暗闇の中の子守唄
先日、三十になった兄にやっとガキができたそうで、両親は兄の新しい家族と住むことになった。シャッター街で唯一、店を開けている駄菓子屋に、僕は一人残されたわけだ。ここはひどい田舎だ。でも子供が多いから、顧客に恵まれた。ただ子供の小遣いをわけてもらうだけで、僕の生活が成り立っていくはずもなく、店だって今にも潰れそうだった。それでも今ある分の品を売り切りたいと、毎日店を開けている。
僕は食うために警備員のアルバイトもしていた。派遣制で、日ごとに違う所に行かされたが、主にビルや工場が僕の勤務地になっていた。仕事は正直に言うと、そこまで大変じゃない。駄菓子屋のほうはもう発注もしてないわけだから、ぼーっと座っているだけでいい。警備員のほうも朝方まで、ぼーっと歩き回るだけでいいのだ。嫌なことがあるとすれば人間関係だけだった。僕は人の子供が嫌いだった。あの意味もなく騒ぎ、常識的として感情を抑えようとしないところが理解できないからだ。そういうわけで親がうるさいが、僕は兄の子供に会う気には到底なれなかった。それに今が一番感情的な年ごろだと思うし。
それから、僕は自分以外の警備員の奴らが嫌いだった。幽霊を見たなどと騒ぐからだ。僕も見たことないわけではない。ただ騒ぐようなことでもない。いつだって、ぼーっとしているから、そんな幻想を見てしまうのだ。現実ではない。だけど僕は、その存在を認めてはいなくても、幽霊というものが嫌いではなかった。第一の理由として幽霊は騒がしくないということがある。
「何もねぇじゃん!」
近所のガキが来た。いつもは午後過ぎてから店を開けるのだが、もう夏休みだったので、午前中から眠たい目を擦って、子供の相手をしていた。僕はそのガキのことをよく知っていた。いつも一人でいる。習い事ばっかりやっていて、友達と遊んでいるところを見たことがない。今も次の習い事に行く途中なのだろう。大抵の子供がそうだが、こいつもおまけという言葉に弱かった。
「あるだろ、よく見ろ」
「ポテチは?」
「……あれ販売中止だってさ。脳みそ溶かすらしいからよ」
「ばっかじゃねぇの? そんなわけねぇじゃん! しかもあるし、ほら」
そのガキは、僕が売り切ったと思っていたポテトチップスをどこかから見つけてきた。
「たった今、また販売開始してもよくなったって……」
店を任されたのは去年の冬からだったが、この夏中には切りのいいところまでいけるかもしれないと思っていた。それをポテトチップスとおまけにあげたペロペロキャンディーを持ってご満悦な、そのガキに報告すると、少しさびしげな顔をした。
「経営能力がねぇからだよ」
「あーあ、そうかもな」
「……まぁ、潰れるまで毎日来てやっからよ」
「勝手にしろ」
それから何週間か経って、僕は駄菓子屋を閉めた。でもガキは相変わらず来る奴がいた。「潰れた! 潰れた!」と冷やかしに来る奴がほとんどだった。
ある日、バイトでデパートの警備を任された。異例だった。でかい店なら警備員くらいもとからいるはずだからだ。なんでもそこの奴らは立て続けに辞めていったらしい。給料をいつもの倍近く出すとマネージャーに言われ、僕は二つ返事で了解した。
閉店の数時間後、店員が全員退職したら、店内の見回りをして、あとは自動セキュリティに任せてその日は帰っていいと言われていた。警備員は二人で、事務所に一人、見回りに一人、僕が行くことになっていた。照明の消えた、真夜中のデパートを外から見ると不気味だ。でも中はもっと気味が悪かった。淡い緑色の光が灯り、真っ暗闇よりも暗いものを感じさせられるようだった。僕は順調に見回りを終えていった。食品、衣服、生活用品、スポーツ用品、化粧品、ゲーム、最後に駐車場を見回りした。月明かりもない、真っ暗な屋上に出た時のことだった。何か変な音が聞こえた。
夏の終わり、それを一気に感じさせるような冷たい風の他に、今まで感じたことのないような寒気さえした。僕は音の正体を知っていた。子供の泣く声だ。何かもう、どうしようもないように泣いていた。本当に人の子が出せる声か、と疑ってしまうくらい、でも確実にその声は男の子の泣き声だったのだ。
僕はその声のするほうへ進んだ。大きな赤いカラーコーンがあった。人がすっぽり入れるくらい大きなものだ。泣き声はその中から聞こえた。何か言っている。
暗いよ、暗いよ……
そう聞こえる。間違いない、中にいる。僕は持っていた懐中電灯を捨てると、慌ててそのカラーコーンの上の方を勢いよく両手で押した。
泣き声が止んだ。そこに男の子の姿はなかった。あったのは、タイヤ止めのブロックだけだった。それがなぜか真っ黒に染まっていた。血だ……
僕はしゃがみ込んでそのブロックを見た時、もう一つあることに気づいた。カラーコーンの中で、何かが蠢いていたのだ。僕はそれを直視できなかった。見てはいけない気がした。見たら取り返しのつかないことになる。あれは、この世のものではない……
再び泣き声が聞こえた。カラーコーンがメガホンのような役割をして音を増大させていた。僕は膝をついて倒れ込み、耳を塞いだ。しっかりしないと、こんなの現実ではない、そう自分に言い聞かせた。
気をしっかり持とうとすればするほど、目の焦点が合わなくなり、意識がもうろうとしてきた。そんな中で、どこかから女の人の声が聞こえてきた。弱々しく、かすれているのに、男の子の泣き声に劣らず、それは僕の頭の奥までしっかりと響き渡っていた。知らない言語だったが、そのメロディーは紛れもなく、聞いたことのある子守唄だった。どうしてだろう。僕はその子守唄を聞くと、心の中が何か暖かいもので満たされたような気持ちになった。そしてなぜか、今すぐそこで泣いている子がかわいそうに思えた。せめてその姿だけでもちゃんと見てあげるべきではないかと思った。しかし、もう僕はその場にいなかった。いつの間にか、一階の事務所の椅子に座っていたのだ。
「おつかれさまでした」
「えっ? 待って」
僕は帰ろうとするもう一人の警備員を呼び止めた。
「はい?」
僕は回りを見渡した。僕の手にはチャックリストがあって、見回りは全て終わっていた。
「あっ、いや何でもありません」
「大丈夫ですか?」
「あー、屋上に忘れ物をしました」
「忘れ物って?」
「……懐中電灯」
二人で屋上に行ったが、あったのは懐中電灯だけで、カラーコーンも血まみれのブロックもなかった。もちろん声もしなかった。
「よく明かりないで戻れましたね。てか、落としたこと気づかなかったんですか?」
「さぁ……」
夜明け前の帰り道、僕はまだ夢見心地だった。誰かにつけられているような気がした。でも足を速めようとはしなかった。走ったら、僕がその僕をつけているなにかに気づいたことを知らせてしまう。その何かを僕が恐れていることを知られてしまう。だから立ち止まることも、振り向くこともしなかった。
家に帰ると、店の前に誰かいた。街頭に照らされたその人は、僕と同い年くらいの若い女の人で、黒く長い髪をして、黒く柔らかな生地のワンピースを着ていた。僕は一瞬見ただけで、その女が普通ではないことに気づいた。
その女は、店の看板を見上げていた。どこかさびしげな表情で。
「お菓子、ありますか?」
その女はこっちを向いて言った。きれいな人だった。
「お菓子、ありますか?」
「あー、もうやってないんだ……」
僕はできるだけ優しい声で言った。その女は目線を落として、頭を下げると僕が来たほうにゆっくりと歩いていった。
僕は家に入ると大急ぎで、何かお菓子はないかと探した。台所で最後まで売れず自分で食べていたお菓子の詰め合わせの袋から、紙に包まれた飴玉を一つだけ見つけた。僕はまた外に出て、女の行ったほうに走った。その女にはすぐに追いついた。
「お金はいいから」
僕は飴を渡した。その女の人は小さな声で礼を言って、また歩いていった。
僕の心は、またあの子守唄を聞いた時のような気分だった。もっとあの人を助けたい、力になりたいと思った。
僕は次の日、バイトを辞め、就職願いを出し、あのデパートの正式な警備員として採用された。だから昼間から、そのデパートにいることになった。僕以外の人は、今にも辞めそうな奴らと、前の僕みたいに派遣された奴らだけだった。今にも辞めそうな奴らはみんなこのデパートが呪われていると言っていたが、客足は申し分なかった。それに真夜中になっても、前にみたいなことは起こらなかった。それは僕にとってあまり嬉しいことではなかった。もう一度あの子守唄が聞きたかったのだ。それにちゃんとした経験がある人をデパートは雇いだしていた。僕はクビにされないように一生懸命働いた。休みもほとんどとらなかったほどだ。それもなにもかも、ただ子守唄が聞きたいという理由ためだけだった。
ある日、化粧品店で働く僕より若い女に声をかけられた。「ご苦労様です」と。僕はその声に飛び上がってしまった。あの弱々しい、かすれた子守唄を聞こうとしているばかりに、その化粧品店の女の声があまりにも力強く、大きく聞こえたためだ。だから、僕は返事ができなかった。
「ごめんなさい……」
女は傷ついたようだった。僕はそれを気にして、それからはその女に会った時は必ずこっちから挨拶するようになっていた。そして、僕たち二人は親しくなっていった。女は僕のことが好きだと言ってくれた。一生懸命に働く姿が好きだと。僕も素直で優しいその女のことが好きだった。女の名前は、あきこ。僕の名前に「こ」がついただけだった。二人で二人をあきと呼び合った。
「あき、どうして最後の見回りの仕事は絶対あなたがやるの?」
あきが僕に聞いた。
「僕がやりたいって言っているから、誰かがやらないといけない仕事だ」
僕は僕を大切に思ってくれる人ができても、あの子守唄を、もしかしたら、あの飴をあげた女を忘れられずにいる。
「どうして? あきが来てから、このデパートの悪い噂はなくなった……」
「偶然だよ。それに僕は噂なんて信じてない」
僕はあの元駄菓子屋であきと同棲を始めた。一応、兄にだけ電話でその報告をしようと思った。すると兄のほうかも衝撃的な告白をされた。兄の息子はあまり長く生きられないそうだ。それから兄は、両親のことを気にしていた。
「俺は俺の子を守ると決めた。ただ母さんたちをガッカリさせてしまった。元気な孫が欲しかったはずだから。あき、お前はまだこれからだろ? 急かしたりはしないし、強制もしないけど、早く母さんたち安心させてやってくれ。……俺も、俺の嫁さんももう子供は欲しくないと思っている。次、子供が生まれたら、俺たちは、今の子を今みたいに愛せなくなってしまうかもしれないから……」
僕は最後まで、「うん」としか言えなかった。あきにそのことを話すと、あきは泣き出した。なぜか、次の日まで口を利いてくれなかった。それで、やっと言ってくれたことは、あきが大学生の時に強姦を受け、子供の産めない身体になっているということだった。
僕はその日も休まずに、仕事に出かけた。あきはまだ部屋からも出られずにいた。あっというまに時間が過ぎて、気づいたら暗い帰り道を歩いていた。兄と電話をしていた時、僕は子供がほしくなった。あきに会って徐々に芽生えていた感情だが、あの時やっと自分の気持ちを確かめることができた。それは、親を安心させるためだけではなく、たとえ長く生きることのできない子が生まれても守っていこうと思える兄の尊い考えを羨ましく思い、そんな考えを持つことができるくらい愛おしく思える子供が、自分もほしいと思ったからだ。ただそれは次の日崩れ去った。あきとこのまま一緒にいるとなると、僕は自分の子供を持つことはできなくなる。
僕は帰り道がわからなくなっていた。自分が今どこにいるかもわからない。このまま一生家に帰れないような気がした。そんな時、子守唄が聞こえてきた。あの弱々しく、かすれた声の子守唄だ。僕はその声のするほうへ進んだ。墓地に辿りついた。どこの墓地だか、僕にはわからなかった。その墓地を奥に進んでいき、小さな小屋の前で立ち止まった。子守唄はその中から聞こえた。僕はそっと扉に手を触れた。
「来ないで下さい」
中から声が聞こえた。やっぱり。あの夜、飴をあげた女の声だった。
「どうしてこんなところにいるの?」
僕は扉を開けずに聞いた。
「息子を寝かしつけているんです」
女は泣くような声で言った。僕は扉に額を当てた。僕にこの扉を開ける資格はないとわかっていた。
「……あのデパートの屋上で亡くなった?」
あれから仕事と並行して調べ回り、前にあの駐車場で車にはねられ、頭を硬いブロックにぶつけて死んでしまった子の話を聞いていた。でもそれは噂に過ぎなかった。ニュースでも流れなかったし、新聞にも載ってなかった。
「そうです。今やっと眠りました。あなたがくれた飴、喜んでいましたよ。だからもう人には迷惑をかけないって約束してくれたんです」
僕は自分の目から大粒の涙が流れていることに気づいた。子供のいない自分に、子供を失った親の気持ちがわかるはずがなかった。でも、それ以上の悲しみはこの世にはないだろうと思った。それだけは確かだったから。
「開けてあげたいんだ、あなたたちのために……」
僕は両手で、扉を開けようとしたが、扉はびくともしなかった。
「いいんです。私はここで、この暗闇の中でこの子と眠ります」
「でもあなたはまだ……」
「病院を出て、一番近くの地下鉄にあなたの大切な人と二人で行って下さい」
その女は、そう言うとまた子守唄を歌い始めた。僕は、扉に寄りかかって、ゆっくりと地面に倒れ、そのまま眠った。
次に目を覚ましたのは病院のベットの中だった。最初に視界に入ったのは、あきだ。
「あき、結婚してくれ」
僕は言った。あきはゆっくりと頷いて、その後に「はい」と力強く言った。
それから急いで、ベットから飛び起きると、あきと二人で病院を出た。一番近くの地下鉄の駅に行き、耳をすました。心の中で願った。もっと大きな声で、子供なら、もっと騒がしいくらい大きな声で……
聞こえた。ロッカールームのほうからだ。僕たちを呼んでいる。暗い場所から、子守唄を求めて、泣いているのだ。