は続き、また別の誰かがここに呼ばれることになる、ただそれだけのことです」

「も、問題……」

「ええ、少々厄介な問題でしてね。噂では、あなたもご覧になったことがおありになるかと思いますが、実際はどうなのでしょうね?」


 さくらも目の当たりにしたことがあるらしい問題には、悪いが心当たりはない。というか、問題だらけでまるで絞り込めないというのが本当だ。さくらにはできないことが多すぎる。


 しかし、それはさくらがつい最近気がついたことであって、周知されているプリンシア像はおよそ化け物かというくらいに欠点がない。わがまま放題に一年を過ごしたさくらでさえ、世間では未だかろうじてありがたがられる存在だ。宮廷人たちからも、自堕落な生活に陰口を叩かれたことはあれど祈りの力を疑われたことはかつて一度たりともない。あのリンナですら、ミミリアの一件でようやく疑問を抱いたようだった。


 なのに、なぜノーヴァは祈りが失敗したときのことをさらりと口にできたのだろう。はっきり言って、それを宮廷で口走れば牢獄行きだ。不敬罪ということになるだろうか。

 例のごとく自分勝手なさくらがプリンシアでいるうちは宮廷人たちも彼に同情してその限りではないかもしれないが、一般的な認識としてはプリンシアの存在意義たる祈りの力を疑うことなどあってはならないということになっている。もちろん表立って言わないだけでみんな実は疑っているのかもしれないけれど。


「なにを、す、すれば」

「目覚めを、祈っていただきたい」


 どくん、と太鼓のような重たい心音が部屋中に響いた気がした。


「おや。顔色が変わった」


 ノーヴァは蔑むように、唇をひん曲げて笑う。


「あなたの祈りの力が薄れている、とは公式の見解ですが。それは呪われた姫君を解放することができなかったことで、はじめて気付かれたものですか?」

「な、なんの、話ですか」

「声が動揺していらっしゃる。……なんだ、それならあなたを連れてくるだけ無駄だったかな」


 彼はいったいどれほどの事実を知っているのだろう。尾ひれのついた噂を元に、本当に起きたことをほぼすべて嗅ぎ当てているかもしれないと考えると震えが走る。

 さくらが犯した禁忌と、償われないままの罪について、王宮のどこかから噂として真実が流出しているとしたら。国王がどこまで本当のことを知っているのかはわからないが、彼の配慮ある御触れも虚しく罪が全国民に露見すればただでは済まされまい。


 さくらは強烈な眩暈を感じた。視界が薄暗く、目が回っているみたいに焦点が定まらない。

 殺される、と思った。

 贅を貪り、怠惰に生き、果ては国の宝を呪ったプリンシアのなれの果てを、今度こそ聖都中のひとびとが怨むことだろう。


「私の妹はね、プリンシア」


 ノーヴァはリコーの手をそっと肘置きにおろすと、甘ったるい声でさくらに語りかけた。まるで怪しげなお香のように、さくらの全身にからまってくる。


「八年前から、眠ったまま目を覚まさないんですよ」


 ひく、と喉がひきつる。

 ――ああ、やめて、聞きたくない。


「ご存じでしょうか? 陛下や宮廷の方々は何かしらのご病気と言い張りたいようですが、わかるひとにはわかってしまうものです。我が国の姫君も、深い眠りに就かれたのではありませんか? そしてそれを、プリンシアは目覚めさせることができなかった。──ああ、プリンシア。もしやとは思いますが、祈りの力は薄れたのではなく、……完全に失われている、とか」


 だから力を取り戻すため、孤児院で敬虔なる日々を送られていたのでは? とノーヴァは知った口で話す。


「あとひとつ、これは私の推測ですが」


 ノーヴァの気配が近づいてくる。ベッドの端に、手がかかる。体重をかけられて軋むリネンの音よりも、彼の声のほうがずっと近くで聞こえた。


「あなたには最初から祈りの力など存在しなかった――なんてことは?」


 硬直するさくらの反応を見て、ノーヴァの苦笑が頭上に降ってくる。ほとんどさくらの耳にささやきかけるかっこうで、彼は続けた。


「今、肩がはねたのは私が急に近づいたからですか? それとも、……図星を指されたから?」


 息が耳にかかる。甘くとろけた声がひどく鋭いカッターのように感じた。

 おそろしくて思わず首をすくめると、彼は小さく笑いながら身を引いた。沈んだマットに重心をとられて傾いだところを、彼の手が支える。

 リンナともジンとも違う、細い腕。守られている安心感が欠片もない、いっそ刃物にも似た温度のない腕だった。

 このひとはさくらのことをおもちゃかなにかのように思っている。


 侍女のように恨むでもなく、リンナのように失望するでもなく、マザーたちのようにありがたがるでもない。人間に向ける喜怒哀楽の感情を、彼はさくらに向けていないと感じる。どういう遊び方ができるんだろうという期待と、壊れたらまた買えばいいという薄情な考えが透けて見えるようだった。


「聖なる【祈りの姫君ティフェイクス・プリンシア】とは、もっと高潔なものと思っていましたけれどね」


 ノーヴァはさくらを支えていた手を足枷に移動させて、鎖を引いた。


「私には、あなたがただの子どもに見えてきました。そんなにも感情をあらわになさっていたら、悪いひとにつけこまれてしまいますよ? 例えば私とか。……ふふ、宮廷の方々もさぞやご苦労なさったことでしょう、秘密を持とうとも民の前に出せばあなたの表情がすべてを語ってしまうのですから……」


 頭が回らず、かたかたと震えるばかりのさくらを鎖で引いて、ノーヴァはベッドから下ろす。

 よろめいても、今度は支えてくれない。

 彼はなにが楽しいのか、さくらを責める言葉を吐きながらずっと微笑んでいる。


「実に可愛らしいことです。素直で脆弱なあなたを、宮廷の誰が可愛がっていらしたのか、少し興味がありますよ」

「どういう……?」

「あなたがあなたのままでいられるよう、図らってくださった方がいらっしゃるのでは? もしもいないのであれば、とっくの昔に私のような人間に利用されるだけ利用されて捨てられていたと思いますけれどね」


 含み笑いを浮かべて、ノーヴァはベッドの足にくくりつけられた鎖の輪を外した。おもちゃのような鍵が、その輪を解放する。さくらを戒めるものは、とても小さい。

 彼は立ち上がり、まるで犬にするように鎖のリードを引く。


「それとも、宮廷で利用されてそれでおしまいだったのですか? だから、国はあなたを孤児院にお捨てになられた?」

「ちが、う……」


 ジンとリンナは守ってくれていた。国王も心配してくれた。どこまでが本心かわからないところが怖いけれど、利用されて終わったのならさくらはこの一年を自堕落に過ごすことはできなかったはずだ。

 さくらはリードを引かれるままその動きに従い、うつむいた。

 ひとやひとの権力を利用していたのは、さくらのほう。さくらが彼らに与えたものなどなにもないのに、プリンシアという偶像だけかぶってそれで一仕事したつもりでいたのだ。


「わたしが、あのひとたちを利用したから……だからみんな、わたしを恨んでいるんです」

「おや、逆でしたか。それはそれは……にわかには信じがたいですが。さすがプリンシア、というところでしょうか? まあどちらにせよ、すでに捨てられたものであるのなら私が拾っても問題がないわけですね。――さあ、こちらへどうぞ。隣の部屋に妹がいるんです。ぜひ、あなたには一度妹に会っていただきたい。祈りに力がないのだとしてもね」


 捨てられたもの。

 国王の図らいがつまりそういうことなら、さくらは彼らにとってどんな種類のごみなのだろう。燃えるごみか、燃えないごみか、いいや、たぶん粗大ごみかもしれない。処分するにも金のかかる、大きな大きな粗大ごみ。金を払ってでも捨てたい、邪魔くさなもの。

 すべての原因はさくらが役目を終えた時点で故郷に帰らなかったことだ。

 ひとに迷惑をかけないためにも帰ってくれと言われたら、果たして従えるだろうか。

 ――……考えたく、ない。

 さくらはノーヴァの妹がいるという隣の部屋に案内されながら、誰にともなくごめんなさいとつぶやいた。



 隣は、大きな窓のある部屋だった。レースを縫い合わせた繊細なカーテンが、傾きつつある陽の光を浴びて湖面のように細かく煌めいていた。

 波打つ光に照らされて、窓際のロッキングチェアに腰かけた娘の髪も綺羅星のように輝く。


 床につくほどの黒髪をゆるやかに三つ編みにして膝に乗せた、痩せぎすの女の子。伏せた睫毛が痩けた頬に影を落とし、いっそう顔色を悪く見せている。唇にも血の気がなく、首は筋が浮き出ていたし、フリルのついた袖から覗く手も骨張っていた。

 とてもお金持ちの家のお嬢さんとは思えない。なのに、リボンやシャーリングなどの装飾を抑え、精緻なレースをメインに彩られた瀟洒なドレスが意外と似合っている。


 ――きっとこのひとのためだけに、作られたものだ。


 花柄のピンクの壁紙や、うさぎの耳がついたウォールランプ、ぬいぐるみで溢れたキングサイズのベッド、バルコニーには白い花をつけた観葉植物が生い茂っている。

 彼女のためにしつらえられた環境なのだろう。八年ものあいだ眠り続ける彼女に対する、兄の愛情を感じる。


 ミミリアも、このまま目を覚まさなければこんなふうに部屋が整えられていくのだろうか。痩せこけた身体にも似合うドレスを作って、揺れる椅子に座らせて、伸びていく髪をまるで願掛けのように編み込んで、それでいったいいつまで、なにを待ち続けるというのだろう。


「ほら、まただ」


 ノーヴァはさくらの目を覗きこんで、うっそりと笑う。


「顔に書いてあるんですよ、全部。単純に、目覚めない人間を見たことがあるというだけではそんなふうに顔面蒼白になりませんから。それとも、あの子が痩せて気味の悪い姿だから怖がっていらっしゃる?」


 さくらは即座に首を振って否定した。これだけは否定しなければならないと思った。

 こんなにも愛に溢れた部屋にいるのだ、彼女はノーヴァにとって何にも代えがたい大切な家族なのだろう。なのにどうしてそれを気味が悪いなどと言えるのだ。

 さくらにはそこまで想ってくれるひとはいない。

 正直、うらやましい、と思った。

 そして同時に、哀しいと思った。この部屋には哀しみが満ちている。兄から向けられる愛が、部屋中を彷徨って行き場をなくしているように見えた。

 想いが返ってこない。一方通行の気持ち。これほど虚しく、寂しいことはない。


「あの子を目覚めさせたいんですね」


 掠れつつも、明瞭な調子でさくらは言った。つかみどころのない笑みを浮かべ続けていたノーヴァが、ゆるりとこちらを見下ろして「できますか?」と強く問うた。

 先ほどまでよりもずっと感情の籠った質問が、彼の期待の重さを物語る。

 さくらはやっと気がついた。彼はさくらを責めることばかり言って、なんの期待もしていないそぶりを見せていたけれど、実はそうじゃなかった。期待が裏切られるのを恐れて、心を抑えていたのだ。


「できるものなら、やってみせてほしい。どれほど高名な医者にも、怪しげな呪い師にも成し得なかった奇跡……プリンシアなら起こせると国がおっしゃっているのを、私は何度も聞いた」


 ミミリア。きっと彼女の部屋にも哀しみが溜まっている。時間が過ぎれば過ぎるほどに、あの寝室は乳母や父王の哀しみで埋まる。

 けれど、今は別のひとを優先することを許してもらえないだろうか。

 こんなにも愛されて、しまいにはプリンシアをさらってきてしまう哀しい兄に眼差しひとつ返すことのできない女の子に、声をかけてみたいと思う。力になれるかどうか、わからないとしても。


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