目覚めのプロローグ
なんだか寒い。昨日は布団にちゃんと入って寝たというのに、またこの身体は主に反して動いたらしい。
少しづつ意識が明確になっていく。どうやら布団を蹴飛ばすどころか、用心棒よろしく壁にもたれかかっていたようだ。我ながら器用なことをするものだと呆れる。
このまま寝ているのも身体に悪いと目をあけると――。
「…………は?」
そこは見慣れた寝室ではなく、一面コンクリートで塗りたくられたような埃っぽい部屋だった。
理解できない状況に思考が追い付かず、そのまま数分の時間が過ぎていく。
かろうじて目を動かしているが、あたりに見えるのは壁、壁、壁。家具の類は一切なく、牢屋と言われるのがしっくりくるような内装だ。
一つだけ変化があるのは、目の前に見える階段ただ一つ。まるで誘われているようだと思った。
立ち上がって歩みを進める。
いまだに現状が把握できたわけではないが、ここにいても何があるかわかったもんじゃない。俺はいち早く安心を得るために、何処に繋がっているかもしれない通路を逃げるように進んだ。
†
出た場所は、いたって普通…………のような部屋だった。
さっきまでの部屋とは違い、木張りの部屋で、本棚や机などがあり生活臭が感じられる。が、よくわからないメモ書きが壁一面に張られ、実験器具のようなものが散乱する部屋は、やはり普通とは程遠い。
ためしに一冊本棚から取り出して読んでみたが、今まで見てきたどの言語にも当たらない記号の羅列で、結局よくわからずじまい。
適当に部屋を観察していると、机の上に奇妙な球体がメモを下敷きにして置いてあった。
それは透明なガラスの中に、真黒な"何か"をめいっぱい押し込めたようなもので、上下に金色の蓋みたいなものが付いていた。
その実用性が全く見てとれないさまに、俺は惹きつけられるように手を伸ばす。
指先が触れ、手の中に収めようとする――その瞬間、球体が突然融解し、中にあった黒い"何か"が一斉に飛び出した。
「うわぁ!」
響く悲鳴、だがもう遅い。黒い"何か"はそれ以上に大きなノイズを吐きだしながら俺を覆っていく。
「や……めろっ!」
腕を力の限り振り、たかってくるそれらを必死に遠ざけようとする。不快な音に、無遠慮に身体にたかって来るさまは、まるで"大量の蚊"だ。
わけもわからず抵抗を続けていると、いつのまにか音は止んでいた。
恐る恐る瞼を開くと、さっきまでいた大量の蚊どもは忽然と消えており、部屋には腕を振って疲れた俺の、荒い呼吸音だけが響いていた。
身体の寒気が止まらない。だというのに、暑くて仕方がないとも思う。内部の熱が皮膚にどんどん吸われていっているというのが一番近い表現かもしれない。
「ぁ……………………」
なんだろう、このまま死にそうな気がする。熱どころか生気まで一緒に出ていっているような気がする。恐怖で気が狂いそうだ。今にも叫びたいが、叫んだら一気に全部持って行かれそうな気がする。
いやだ、いやだ、いやだ
これ以上漏れ出さないように、自分で自分の体を抱く。限界まで開かれたその眼は、その実何も見ていない。
いやだ、いやだ、いやだ。
何度そう反芻したことだろう。意識が途切れるかと思ったそのとき、フッと身体が楽になった。
ようやくの解放に、大きく息を吐く。
さっきまでの寒気は一体何だったのだろう。あの大量の蚊達が関係しているのだろうか。そういえば何処へ行ったのだろう。溢れだす疑問のどれにも答えは出ない。
もう一度大きく息を吐く。
どうやらさっきの恐怖体験で、幾分か頭を引き締められたらしい。ここにきてようやく俺はおちついて思考をまわせれるようになった。
思えば目が覚めてからずっと疑問の嵐だ。俺は拉致監禁でもされたのだろうか? にしては今の俺は自由に動けすぎている気もする。それにこの部屋の歪感だ。実験器具がいっぱいあるというのに、部屋の内装は時代遅れにもほどがある。解読不能な文字に、さっきの不思議現象。これではまるで――――。
そう思った時だった。
「――――っな」
さっきまで意味不明だった壁中のメモ、それらの内容が"理解"できた。
別に文字が日本語に見えているわけじゃない。俺には記号と、その構成からくる未知の文法表現が理解できているのだ。
夢中で壁に目を這わせる。突然の変化に驚いてはいるが、ようやく何かが解決する予感があった。
どれも研究者が書いたような難しい表現に、専門用語の羅列。とても参考になるようなものではなかったが、ようやく俺がすべて理解できるものを見つけた。
それはさっきまで机の上で球体に下敷きにされていたメモだった。
紙にはこう書いてあった。
"おはよう、不憫な隣人よ。せめてこの紙を君が見てくれていると祈っている。私は大変なことをしてしまった。君に尻拭いをさせるのは忍びないが、これも運命だったと諦めてくれ。"
これを書いた奴の名は、アロウ・グリヘリッツ。
俺、岩瀬晴をこの灰色の世界に呼んだ元凶だった。