灰色の世界
紙の続きには、こう書いてあった。
"君に頼みたいことは三つ。外にいる魂吸蚊の殲滅、魔術師たちの排除、私が書き起こした文献の忘却だ。
目下、一番優先してもらいたいのは魔術師たちの排除だが、これは今の君では難しいだろう。当面は私の文献を探しながら魂吸蚊を狩っていてくれ。
文献のある私の隠れ家は、扉に張ってある地図を見ればわかるはずだ。魂吸蚊については、語らずとも君の体が勝手に反応するようになっているから安心してほしい。
大変身勝手だとは思うが、今私は動くことができない。
君は理不尽な現状に憤りを覚えているかもしれないが、何もしなければ君は腐って死ぬことになる。
脅しのように聞こえるかもしれないが、純然たる事実だ。今の君の身体は普通じゃないということをよく理解してほしい。
これが終われば君の願いを叶えよう。元の世界に帰るでもいいし、莫大な富でもかまわない。私にできる範囲のことならなんでも叶えよう。
それではがんばってくれ。 アロウ・グリヘリッツ"
……何の冗談だと思った。
魂吸蚊? 魔術師? 文献? 君の身体は普通じゃない? 到底呑み込めるようなものではない。
だが、薄々ここは俺の知っている世界とは違うんじゃないかって気はしていた。謎の記号や、現実味の無い空気、それらが異世界というだけで納得できてしまう。
魔術師がいるぐらいだ、魔法もあるんだろう。なら遠い世界の人間を呼び出すぐらい、わけないのかとも思うのだ。
「はは…………」
乾いた笑みが漏れる。やったな岩瀬晴、今日からお前は勇者だ。選ばれた君は、これから高校にも行かず、煩わしい家族とも別れ、異世界で身を粉にして他人のケツを拭いてくれ。
「――っざけんな!」
なにが、「これも運命だと諦めてくれ」だ。かってに呼び出して、かってな理屈を押しつけて、納得できるわけがないだろうが。
こういうのはもっと使命感溢れる正義漢にまかせてくれ。
見たところ穏やかじゃない単語がちらちら見えるが、俺に殲滅やら排除ができるわけねえだろ。流血沙汰なんてもってのほかなんだよ。
「ぜってえこんなこと――」
やらないからなとは言わなかった。いや、言えなかった。
何もしなければ腐って死ぬというのが引っ掛かったのだ。猛烈な怒りにまかせてつっぱねる事は簡単だったが、さっきの寒気が否応なくこの忠告に重みを持たせているのだ。
「………………クソが」
むしゃくしゃして壁を叩く。ぶつけようのない――ぶつけるべき相手のいない怒りに頭が沸騰する。
ちくしょう
ちくしょう
ちくしょう
………………………手が痛え。
✝
結局、アロウ・グリヘリッツの要求をのむことにした。
今自分が見知らぬ土地にいるのだとして、これからどうすればいいのかなど分からないのだ。
見たところこの家には食材も無いようだし、どちらにしても出ていかなければならない。なら、地図とやらに書いてある場所を目指しながら、村でも探そうと考えた。
部屋の隅にある袋に、数冊の本と実験用具を入れる。必要かは分からなかったが、手ぶらで旅をするのはいささか心細いのだ。
部屋中にあるメモ用紙や研究資料のようなものは、全てびりびりに破いておいた。床が大変な状態になっているが、もうここには来ないだろうし、ここに戻りたくないから嫌々だが全部破ったのだ。
ここには短時間で嫌な思い出ができすぎた。
ドアの窓に張ってある紙を剥ぎ取る。中央下にある丸が現在位置で、残りのバツ印が文献のある隠れ家だろう。
地図中にたくさんあるバツ印を見て、気が重くなる。
とりあえずは一番近くのところから寄ろう。
縮尺に関しては考えなかった。……考えないようにした。
扉をあけると、風が体をなでてきた。
なんだか、ようやく一つ解放された気がした。
だが、外にあったのは、より俺の心を重くさせる景色だった。
一面の灰色。
空は雲に閉ざされ、地平線の彼方まで青は無い。
地面は砂で覆い尽くされ、その全てが灰色だった。
地に命の影は無く、命の芽吹く余地は無い。
あの部屋での寒気が、また俺を襲った気がした。
灰色の世界だった。