第59話 取引
広場で奴隷商との一件を終え、俺は帝国中央学園の寮へと帰還した。
「レヴォス様、おかえりなさいませ」
いつも通り、執事フォルテが寸分の狂いもない完璧な礼で俺を出迎えた。
その落ち着いた声を聞き、俺はわずかに肩の力を抜く。
「フォルテ。ヒロンはいるか?」
ヒロン・イロンダル。
『エル戦』では稀代の軍師として名を馳せた男であり、今はオレスフォードの王子として俺に忠誠を誓っている。
「はい、いらっしゃいます。お呼びいたしましょうか?」
「ああ、俺の自室へ来るよう伝えてくれ」
フォルテに短く命じ、俺は部屋の扉を開けた。
中ではメイドのコレットが、甲斐甲斐しく掃除に精を出していた。
この部屋は、フォルテとコレット以外の立ち入りを厳格に禁じている。
「あっ! し、失礼いたしました、レヴォス様! お帰りなさいませ!」
コレットは俺の存在を発見するやいなや、手に持っていたハタキを背後に隠し、まるで悪戯が見つかった子供のように顔を赤くして慌てふためいた。
「コレット、構わん。そのまま続けろ。……いや、ちょうどいい。紅茶を三つ用意してくれるか?」
「は、はい! 承知しました!」
弾かれたように返事をして、コレットが部屋を飛び出していく。
それと入れ替わるようにして、一人の男が姿を現した。
ヒロンだ。
「レヴォス様! お帰りなさいませ! お呼びと聞き馳せ参じました。何か急用でしょうか?」
「ああ、少し聞きたい事があるのでな。まあ、座れ」
促されるまま、ヒロンがソファの対面に腰を下ろす。
その背筋は鉄の棒でも入っているかのように真っ直ぐで、俺の視線を真っ向から受け止める瞳には、隠しきれない緊張と期待が混ざり合っていた。
「ヒロン。ルナリアたちの教育、それにグリンベル領の復興への尽力、実に見事だ。お前の働きには感謝している」
「いえいえ、そんな! もったいないお言葉です! 私はただ、自分にできる最大限を尽くしているに過ぎません……! 少しでも、レヴォス様という偉大な主の力添えになれているのなら、これ以上の誉れはありません!」
ヒロンは子供のように純粋な笑顔を浮かべた。
その真っ直ぐな忠誠心を確認し、俺は満足げに頷いてから、『本題』を突きつけた。
「ヒロンよ。お前は……バルトロ・ドッヒャーという商人を知っているか?」
「――っ!?」
その名を口にした瞬間、ヒロンの表情から余裕が消え失せた。
温和だった眼差しは鋭く研ぎ澄まされ、王子としての峻厳な顔つきへと変貌する。
やはりな。
たとえオレスフォードという小国であっても、王族の耳にあのドブネズミの名が届かぬはずがない。
「……はい、存じております。極めて危険、かつ卑劣な男です。我がオレスフォードも、奴の闇の略取によって少なからぬ傷を負わされました。……奴が、何かしたのですか?」
「ああ。奴と取引をすることにした。つい先ほどな、金貨一枚ほどで『購入』してきたところだ」
俺が淡々と告げると、ヒロンは驚愕のあまり絶句し、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で瞬きを繰り返した。
「あ、あいつと、取引ですか……!? レヴォス様、失礼を承知で申し上げますが、奴が裏でどのような『商品』を扱い、どれほどの血を啜っているかご存知なのですか!?」
ヒロンが激昂し、ソファを蹴るような勢いで立ち上がった。
その声は怒りに震え、拳は白くなるほど握りしめられている。
バルトロという男がいかに憎悪の対象であるか、そのリアクションが如実に語っていた。
ちょうどその時、控えめなノックと共に扉が開く。
「失礼いたします。紅茶をお持ちいたしました」
絶妙なタイミングでコレットが戻ってきた。
一触即発の空気に一瞬たじろいだコレットに、俺は手招きをする。
「コレット、お前もここに座れ」
「え!? わ、わたくしもですか……!?」
困惑しながらも、コレットは俺の隣にちょこんと腰を下ろした。
俺、ヒロン、コレット。
三人の前に湯気を立てる紅茶が並ぶ。
俺はその紅茶の香りを一度深く吸い込み、一口啜った。
「ヒロンよ。……あのバルトロとかいう男、奴隷の違法売買に禁制品の密輸、あらゆる闇商売に手を染めている。帝国内でも、奴の金に目が眩んだ腐れ貴族どもが、金貸しという名の賄賂を受け取り、好き勝手させているのは周知の事実だ」
「やはりご存知だったのですね……それならば尚更、奴との取引は断じてお勧めできません! 奴との関係は一度手を出せば最後、骨までしゃぶり尽くされる麻薬と同じです。一時的に潤ったとしても、最後には弱みを握られ、依存させられ、一生言いなりになるのが落ちです! 何より奴は、各地で非道な奴隷狩りを行っているという噂が絶えません!」
ヒロンは必死だった。
主である俺が道を踏み外さぬよう、その身を案じて叫んでいるのだ。
この男の忠義は本物だ。
俺は心地よい満足感に浸りながら、隣で呆然としている少女に問いを投げた。
「そうだな。……コレット、お前は『奴隷』という制度をどう思う?」
「ひゃいっ!? わ、わたくしですか!?」
自分に話が振られるとは思っていなかったのだろう。
紅茶を啜りかけていたコレットは、鼻を赤くして驚きの声を上げた。
「う、うーん……私は、その……好きじゃない、です。だって、同じ人間なのに自由を奪われて、道具みたいに扱われるなんて……そんなの、絶対に間違ってます……」
コレットは俯き、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
その小さな拳の震えは、不条理な制度に対する純粋な憤りを示していた。
「……全くだ。俺も同感だ。そこでだ、ヒロン」
俺は鋭い視線をヒロンに突き刺した。
「バルトロを潰す。そして、あいつが積み上げてきた全てを――俺が『奪う』ことにした。奴の汚れた財産は、これからグリンベルの輝かしい発展のために、残らず寄与してもらうことにしたのだ」
「え……奪う……? それは、一体……?」
ヒロンの思考が追いついていない。何を馬鹿なことを、という表情が顔に張り付いている。
俺は残りの紅茶を一気に飲み干し、不敵な笑みを浮かべた。
「コレットの言った通りだ。民の自由を奪い、物のように扱う外道から、その利権を奪い取るのだ。俺が奴から全てを奪ったところで、誰からも文句は言われまい」
「い、いや、しかし! あのバルトロ商会は国を跨ぐ巨大組織ですよ!? 至る国の重鎮、そしてこの帝国の有力貴族とも深く繋がっているはずです……そんな巨悪を敵に回せば、それこそ帝国内までも敵に回すことになりかねませんよ!?」
ヒロンが再び身を乗り出し、悲痛な叫びを上げた。
俺の身を案じるあまり、その顔は青ざめている。
一方、コレットは話のスケールが大きすぎて完全に石像のように固まっていた。
俺は、硬直しているコレットの脇腹を、人差し指でツンと突いてやった。
「ひゃうんっ!?」
可愛らしい悲鳴を上げて、コレットが飛び上がる。
「な、ななな何をされるんですか、レヴォス様!?」
顔を真っ赤にして抗議するコレット。
その過剰なリアクションが面白くて、俺は肩を揺らして笑ってしまった。
「くくっ、あまりにコレットが置物のように固まっていたのでな。つい手が滑った。……ヒロン、お前もそんな顔をするな。落ち着け。お前もつついてやろうか? 少しは頭が冷えるかもしれんぞ」
「……え、いえ、それは結構ですが。……それよりもレヴォス様、先ほどバルトロと取引したとおっしゃっていましたが……一体、奴から何を購入されたのですか?」
ヒロンが恐る恐る、震える声で問う。
ヒロンの中では、俺が禁忌の品に手を出したのではないかという不安が渦巻いているのだろう。
だが、俺が求めたのはそんな安っぽい『モノ』ではない。
「だから、先ほどから言っているだろう? 奴の『商会そのもの』を買ったのだ。金貨一枚でな」
「へ……? 金貨一枚で……? あのバルトロ商会を……ですか?」
静まり返った自室に、ヒロンの間抜けな声が木霊した。
理解の範疇を超えた事実に、軍師ヒロンの明晰な頭脳は完全にフリーズしたようだ。
正確には、今から奪いに行くのだが、それはこれからのお楽しみだ。
話についてこれないコレットの視線は、俺とヒロンの顔を行ったり来たりしていた。




