竹中の兵学
「魏武注に曰く、十倍ならば包囲し、五倍ならば速攻し、二倍ならば分断し、互角ならば巧緻に兵を用いてこれを防ぎ、劣勢ならば退き、勝算なければ戦を避けるべしという。大事な事は敵と己の力の差を知る事だ。さすれば自ずと取るべき道が見えて来る事であろう」
静かに兵書を朗読する声だけが部屋に響く。その声の主は青年にも思える色白の男で、正座する聞き手はまだ五、六歳と思しき子供である。だが静謐に聞き入っているという風ではない。もじもじと身体を震わせ、不安げに視線を泳がせている。
「わしは前右府様や筑前殿の命で幾つかの領主を調略し、味方に引き込む働きを成した。まさにこれこそは戦わずして勝つという兵法の極意に通じるものだ。無論時には兵馬を用いてこれを討つ必要もあろうが、それには膨大な労力が必要になる。そうする必要がないように、相手に抗戦する気を起こさせぬようにするのもまた兵法。よくよく心得ておけ」
そう言って、ふっと兵書から顔を上げる。その目には、心ここに在らずという体で身を震わせ、何事かに耐えていると思しき息子の姿が映った。男の表情に険しさが混じる。
「どうした、吉助。今わしが言った事をしかと聞いておったのか」
父の問いに息子は答えなかった。答える余裕がないと言った方が正しかろう。その顔は含羞故か赤くなり、目には涙さえ滲んでいる。その理由を男は察してはいる。だがあえてそれを問わず、厳しい眼差しで息子を睨むように見据えるだけだった。
「ち、父上」
「なんだ」
「も、申し訳ありませんが、し、小用を、致したく」
ぎろり。
今度ははっきりと息子を睨む。だが小さく溜め息をつくや、手を振った。早く行けという意味だ。少なくとも息子の側はそう解釈し、「すみません」と言うや脱兎の如く駆け出した。その姿を見送って、今一度男は溜め息をついた。
やがて軽やかな足音と共に息子が駆け戻って来る。その顔は解放感からか晴れやかに見える。その顔を見た父親は低く、しかしはっきりと言った。
「早う座れ」
その厳しい声色に、息子の顔から一気に血の気が引いた。息子がその場に立ち竦むのを見た父は双眸を見開き、叫ぶように再び言った。
「早うせぬか、たわけ!」
息子の顔が今度は恐怖に歪んだ。平生の父は物静かで、誰に対しても穏やかに接する人物である。怒鳴る事など滅多にない。それだけに、父の怒りの大きさを感じずにいられなかった。恐怖を覚えながらも、彼には父の言葉に従うより他に法がなかった。
「……何故わしが怒っているか、わかるか」
息子はうつむいた。父の矢のような視線に耐えられぬからであり、恥の為でもある。その顔には再び赤みが差していた。
「こ、講義の前に小用を済まさなかったからだと」
恥を忍ぶように絞り出した言葉に、しかし父親は肯定も否定もしなかった。ただ手元の兵書を静かにめくるのみである。
「魏武注に曰く」
目を伏せて語り始める。
「兵は国家の大事、死生の地、存亡の道、察さざるべからざるなり……兵学講義の始めに教えた事だ。覚えておるか」
「……はい」
うつむいたまま息子が答える。
「そなたが今申した事、確かに間違いではない。万端の準備を整えず戦に望めば先に待つのは敗北あるのみ。そういう意味で、そなたは過ちを犯した。それはそれで確かに失態と呼べるものではある。だがな!」
不意に発せられた怒声に、びくりと息子が身体を震わせた。思わず顔を上げ、父と視線が重なり合う。それを逃すまいとするかのように、父親は矢継ぎ早に言い立てた。
「わしが本当に怒っておるのは、大事な兵学講義中に中座した事そのものだ! 小用に行かせろだと? 甘ったれた事を抜かすな! そなたは兵法を、小便が我慢出来なければ中座しても構わぬ程度の学問でしかないとほざくつもりか! 兵法の一つもわからぬままで家を守れると思ったら大間違いだ! ただ一度の失敗で、竹中の家が滅ぶ事もあり得るのだぞ! 小便なぞ垂れ流してでも、兵学にはしかと耳を傾けよ!」
「はい」
既に、息子は大粒の涙をぽつぽつと地面に垂らしている。だがもう、父の視線から逃れようとはしなかった。口を引き結び、身体を震わせながらも、真っ直ぐに父を見据えていた。それを見た父は、ふっと目を細める。
「……竹中の子が熱心に講義に聞き入って座敷を汚したとして、それの何が恥になろうか。流石は半兵衛の子よ、竹中の跡継ぎよと賞される事であろう。間違いは誰にでもある。この父にもな。それを改めて己の糧にし、立派な人間に育ってくれればそれでいい。わかったか」
「……はい。申し訳ありませんでした、父上」
嗚咽を漏らしながらも、吉助はしっかりと言うべき事を言い終えた。目をごしごしと擦り、涙を拭う。半兵衛は立ち上がり、愛息の頭をそっと撫でた。
「今日はもう下がれ。続きは明日行う。わしの教え、くれぐれも忘れるなよ」
「はい!」
吉助は力強く答え、今度は礼を弁えた形で退出していった。その後姿をどこか満足気に半兵衛は見送る。姿が見えなくなったのを見計らい、後片付けをしようと部屋に戻ろうとした。
不意に懐から懐紙を取り出し、口に押し当てる。押し殺すような咳を二度、三度と繰り返し、苦しげに口から懐紙を離した。白い紙が、朱に染まっていた。
(この分では、あれが一人前になるのを見届ける事も出来ぬかも知れぬな)
いつの頃からか、時折今の様に血痰を吐くようになった。心の奥底で労咳の類ではあるまいかと疑念を抱いている。もしそれが事実なら、遠からずその命は潰える事になろう。戦場往来の武士であれば、いつ死が訪れるかわかりはしない。だが幼い息子を遺して、遠からず病魔に屈する運命なのだとしたら、これほど空しいものもないだろう。
(これも亡き瑞雲院様に叛き、備前守殿のご厚意を仇で返した報いか)
自身の過去の所業を想い、思わず自嘲の笑みが零れた。武士であれば誰でも業の一つや二つは背負うものだ。だが自分の業はいささか重すぎたらしい。
(或いは、あれが俺の遺言代わりになってしまうのかも知れぬな)
懐紙を仕舞い、ごろりと横になりながら、半兵衛は物思いに沈んだ。そうせずには、いられなかった。
竹中半兵衛重治が倒れたのは、天正七年四月の事である。その病が重篤である事を知った秀吉は彼に療養を薦めた。だが半兵衛はそれを肯んぜず、無理矢理療養先の京都から抜け出して戻って来てしまった。最早命数が尽きかかっている事を誰よりも理解していたからだった。
播磨における一進一退の激戦の最中、遂に竹中半兵衛の命の灯火は尽きた。この時遺児吉助は、僅か七歳に過ぎなかった。彼は竹中一族の後見を受けながら秀吉に仕え、やがて軍目付として朝鮮の役で活躍する一人前の武将に成長を遂げる。
そして吉助改め重門にとっての最大の活躍の場は、関ヶ原合戦であった。皮肉にもこの地は竹中家の領土であり、当初は西軍に属していたのだが、その裏で早くから家康に通じており、決戦では幼馴染である黒田長政の幕下に加わる事になった。
重門は大名ですらない六千石の小身に過ぎない。にも関わらず彼は長政と共に石田軍との激戦に進んで身を投じた。そして戦が終わった後、彼の手勢が小西行長を捕縛する事に成功し、家康自らの感状を賜り、所領安堵が約された。竹中半兵衛の跡継ぎとしての面目を、彼は見事に施して見せたのである。それこそは幼少時の父の教えに対する、一つの答えであると言えた。
この逸話は、信長の野望をやった事のある方ならば割と知っている方も多いのではないかと思います。小便を垂れ流してでも……という発言の過激さと、イベント発生条件の緩さとで、印象に残る人は少なくない筈です。
竹中半兵衛重治という男ほど、逸話塗れでなにが本当の事跡だかわからない人間もそうそう居ません。この話が本当なら、まだ年端も行かぬ子供を相手にこんな無茶とも思える事を言っているのですね。色白で物腰穏やか、思慮深く柔和な人間という印象が未だ根強い半兵衛ですが、この逸話からはむしろ剛直さの方を感じます。
竹中重門は父親が父親だけに目立つ存在ではありません。ただその数少ない事績から見ても、目立たぬながらも手堅く、決して父の(虚名も含めた)名声を汚すような働きではありません。この逸話が本当にあったかは別として、彼自身は立派に父の跡を継いだ孝行息子だと言えると思います。
晩年、重門は伝記『豊鑑』を著しています。林羅山などに師事して熱心に学問を学び、それで鍛えた文筆の教養を用いたものだといいます。この分野においては、虚実定かならぬ父親よりも確かな功績を遺したと言ってよいでしょう。それもまた、父の遺言めいた戒めを活かしたものなのかも知れません。