困惑の壁門
少女の瞼が開く。
まず彼女の目に映ったのは、自分の顔を覗き込んでいる、俺の顔だったのだろう。
途端、「ヒッ」と声を出して動きだし、あやうく頭がぶつかりそうになった。
(あぶねえ……あとちょっとでキスしそうになったぞ)
頬が微妙に上気する。
時間がたったこともあり、俺はさっきの緊張感から解放されていた。
突然消えた狼など、気になることはあったが、無傷の体が消えるような考えは頭から捨てることにした。
(まずは目の前のことから。とにかくこの子に、色々と聞かなきゃならない)
そのためにはまず、今だ困惑中の少女を落ち着かせなければならないのだが。
さっきと違って、仰向けに寝ている状態なので、もう逃げ出すような事はないだろう。
俺は一度息を吸った後、細心の注意を払って、口を開き始めた。
「あ、安心して。俺は今そこを通りかかった者で――」
✝
代わり映えのない砂漠の道で、俺は少女の後ろを歩いていた。
どもりまで完全トレースした最初の言葉を皮切りに、なんとか少女との対話を俺は成功させることができた。
対話といっても、ほとんど会話にはなっていなかったのだが。
少女の名前はフレウ・ルナースト。肩までかかった黒髪に、透き通った黒目。黒色の服に、白いスカートを穿いた、いたって普通の女の子だった。
なんでも、勤め先の雑貨店の仕事で、隣町まで商品を届けた帰りの途中、馬車が突然横転し、気が付いた時には自分以外、みんな死んでいたらしい。
その状況に平静を失ったフレウちゃんは、馬車の陰に隠れて、泣きながら縮こまることで、心を落ち着かせようとしていたのだ。
14歳程度の少女が、あの光景を見たことに、俺は深く同情していた。
俺は一刻も早くフレウちゃんと、フレウちゃんの町まで行こうと決心し、彼女に町までの案内をお願いした。
俺にこの子を慰める事はできないけれど、せめて家族の場所まで安全に送っていこうと決意して。
まあ、俺にできることなどほとんど無く、俺はこの子の案内に助けられているだけなのだが……。
✝
「…………………………」
「…………………………」
30分ほど歩いただろう。なのに場の沈黙は未だに破られていなかった。
知らない男と、内気そうな少女。会話が弾まないのも道理だったのかもしれない。
痛々しい時間だ、と思う。別に無理に会話をする必要など無いのだが、無性にすわりが悪かった。
「あ、あの……」
そんな中、ついに沈黙が少女の手で破られた。
すごくオドオドした声ではあったが、俺はようやくの開放に安堵の息が漏れる。
「なに?」
できるだけ刺激を与えないよう穏やかに返すが、フレウちゃんはそれでも緊張しているようで、震える口で声を出した。
「う、腕輪……腕輪はどう、したんですか」
必死に絞り出された質問。しかし俺にはまったく意味が分からなかった。
腕輪なんぞ着けてはいないし、この世界に来てから見たこともなかった。
俺が眉を寄せて、返答を測りかねていると、やがてフレウちゃんは前を向き、再び沈黙が訪れた。
俺は居た堪れなくなり、視線をさまよわすと、彼女の右腕にはまっている腕輪が目に付いた。
それは深い紺色の腕輪で、材質は鉱石っぽく、無骨で重そうだった。
それが何を意味する物かまでは解らなかったが、この世界では重要な物なのかもしれない。
歩みは進む。
✝
それから沈黙は続いたが、目の前には次第に構造物が見えるようになっていた。
初めはよく解らなかったが、近づくにつれ、それは大きな壁で、町をぐるっと囲んでいるのだと解った。
この何も無い砂漠に、ぽつんと町があるのはなんだか違和感があって、すこし乾いた笑いが出てしまう。
ここまで何もなかったが、フレウちゃんもようやくの故郷に安堵してることだろうと様子を伺うと、凄く真剣な眼差しで目の前の壁門を見つめていた。
よく見れば小さく口も動かしており、何かを呟いているようだった。
その鬼気迫る表情に、俺はなんだか不安を抱く。
この先に、なにかあるのだろうか……?
✝
ようやく壁門の前に着くと、そこには二人の門衛がいた。
一人は40代半ばで、もう一人は30代入りたてのおじさんだった。二人とも鎧と剣を身に着けてはいるが、余り厳つさを感じさせない風体で、兵よりも八百屋のおっちゃんという感じに見える。
その姿が見えるとフレウちゃんは走り始め、若い方のおじさんの方へと向かっていく。
「おー! フレウちゃんじゃないか。お勤めは終わったのかい?」
するとおじさんは手を挙げて微笑み、労いの言葉をかけた。
どうやら知り合いらしい。
なんだか肩の荷がどっと降りた気分だ。後は俺がこの町に入れれば良いのだが……まあ、なんとかなるだろう。
俺も少し小走りになり、フレウちゃんの後を追う。
「タ、タンゲスさん……」
「しかしどうしたんだい? 馬車は見当たらないし、そんなに慌てて」
「私……早くお母さんたちに会いたくて! お願いします、私を町に入れてください!」
俺がフレウちゃんに追いつくと、フレウちゃんは凄い剣幕で門衛さんに迫っていた。
その強い懇願に、タンゲスさん? も少したじたじになっており、「わ、わかった。ちょっと待ってね」と慌てて門の横にある窓口に向かっていった。
程なくして、もう一人の門衛の人と一緒に、鍵のようなものを持って戻ってくるタンゲスさん。
「ごめんねフレウちゃん。いちよう絶対の規則だから」
そう言ってタンゲスさんはフレウちゃんに鍵を渡すと、フレウちゃんは自分の右腕の腕輪に鍵を差し込んだ。どうやらあの鍵は腕輪を外すための物らしい。
鍵がくるっと回り、腕輪が開く。用済みになった鍵をタンゲスさんに返すと、フレウちゃんは腕輪を右腕から外し、
そのまま地面に向けて落とした。
だが腕輪は地面に着くことは無かった。
腕輪は空中で黒い塊となり、霧散したのだ。
霧散したそれらは、まるで蚊のようで、ともすればあの部屋で見たものと同じ――――――。
腕輪"だった"無数の蚊達は、一瞬戸惑ったかと思うと、フレウちゃんに向かって飛び、――フレウちゃんの体に沈み込んだ。
そして、フレウちゃんの右腕には、外したはずの腕輪がはまっていた。
俺はその異様な光景を見て、場違いにもまるで手錠のようだと連想していた。
「……」
「……」
「……」
「……」
空気が凍りついていた。
タンゲスさんの頬を、じっと汗が流れる。この暑くもない砂漠の上で。
俺達は、誰も何も言えずにいた。
「あああああああああああああああああああああ!」
だが一人動きを起こした者がいた。もう一人の門衛のおじさんだった。
おじさんは腰の剣を抜いたかと思うと、それを振り上げフレウちゃんに向けて振り下ろした。
「ヒっ」
ぼおっとしていたフレウちゃんは、ギリギリで剣の存在に気づき、腰を抜かして倒れこむことで剣を回避した。だがもう次はない。このままではまともに避けきれずに切り裂かれてしまう。
門衛のおじさんは、怯えながらもギラついた目でフレウちゃんを睨み付け、手に持った剣を構える。
その状況に、タンゲスさんはぼおっとしていた。
俺も、ぼおっとしていた。
この子を家族の下まで守ろうと決意したあれは、なんだったのだろう。
俺の足は、狼の時のように動くことはできなかった。
それが、自分という人間の矮小さを見せつけられているようで、俺の大事な何かが引いていくように感じられた。
「おいタンゲスなにしてる! お前も構えろ! 喰われたいのか!?」
「そ、そんな……フレウちゃんが……なんで……」
「戦えないなら応援を呼べ! それまで俺が抑える!」
そんな間にも事態は進んでいく。厳しく叱咤されたタンゲスさんは、何かを飲み込むような表情をした後、逃げるように門の窓口へと走って行く。
残った門衛の人は未だに剣を構えてフレウちゃんを威嚇していた。
どうやら応援が来るまで、すぐに振り下ろすつもりはないらしい。
このまま応援とやらが来れば、間違いなくフレウちゃんは殺される。
(このまま動かないでいるつもりか……?)
己の内に向けた言葉は、何の波紋も生まずに溶けていく。
わけがわからない。
ようやく町に着いたかと思えば、いきなりの殺し合い。
わかるわけがなかった。
だけど、
(このまま何もわからず流されて、後悔し続けるのか……?)
それだけは絶対に嫌だった。
「え?」
俺はフレウちゃんの手を取って、門とは逆に走り出した。
どうやら俺のことは眼中に入っていなかったようで、門衛の人が逃走に気づくのに一拍をようしたようだ。
俺はそのまま追いつかれないよう、力の抜けたフレウちゃんを無理やり引っ張っていく。
後ろを振り返れば門衛の人は追ってきてはおらず、隣にタンゲスさんが走って近づいているところだった。
それでも俺は二人が見えなくなるまで走り続けた。狼と対峙した俺でも、人の本気の殺意に触れて気が動転していたのかもしれない。
それでも、この手を掴むことができた。
動くことの怖さよりも、動けなかったことをいつまでも後悔することの方が嫌だったから、という後ろ向きな考えだが、それでも動けた自分が誇らしかった。
だからだろうか、フレウちゃんには悪いが、俺は焦りながらもどこかハイだった。
✝
「はぁ……はぁ……う、はぁ……」
なんとか逃げ延びた俺とフラウちゃんは、どちらも呼吸が荒くなって中腰になっていた。
荒れ狂う心拍と頭の中、俺はさっきの交戦について考える。
(突然霧散した腕輪に、それを見て切りかかってきた門衛の人。……腕輪は何かを調べるための道具で、フレウちゃんはそれに引っかかったのか……?)
タンゲスさんは絶対の規則だからと言っていた。とすれば、やはりあの腕輪はかなり重要な意味を持っているらしい。
(じゃあ、腕輪を持っていない俺は、町には入れないのか……?)
それは、とても絶望的状況と言う他ない。
今のところお腹が減ってはいないが、水と食料の確保ができないなど、死んだも同然だ。
しかもここは一面の砂漠。自給自足すらままならない。
俺の頭が真っ白になっていく時だった。
「あの!」
フレウちゃんの大きな声で現実に引き戻された。
見れば目には涙がたまっており、体は初めの時のように震えている。
「あ、厚かましいお願いですが、私を町に入れさせてください……! 家に帰りたいんです……! お願いします……!」
俺にそう縋る少女の目には、強い畏敬の念が籠っている。
今にも発狂してしまいそうな少女に、俺は返す言葉がわからず押し黙る。
少女の必死の懇願に、俺は情けなくも引いてしまっていた。
あの厳重な町に、俺なんかの力で入れるわけがないと。せいぜい一人二人引きつけるだけで、あの大きな門を超えることなど想像できないのだ。
少女がお願いしますと繰り返して、俺が戸惑っていると、――次の言葉に瞠目した。
「お願いします……"魔術師"様……私、何でもしますから……!」
それはあの紙に書かれていた、俺の排除するべき対象だった。
俺が驚愕している間も、少女は嗚咽を漏らしながら懇願し続け、ついには地に伏せ、泣き出してしまった。
わけがわからなかった。