思ひ出
全速力だ。
彼我の距離はさほどもない。なら、奴の意識が少女に向かっている今がチャンス。
狼が俺の足音に気づき、視線を向けてくる。
だが、姿勢は少女に覆いかぶさったままだ。奴が反撃態勢になるよりも、俺が一撃くれてやるほうが早い。
『お前はパンチしないほうがいい』
狼の横腹を思いっきり蹴り飛ばす。生肉を押しつぶしていく感触が、なんとも気持ち悪い。
狼はキャウンと可愛らしい悲鳴を上げて横に倒れる。
ここからは追撃だ。息もつかせぬ攻撃で、相手に何もさせてはならない。
すぐ狼の上に移動し、足を振り上げる。
曰く、てきとうに拳を振ってはこちらまでダメージを受けるらしい。殴り方を知らない俺には、マウントポジションよりも、不意打ちで相手を転がして、上から蹴りまくったほうが良いらしい。
振り上げた足で、勢いよく狼の腹を踏みつける。
ゴフッと狼が息を吐き、唾が飛ぶ。
もう一度足を上げて同じ個所を踏みつける。息をだいぶ出したのか、今度は詰まったような声だった。
生き物を殺めている感触が、靴から伝わってくる。凄まじい不快感に足が重くなるが、止めてはならない。躊躇は隙を産み、隙は反撃へと繋がってしまう。
今しかないのだ。もし狼が立ち上がって一睨みでもされれば、俺は戦意を保てていられ無い。
だからここで確殺する。
無我夢中で腹に連打し、気付けば右腕も一緒に振っていた。
もはや呼吸をしている暇などない。
意識はだんだんと狭窄していき、ただ足を振るだけの機械になっていく。
感情を殺し、目下の敵への情を消す。
「こいつは悪い奴、仕方のないことだ」と言い訳を羅列して。
だがそれでも足は止まってしまった。
一瞬だったが、確かに感情が本能を凌駕した。
"ちょっと可哀想だな"と思ってしまったのだ。
そして、狼はその瞬間を見逃さない。
さっきまでの攻撃から、怒りの形相を浮かべて俺の足を押し上げる。
足を動かそうとしてももう遅く、立ち上がる狼によってなすすべなく転ばされる。
形勢は逆転した。いや、もとより俺の攻撃なんて高が知れていたのかもしれない。
「ヒッ……」
恐怖に喉が震え、ケツが地面を摩った。
絶望が肌を侵食していく。
死んだ。間違いなく。
「ガアアアアアアアアアアアア」
狼は雄叫び、一瞬の間に疾駆して俺の前まで来る。
無駄だとわかりつつ、腕を前で交差させ防御姿勢をとるが、その腕ごと食いちぎられた。
「あ――」
痛みか恐怖かはわからなかったが、心の許容を超えた状況に耐えられるはずもなく、慈悲にも意識はそこで飛んだ。
✝
夢を見ている。きっと昔の夢だ。
ひき肉に具材を入れて、ぐちゃぐちゃにこねあげていく。
初めての生肉の感触にキャッキャと俺が騒ぐ。
この日は父さんの誕生日だからと、母さんと一緒にハンバーグを作っていた時だ。
たどたどしい手つきでハンバーグの種を作っていく俺を、母さんがほほ笑んで見ている。
母さんが楽しそうにしているのがうれしくて、俺はもっと腕に力を込めていく。
あの頃は父さんも勇耶もいて、毎日が楽しかった。
この両親のもとに生まれて本当に良かったと思ったし、今でもそう信じている。
ハンバーグが出来て、皆で食卓を囲む。
いただきますと言い箸を取るが、手はつけない。対面に座る父さんの反応を俺は期待して、じっと見つめているのだ。
「うん、美味しいぞ晴。こりゃ料理の才能あるな」
うれしさと恥ずかしさで口がえへへと笑った。
それから母さんが俺の料理している姿を話し始めて、父さんは箸を進めながらうんうんと聞く。
満足した俺はようやく食事を始め、自分で作ったハンバーグを口に入れた。
だが、その味は思い出せなかった。
おいしかった憶えはある。
でも、口の中には冷たく火の通っていない無機質さだけしか感じない。
この団欒の中で、それはとても異質だ。
気付かないふりはできず、口を再び動かす。
ぐちゃりと鉄の臭いが充満した。
あ、血の味だ。
✝
目が覚めた。
俺は突っ立っている。 ――おかしい。
狼は姿を消していた。 ――おかしい。
体のどこにも外傷は無い。 ――おかしい。
視界の端に、気絶している少女を捉えた。こちらも外傷は一切ない。
狼の存在が霧のように霧散していた。
夢と現実の境界が曖昧になっていく。
一瞬、口の中に血の味がした。
今度は気付かないふりをした。