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食堂で、リコーはマザーたちから祝福のキスを受けていた。豪商ノーヴァの男性は、その別れを邪魔しないよう外で馬車とともに待っている。
さくらは、つつがなく挨拶が終わるのを胸騒ぎに包まれながら見守った。今のところ元取り巻きたちはリコーになにもしていない。他のみんなと同じ言葉で彼女を祝福して、握手をして、それで終わりだ。
なにもないならそれでいいのに、まだ坂を登り続けるジェットコースターに乗っているみたいな気分だった。
このまま、何事もなく彼女が幸せになるといい。お金があることが、彼女にとっての幸せならば。
「ではね、リコー。ノーヴァさまの言うことをよく聞い――」
「あの――ああ、すみません、まだご挨拶の途中でしたか」
そのとき、ノーヴァの若旦那が食堂にやってきた。通例では引き取る子どもが外へ出てくるまでは、迎えに来ないで待っているものだと聞いたのだが、彼は待ちきれなかったのかすたすたと中へ入ってくる。
戸惑うマザーたちを前にして、彼はなにも気にしたふうもなく「実はもうひとり、連れていきたい子がおりまして」と突然言い出した。
さすがに急すぎて、マザーたちは困惑しきりだ。
リコーは前々から指名が入っていたので、支度金もわずかながら用意できていたようだし、荷物もまとめていた。
だがもうひとりとなると、いきなりまとまったお金を持たせることは難しそうだ。しかも、今から荷物をまとめるのでは朝になってしまう。
ところが彼は、荷物はすべてこちらでまとめると言って部下らしき人間をふたり呼びつけた。昼間は見かけなかったひとたちだ。確か彼は最初にここへ来たときも御者とふたりだった。引き取る子どもをもうひとり増やすと決めたあとでひとを呼び寄せたにしては、ずいぶんと早い。こちらには電話もメールもラインも存在しないのだから、誰かが言伝てを携えて一旦屋敷に帰らないと応援は呼べないのに。今日一日孤児院で過ごすうちに気を変えたのだろうか。
近くにいた侍女が、不快そうに眉をひそめた。彼女のさくらんぼみたいな唇が「成金が」とつぶやくのを聞いて、そういえば彼女は貴族の出身だったと思い出す。
宮廷で貴人に仕える侍従は、たいてい貴族の出だ。
がちがちな階級社会ではないから必ずとは言えないけれど、根本的な問題として金がないと教育が受けられない。教養がなければ宮廷でやっていくにはかなり辛いものがある。だから、剣技や腕力、状況判断、情報処理能力といった持ち前のセンスがものを言う軍属でないかぎり、文官のおおよそは幼い頃から教育を受けられる環境で生きてきた貴族が圧倒的に多い。
貴族はしきたりを重んじ、ルールやマナーを破られるのを嫌う傾向にある。お茶会でさくらが馴染めなかった原因はだいたいここにある。だから、侍女がノーヴァのふるまいに不快感を示して当然なのだ。
「目をつけられては面倒ですから、行きましょう。お静かに、どうぞこちらへ」
さりげなく席を立ち、子どもたちが挨拶のため思い思いの場所にいるのを利用して侍女はさくらを食堂から連れ出した。
鉢合ってもまずいことはないが、あまり会わせたいものでもないようだ。プリンシアが孤児院にいることは周知であるものの、具体的にどこの孤児院にいるかまでは知られていない。孤児院に迷惑をかけないためだ。だからさくらは孤児院からは一歩も出ていないし、客があるときはなるべく表に出ないようにしていた。
特に今回は相手が侍女の言うところの礼儀も知らない成金であるので、会わないに越したことはないということらしい。
早々に部屋へ行くよう言われ、食堂の出入り口で仁王立ちする侍女に見送られるまま廊下を歩き出す。彼女はリコーのお別れ会に最後まで参加するつもりのようだ。リコーの顔をもう一度見ておきたかったと思ったが、火の灯った手燭を渡されてしまってはしぶしぶ戻るしかなかった。
さくらは戸の嵌まった窓に火を近づけて、戸板もきれいにしないといけないなと考えながら歩いた。昼間は戸がはずされているから気にならないが、閉まっているときに改めて見ると黴がひどい。表側はもっとひどいだろう。なにせ雨風を一身に受けるわけだから、技術を駆使して腐蝕しないよう処理されているのでなければ、木製の戸などすぐに腐る。
いっそ新しいものを、いや、金銭的に無理があるか、と思ったところで、ふと立ち止まった。
蝋燭の火が揺れる。食堂から聞こえる賑やかな声以外には、特に耳に触れる音はない。
否、足音がする。革靴で床を踏む音。鋼の底板が入っているのか、高い音がかすかに。それからしばらくすると、扉の開く軋みも聞こえた。
――なんだろう、取り巻きの子たちかな。
心臓の音に気をとられつつ、音源を探る。
やっぱり何事もなく引き渡しが済むはずがなかったのだと諦めかけたとき、肩をぽんと叩かれた。
思わずびくついて飛び上がったら、背後にはノーヴァの部下たちが立っていた。ひとりは背が高い女、もうひとりは小肥りの男だ。
「あら、失礼。驚かせてしまいましたね」
女はにこやかに礼をして、人好きのする笑顔になった。男のほうは豪快に笑って女の背中を叩き、これだから大女はと言っている。
想像していたよりずっと親しみのあるふたりだったので、さくらは思いきり飛び退いたことを恥じた。
「す、すみません、わたしおばけが苦手で。暗くて、びくびくしてて」
おばけだなんて思っていなかったが、元取り巻きにリンチされると思って身構えていましたとは言えない。
うつむいてもそもそ言い訳するさくらを、ふたりは笑い声で励ます。
「そういうこともあらぁな!」
「急に肩叩いたあたしが悪いんですよ。ご容赦くださいね、プリンシア」
いいえ、とこちらも笑みのようなものを返して、きょろりとあたりを見回す。特に人影はなく、元取り巻きたちが待ち伏せている気配は感じられない。
「ところでお訊ねしたいことがあるんですが」
「え? あ、あっ、はい?」
「なんといったかな、うちの旦那さまが引き取るとおおせになった子なんですけどね……」
赤毛で、目が蒼くて、背の高い女の子。そう言われて、元取り巻きたちの中でも特に熱心だった子を思い起こす。名前はあいにくとわからないのだが、覚えはあった。
「そ、その子を?」
「ええ、まあ、旦那さまがご所望でね。その子の荷物をまとめて持ってこいって言われちまったもんだから、部屋に行こうとしたのに道に迷っちまったんすよ」
髪の縮れた男が苦笑いで言うので、さくらは廊下の角の方を指差した。
「あの子は確か、あの角の部屋だったと、お、思います。さ、三人で、使ってる部屋で」
「ああ、そうだった、そういや角の部屋だって言われたっけな」
こりゃまいった、と髪を掻いて笑う彼はひとりで賑やかで、女は呆れたように溜め息をついている。
「まったく。こいつはすぐに言いつけを忘れるんですよ。こんなことならあたしが聞いときゃよかったってもんです。どうせあの子の荷物がどれかなんてことも、忘れてるんでしょう?」
「いやあ、面目ない」
女はもう一度吐息して、さくらに向き直った。
「今、食堂はお別れ会の真っ最中でしてね」
「そ、そうでしたね」
「よかったら、あの子の持ち物を教えてほしいんですよ。マザーに聞いてもいいんですけど、お別れ会を邪魔するのは通例ではナシってことになってるでしょう? まあ、さっきは旦那さまが乱入なさったから説得力はないでしょうけど」
「そっ、そ、そんなことは、ないですよ」
「じゃあ、わかる範囲でいいんでお願いできませんかね? なくても困らなそうなものはうちで用意するって言ってるんで、あの子が普段持ち歩いてたものとか、なにか見覚えがあるものだけでもかまいませんから」
「は、はい、わたしでよければ。あまり直接は交流していなかったから、お役に立てるかわかりませんが……」
「いいんですよ、もしなにか残したものがあれば後日引き取りにくればいいことですしね」
ほがらかに笑ったふたりを伴って、さくらは元取り巻きの子の部屋に向かった。
女の子ばかり三人の部屋は案外散らかっていて、寄付されたらしき雑多なぬいぐるみが散乱していた。
寝台が三つと、タンスがひとつきりなのに、やたら楽しげな部屋だ。
さくらは躊躇いつつもその中から彼女の持っていた櫛やら髪飾りやらを掘り出す。見たことがあるものしか探せなかったし、服に関しては誰も同じような支給品を着ていたのでよくわからなかったのだが、ふたりはおおむね満足してくれたようだった。
「女の子らしい品ってのは大事ですよ。逆にこれさえあれば文句がないというくらいにね」
「男から贈られた髪飾りっすかねぇ?」
男が茶化して言うのを、女がその頭を叩いてたしなめる。
「やめな、はしたないよ」
「へいへい」
男は悪いとはまったく思ってない顔で謝っていた。誤魔化す気があまりにもない、あからさまな態度がおかしくて、さくらは口元をゆるめる。
おかしなひとたちだ。貴族じゃないという言い方は好きではないけれど、堅苦しくない話し方のほうが耳に馴染む。やはりさくらは根っからの庶民なのだ。どんなに繕っても、そこだけは変えられないのかもしれない。
今、もとの世界に戻ったらうまくやれるだろうか。自分の器の小ささをこれでもかと思い知らされた今なら、多くを望まず歩いていけるのだろうか。広い社会で、ちっぽけな存在として働いて、軽んじられて、いてもいなくてもいいみたいな――そこまで考えて、背筋が冷えた。
やっぱりだめだ。まだ、だめだ。
どれほどに罵られても、前提としてプリンシアであることがさくらの精神安定剤になっているのだ。それがなくなると、本当の本当に、最低の人間でしかなくなる。本当に、それだけの存在になってしまう。
もとの世界に帰るのなら、もっとましな人間になってからでなくてはと思う。プリンシアでなくても、友達をつくれるようなひとになってからじゃないと、また同じことの繰り返しだ。そして今度はもう、聖都ミュゼガルズは、死にかけのさくらを掬い上げてはくれないだろう。
「どうなさったんで?」
思い悩むさくらを、男が首をかしげて見つめる。女も不思議そうに細い眉を寄せて、さくらの顔を覗き込んだ。
「この男が変なことばかり言うから、ご気分を害されたのでは? 申し訳ありません、粗野な男で」
「俺のせいかよ」
「他に誰がいるって」
「へーい、すんませんでした」
軽い調子で謝られ、さくらは苦笑した。
「なんでも、ないです。ちょっと、い、いやなこと、思い出して」
「嫌なこと? まさかいやがらせですか?」
「えっ、あっあ、ちが、ちがくて」
「そんなら早く言ってくれなきゃあ!」
男と女は互いにうなずき合って、さくらを見下ろす。手元の炎が風もないのに大きくゆらめいた。
「あたしらと一緒においでくださいな」
「そうっすよ、それがいい」
嫌がらせをされたなんて一言も言っていないのに、さくらが首を振るのもおかまいなしだ。彼らはにこにこと笑ったまま、ほら行きましょうよと手を差し伸べてくる。
「い、いいです、わた、わたし、ここにいなきゃ……だめですから」
「あとで手紙でも書けばいいじゃありませんか。プリンシアにできないことなんかないでしょう?」
さくらは苦々しい思いで、うつむいた。
傲慢なじぶんが、宮廷で思っていたことと、同じだ。
プリンシアにできないことなんかない。
でも実際には、できないことだらけで、祈りにだって本当に力が宿っていたのか曖昧で、できることのほうがずっと少なかったのだ。それを無理矢理、「できること」としてカウントしていたから、たくさんのものを知らず知らずのうちに犠牲にしていた。周りのひとたちの気持ちを、踏みにじってきたのだ。
「わたし、ここで、変われるかもしれないんです」
「は?」
ふたりが片眉をあげて怪訝な顔をする。さくらはこぶしを握って、震える唇で、極端に出にくくなった声で、ない勇気を振り絞って、必死に伝えた。
「わたしは、わたしを、ここで、やり直したい」
「意味がわかりませんね」
男が軽く鼻で笑う。
後頭部を撃ち抜かれたような衝撃が走り、さくらは目の前が真っ暗になった気がした。
握りしめた手の平が、食い込んだ爪で痛む。
「祈れば叶う。プリンシアってそういうもんでしょ? 今さらなに言ってんすか?」
当たり前のことのように言い捨てられて、さくらは目眩を覚える。
「湯水のように金を使える立場にあって、こんなふうに孤児院を冷やかしにくることもできて、なにかご不満でもおありなんですか? そりゃ贅沢ってもんでしょ。俺ら平民が浮かばれねーっすよ」
男は悪気もなさそうに、からりと言ってのける。
――……一生懸命、話したのに。
さくらにとってとても大事なことを、大切なことを、わかってほしくて言葉にしたのに。
それを、彼は、彼女は、真剣には受け止めない。お貴族さまの優雅な悩み事を聞いた、というように鼻先で笑い、聞き流されてしまう。
さくらの気持ちも、必死に考えたことも、たぶん、聖都のひとたちには興味のないことなのかもしれない。プリンシアが祈りを捧げてくれればそれだけでいいという、機械的で義務的な【祈りの姫君】のシステムと同じで。
「本当は穏便にお連れしたかったんですけどね」
今度は本当に首の後ろに痛みが走って、身体から力が抜けた。遠退く意識の向こうで、女がなんでもないことみたいに「プリンシアが祈れなくなったって噂は本当だったっぽいね」と言ったのが聞こえた。
そうか、さくらは祈れなくなったのか。
祈らないのでもなく、祈っても叶わないのでもない、そもそも、祈れなくなっていたのか。
言い得て妙だと思った。
形だけ祈りの体勢になっても仕方がない。祈りを捧げる方法を、さくらは失念したのだろう。その状態をつまり、祈れなくなったと表現するのだ。でも今は、祈りの形すら取ることができない。さくらが祈るべきは姫君の目覚めであって、それ以外のことを望んではいけない気がしていた。特に、じぶんのことで神に願い出るなど、万が一にもあってはならないと、とても強く思う。
だから、誰か助けてとは、言わない。
言えない。