第3話 執事:フォルテ・ソワースの日誌
〇△月 □×日
ある屋敷に、執事として身を寄せることになった。
没落したとはいえ貴族としての経験が、皮肉にもこの職に就く助けとなったのは幸運というべきか。
だが、拾われた先は最悪の噂が絶えぬ場所だった。
公爵家の嫡男、レヴォス・ムーングレイ。
この幼き主人が、諸悪の根源だ。
傲慢などという言葉では、奴の気性を表現するには生ぬるい。
使用人を人間として見ておらず、家畜かそれ以下として扱う。
優位な立場を笠に着て、精神的、身体的な苦痛を強いることを日課としているかのようだ。
劣悪な環境に耐えかね、使用人が次々と去っていく。
だからこそ、素性の知れぬ俺のような男でも雇われたのだろう。
ふん、いいさ。俺には毒沼のような、この屋敷がお似合いだ。
愛弟子を死なせ、剣を捨てた俺の行く先など、どのみち地獄へ続いているのだから。
△□月×〇日
今日もまた一人、耐えきれなくなった使用人が去った。
止めはしない。俺にそんな資格はないし、止める理由もなかった。
提示される報酬に釣られて新たな者がやってくるが、数日も経たぬうちに恐怖に顔を歪めて逃げ出していく。
金貨の輝きも、あの小僧が放つ底知れぬ悪意を打ち消すことはできないらしい。
現在、この屋敷に留まっているのは、俺と、あの小僧の専属メイドをしているコレットという少女だけだ。
なぜ、あんな可憐な娘があの暴君に仕え続けられるのか。
俺のように過去の罪に縛られているのか、それとも弱みでも握られているのか。
あの執念深い小僧のことだ。あり得ない話ではない。
いつかコレットが、あの小僧を刺し殺しはしないかと、そればかりが心配だ。
〇×月□△日
今日起きた出来事を整理しようとしても、筆を握る手が未だに微かに震えている。
俺のこれまでの人生において、これほど不可解で、そして胸の昂ぶりを抑えられぬ日はなかった。
始まりは、あのレヴォス様――あえて「様」と記そう――が、珍しく俺に声をかけてきたことだった。
レヴォス様が、俺に剣を教えろと言ってきたのだ。
耳を疑った。
奴がなぜ? 俺の正体を見抜いたのかと思った。
俺はもう二度と、剣など握らない。……いや、握れるはずがない。
やんわりと断ったが、奴は聞く耳を持たなかった。
それどころか、すぐさま馬車を出せと命じ、俺を連れて最悪の治安を誇る冒険者ギルドへと向かった。
冒険者ギルドとは名ばかりの、野良犬と野盗の掃き溜め。
剣をただの暴力や、己の快楽のための道具として振るう野蛮な連中だ。
かつての俺ならば、その傲岸不遜な態度ごと叩き斬ってやりたいと思っただろう。
だが、そいつらを叩ききったのは俺ではなく、わずか13歳の少年だった。
レヴォス様は、荒くれ者たちを挑発し、襲いかかってきた巨漢を一撃で沈めた。
身の丈が倍ほどもある男を、寸分の狂いもない掌打で射抜いたのだ。
衝撃だった。俺の脳裏で、何かが焼き切れるような感覚が走った。
だが、真の驚愕はそこからだった。
激昂した30人近いゴロツキを相手に、レヴォス様は文字通り一蹴してみせたのだ。
……本当に人間なのだろうか?
その姿は、魔王の再来か、あるいは剣聖の化身か。
さらに奴は、倒れ伏す者たちに治療費だと言って金貨を投げ、不敵に笑っていた。
そして「また来る」と。
その一言の重みを、奴らは理解しただろうか。
あれは情けではない。圧倒的な力による懐柔だ。
あの一帯は、もはやレヴォス様の掌の上にある。
逃げるか、服従するか、二つに一つだ。
だが、俺は見た。
泥を舐め、地に這いつくばる男たちの瞳を。
あれは恐怖ではない。
絶対的な強者を目の当たりにした者が抱く、神への崇拝にも似た情熱だ。
奴らはもう逃げないだろう。逃げられないのではない。
己の神を見出したがゆえに、逃げないのだ。
屋敷に戻ると、レヴォス様は再び俺に命じた。
「俺と立ち会え」と。
そして、信じがたいことが俺の身に起きた。
俺は、その誘いに頷いてしまった。
何年もかけて幾重にも施してきた心の封印を、俺自身の手で歓喜と共に引きちぎってしまったのだ。
この、人外の才を持つ少年と戦いたい。
もし目の前に剣の神が現れ、手合わせを望んだなら、断れる剣士がこの世にいようか。
自分が磨き上げてきた技が、神の領域にどこまで届くのか。
それを知りたいと願うのが、武人の本能というものだ。
ふつふつと、内側から熱いものがせり上がってくる。
まるで、初めて剣を握った子供のような純粋な高揚感。
そうして、俺とレヴォス様は刃を交えた。
結論から言えば、俺の完敗だった。
たった13歳の、成長途中の少年にだ。
久しぶりに剣を握ったからだという言い訳をするつもりは無い。
剣は握らずとも、俺は身体の鍛錬だけは毎日欠かさなかったのだから。
今となっては、その行動自体が俺の気持ちを長く引きずっているものだったのだろう。
さらに、俺はあろうことか禁じ手にまで手を出した。
剣の理から外れた、殺戮の技。
『幻影飛ばし』だ。
殺すつもりで放った本気の一撃。
だが、奴はそれさえも初見で見破り、封じ込めた。
幻影を無視し、死角から迫る本物の刃を――あろうことか踏みつけて止めるなど。
飛来する矢を、自らの矢で射抜くよりも困難な芸当だ。
驚愕などという言葉では、到底足りない。
俺は、今日のこの光景を死ぬまで忘れることはないだろう。
もし言葉を尽くすなら、『神は実在した』。ただそれだけだ。
しかもだ、その神が、俺に剣の師となれと言ったのだ。
夢を見ているのかと思ったが、レヴォス様の言葉は、俺の魂の奥深くまで突き刺さった。
「死を恐れることなど、学ぶことの尊さに比べれば些末な問題だ」
「研鑽の果てに死ぬ方が、よほど価値がある」
……かつての愛弟子も、死の淵であんなにも清々しく笑っていた。あいつも、同じ景色を見ていたのだろうか。
そしてレヴォス様の剣に対しての姿勢だ。
レヴォス様は、剣は人を活かす糧にもなると言い切った。
自らを活かすために、俺の剣を、極致を教えろと。
俺の口は、脳が考えるより先に承諾の言葉を紡いでいた。
その日の夕刻まで、共に修行に励んだ。
この筋肉が悲鳴を上げ、汗が滴る感覚。
懐かしい。
俺は、俺自身が居るべき場所へ戻ってきたのだ。
□×月△〇日
久しぶりに日誌を開く。一年ぶりだろうか。
レヴォス様の傲慢な物言いは相変わらずだが、かつてのような無意味な暴力やいびりは、いつの間にか姿を消していた。
この一年、辞めていった使用人はただの一人もいない。
日々、レヴォス様と剣を交わし、技を練り上げる。
そこには言葉など必要なかった。
ただ純粋に、剣の理を語り合う。
俺が注ぎ込む情熱、培ってきた経験。
そのすべてを、レヴォス様は強欲なほどに吸い込み、自分のものにしていった。
かつて、これほど真摯に俺の言葉に耳を傾けた者がいただろうか。
かつて、これほど深く俺の剣を理解した者がいただろうか。
相手が14歳の子供だという事実に、今更ながら眩暈がする。
我が主の成長は、恐ろしいほどの速度だった。
さらに、俺の『幻影飛ばし』についても、驚くべき助言をいただいた。
ただの虚像に過ぎなかった俺の技に、主は魔力による実体化という解を与えたのだ。
幻影が実体を伴い、対象を断つ。
その究極の技を、レヴォス様も瞬く間に習得してしまった。
その底知れぬ才に、俺はもはや恐怖を通り越し、歓喜に震えるしかない。
そして今日。
技、力、そして精神のすべてにおいて、レヴォス様は俺を超えた。
もはや、俺が授けられるものは何一つ残っていない。
俺は、我が主のさらなる高みのために、帝都にいる高名な剣士を紹介しようと進言した。
だが、その時だ。
レヴォス様は、俺と共にこの道の先を見たいと言ってくださった。
そして、俺の生涯の宝となる言葉を口にされた。
こんな俺を、『友』だと言ってくれたのだ。
……胸が熱い。
これまでの泥を啜るような人生が、すべてこの瞬間のためにあったのだと報われた気がした。
俺は、もう迷わない。
この御方に、命の灯が消えるその時まで供をしよう。
この先にあるのが、覇道か、破滅か、あるいは見たこともない景色か。
だが、そんなことは、どうでもいい。
俺はレヴォス様の友であり、そして忠実なる臣下なのだから。
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