第一次接触
「……ハ」
なんだこれ、と思わず失笑した。
不気味な部屋から出たかと思えば、まっていたのはより強い恐怖を抱く世界だ。こんなにも見晴らしが良いというのに、俺は強い圧迫感を感じている。まるで、頭皮をすり抜けて脳味噌を鷲掴みにされているみたいだ。
行こう。このまま立ち止まっていたら、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
✝
「いいか……げん、にしろ」
歩き始めて一時間ほど。体よりも先に心が折れかかっていた。
何処まで行っても目に映るのは砂ばかり。文明を感じられる物は一切なく、雑草の一つも生えていない。
あまりにも殺風景な景色に、いいかげん飽きがまわって来る。これで上が青空なら、もう少しふんばれたかもしれないが、上も下も灰色では、いいかげん心まで乾いてくるというものだ。
二時間ほど経った。
いや、実際には三十分も経ってはいないのかもしれない。
周りの景色がまったく変わってないのだ。これなら、ネガティブな俺の心が体内時計を狂わせているだけとも思える。
いずれにしても、まだまだ先は長い。
三時間は経った気がする……。
たまに地図を見る。こんなことに意味は無い。地図は早々に意味をなくしている。これだけ何もないと、初めの方向決定以上に役立つことが無いのだ。
それでもたまに見る。意味があることをしていたいから。
この歩みには意味があるのだと。そう言い聞かせるために。
ゴールの見えない旅路に、心労が重くのしかかる。
…………もう嫌だ。
✝
何時間経っただろう? もう頭は『いっぱい』としか返してくれない。
執着に足を動かし続ける。ここまできたらもう意地だ。今まで歩いてきた分の労力が、決して無駄ではなかったと証明するために。
どうせ、歩いていればどこかには出るのだ。それまで俺は愚直に足を動かすのみ。それしかできないし、他を考える気力もない。
そうして歩き続けて、ついに頭のネジが飛びそうになったとき。
ようやく視界に変化がおとずれた。
材質は木材だろうか? なんだかよくわからないが、箱のような形をしている気がする。
疲れなど忘れ、すぐさま駆けだす。
さながら、砂漠でオアシスを見つけた気分だ。
自分はあまり人をかえりみない質だと思っていたが、さすがに人恋しさが爆発したらしい。
息もつかずに走り続け、ようやくそれがなんであるか理解できた。
それは馬車……の残骸だった。
辺りには木片や血痕が散乱し、馬車自体は横から吹き飛ばされたように横転している。
「――うわああ!」
死体があった。
齢は四十歳ほど。肉体を三分割され、光を失った目で虚空を見ている。そこから少し離れたところでは、体の半分が引きちぎられたような馬がいた。……男はこの馬車の御者だったのかもしれない。
周りをよくみれば、さらに三人ほど男性の死体があった。どれも凄惨な状態で、"なにか"から必死に遠ざかろうとしたいたのがわかる。
中でも目に付いたのは一人の偉丈夫だった。筋骨隆々としたその人は、金属の鎧を身にまとい、右手に剣を持っている。しかし、左半身は心臓を巻き込んで吹き飛んでおり、雄大であっただろう大剣は柄の先から粉々になっていた。
見ただけでわかる強者。それが、防御態勢を取ったのにもかかわらず、一撃の打ちに仕留められていた。
圧倒的暴力がこの場でおこったのだと理解する。
災害では無い。
事故では無い。
――ましてや人の手であるはずがない。
カタッ
ビクリと肌が痙攣する。
なにかの音がした。おそらくは木の板が倒れた音だと思う。しかし、なぜ板が倒れたのだろう? 風? それもあるだろう。だが、一番恐ろしいのは……この惨状を生み出した"なにか"がまだここに留まっていた場合だ。
音が鳴るほど唾を呑む。俺は今、馬鹿な考えを巡らしている。音の鳴ったほうに行ってみようと思っているのだ。
不安材料が多すぎる。もうここは、俺の常識が通じる世界では無いのだ。そんなことは、あの部屋で散々思い知ったはずだ。なにがあったって不思議じゃない。物影を覗けば、頭からバックリといかれ、速効バッドエンド。そんなことも不思議じゃないのだ。
だというのに、まだ希望的観測をしている頭がいる。ひょっとしたらさっきの物音は、この惨状の生き残りのものではないかと。助けた俺はお礼にと近い町まで案内してもらう。町ではその人の家族に涙を流して感謝され、宿なしの俺をきずかって、家の空いている部屋を使わせてもらえるようになる。知らない土地で、初めは右往左往するが、家の人が危ない俺を助けてくれる。そのうちこの世界の文化にも慣れ、なんだかんだ満足した生活を送れるようになる。ここに、不安だった生活基盤が築かれるのだ!
……穴だらけの妄想だ。まず、瀕死の人間がいたとして、俺にそれをなんとかできるわけがない。他にも色々あるが、物事を都合よく考えすぎだ。
だけど、ようやく掴んだ希望なのだ。簡単に手放すことなどできるはずもない。
俺は震える足をそのままに、物音のしたほうに向かった。
✝
そこには黒い塊があった。
いや正確に言うなら、二つの足を折りたたんで胴体に付け、両手で頭を押さえつけている、綺麗な黒髪の――。
「……ひっ」
少女だった。十四歳ぐらいの。
凄い震えている。俺の足の何倍ものバイブレーションだ。
ふぅ、と溜めこんだ息を吐いた。どうやらたまには冒険するのもいいようだ。
みたところ擦り傷などはあるが、大きな外傷は無い。
これはなんとかなったと安堵し、今も怯え続ける少女を安心させようと、できるだけ穏やかに話しかけようとする。
「あ、安心して。俺は今そこを通りかかった者で――」
「嫌あああああああああああ」
口を開いたとたん、少女は叫びながら逃げだした。
え、なにを間違えたのだろう? ひょっとして初めにどもったのがいけなかったんだろうか?
少女は嗚咽を漏らしながら、這うように遠ざかっていく。
凄い精神状態だ。あんな現場にいたのだから当り前かと思うが、あそこまで必死な人間を俺は見たことがない。
少しほうけていたが、すぐに追いかけようと動き出す。
少女のいる方へ意識を向け、歩き出し――それを見た。
それは白い塊だった。
正確にいえば、たくましい四肢を地に着け、獰猛な牙をギラリと光らしている。耳は空にむかって、ぴんと立っており、全身を白い体毛で覆い、眼光は鋭く俺と少女を射抜いている。
簡単に言えば、それは狼だった。狼というには、その体躯はいささか大きく、たくましすぎるが。
全身が総毛立つ。体中がシグナルを出し、あれがただの狼でないと訴えかけてくる。
未知の感覚。あれは本当にやばいものなのだと。
「……!」
少女も前方の獣に気がつき、動きを止める。
この場の時間が停止した。
俺も少女も、息を止めていた。動物的直観がそうさせた。
あの狼は今、品定めをしている。どちらを先に喰おうかと。
そして、狼にとって俺も少女も同じゴミ。たいして脅威になることはない。
ならば、俺と少女、先に動いたほうが奴に喰われる。
「あ、ああ……」
痺れを切らしたのは少女だった。
それも当然だ。さっきまで少女はずっと恐怖の中にいたのだ。精神的余裕などあるはずもなく、限界は一瞬で来た。
「ガアアアアアアア!」
狼が少女に躍りかかる。
その鋭利な爪と牙で少女を引き裂こうとする。
俺は、まだ動けずにいた。
どうしよう? 助けに行くべき? 死ぬんじゃね? 見捨てて逃げる? すぐに追いつかれるか? ならここで仕留める? どうやって? そこらの木片で?
思考はぐちゃぐちゃのごちゃごちゃで、浮かんでくるどれも絶望的だ。
俺が考えているうちに少女は食され、棒立ちだった俺は易々と飲みこまれることだろう。
死んだ。そう思った。
『お前はいつも考えすぎなんだよ。なんでもいいからまず――』
体が動いていた。狼に向かって走っている。わけがわからない、なんでこんなことをしているのだろう。それでも動き続ける。
『いいか、喧嘩に勝ちたいなら――』
そうだ、勝ちたいなら――。あいつがよく言ってたじゃないか。
「『殺す気でいけ』!」
そう、思い出の言葉で鼓舞した。