第23話 赫の魔女
帝国中央学園の学生寮に足を踏み入れた瞬間、俺を襲ったのは、吐き気を催すほどの過剰な装飾への嫌悪感だった。
広々としたリビングには、金糸の刺繍が施されたソファーが並び、風呂も台所も、一介の学生が使うにはあまりに分不相応な豪華さを誇っている。
複数の寝室は、主である学生と、その手足となる従者たちのために用意されたものだ。
「凄い……まるでお屋敷のようですね。ここが本当に学生の泊まる場所だなんて……」
メイドのコレットが目を輝かせ、浮き足立った様子で周囲を見渡している。
その指先は、高価そうな調度品に触れるのをためらうように震えていた。
「ああ。そもそも帝国中央学園は、基本的に貴族しか入学しない。所詮、ここは貴族の掃き溜めだからな。特権階級の腐りきった生活水準を維持するために、こうした無意味な様式が必要なのだろう」
寮というよりは、高級ホテルか最高級マンションのようだ。
だが、贅を尽くした調度品に囲まれても、微塵も心が安らがない。
むしろ、グリンベルの塔にある、あの手狭で質素な自室の方がよほど落ち着くというものだ。
(……俺は根が小市民なんだろうな。広すぎて逆に落ち着かないんだよ、こういう所は。前世の狭いワンルーム生活が染み付いてるせいだろうか……?)
特に、主寝室に鎮座する巨大なベッド。
一体、何人で寝ることを想定しているんだ。
学園の生徒に、恐竜でもいるのだろうか?
「……まったく、無駄な造りだな」
思わず本音が漏れる。
部屋の隅々にまでこれ見よがしに飾られた美術品。
俺が公爵家の嫡男だからこそ、他の貴族よりもさらに格上の部屋が割り振られたのだろう。
身分という名の透明な壁が、ここでも俺を特別視し、隔離しようとしている。
それがひどく不快だった。
俺は、この学園の事をよく知らないせいもある。
レヴォスとしての学園の知識はあるが、原作ゲーム『エル戦』のシナリオにこの学園は登場しないのだ。
何せ、未だゲームは始まってもいないのだから。
つまり、ここから先は俺の『やり込み知識』が通用しない未知の領域。
だからこそ、気をつけなければならない。
――――――
フォルテやコレットたちが荷解きを終えるのを待ち、俺は再び学園の門前へと馬車を呼び出させた。
「ではな、フォルテ。俺が不在の間、グリンベルを貴様に託す」
「承知いたしました、レヴォス様。お側を離れるのは断腸の思いですが……領地の安寧こそがレヴォス様のご希望とあらば、仕方のないことです。定期的に報告を携え、参上いたしますので」
フォルテが深く頭を下げ、その表情には俺から離れる寂しさと、任を全うしようとする固い決意が混在していた。
フォルテを領地へ帰すのは、開発の速度を落とさないため、そして俺との連絡線を確保するためだ。
だが、何よりもグリンベルの開発を任しているヒロンを暴走させないお目付け役でもある。
(今のヒロンくんの狂信っぷりは異常だからなぁ……目を離した隙に、俺の巨大な石像とか建て始めそうで本当に怖いんだよ……)
そんな内心の冷や汗を隠しつつ、フォルテを送り出した俺は、背後に控えるクロエとコレットに向き直った。
「これから学園生活が始まるが、いいか、できるだけ常に俺と行動を共にしろ。俺が居ない時は、二人で行動しろ」
「「 承知しました 」」
主人の留守を狙って従者に嫌がらせをするような手合いは、この腐りきった貴族社会には腐るほどいる。
二人を危険に晒すわけにはいかない。それが主人としての、俺の矜持だ。
「おい! 待ちやがれ、ムーングレイ!」
背後から突き刺さるような、ひどく不快な怒鳴り声。
振り返れば、そこには先ほど俺に一撃を喰らわされたケウダ・シークランスが、複数の従者を連れて立っていた。
その顔面は包帯でぐるぐる巻きにされ、無様な有様を晒している。
ケウダ・シークランス。
公爵家という虎の威を借るだけの雑魚。
原作『エル戦』においても、主人公と対峙することすらなく命を落とす、舞台装置にすらなれない男だ。
「ほう。随分と色男になったじゃないか。それとも、もう少しばかり顔の造形を変えてほしいのか?」
「ひ、ひぃっ!」
俺が氷のように冷たい視線を向け、一歩踏み出しただけで、ケウダは無様に腰を引いた。
そして、怯えを隠すように背後にいた一人の少女の影に隠れた。
その瞬間、俺の全身に電気のような衝撃が走った。
ケウダの背後にいたのは、俺と同じ『ラスボス候補』であり、シークランス家最大の脅威。
――ネーブ・シークランス。
ケウダの義理の妹であり、いずれはこの……愚かな義兄ケウダを殺害する少女だ。
脅えて震えているネーブは、俺より30センチは背が低く、まだ12歳ほどに見える。
「お、お義兄さま……わたくしはどうすれば……っ」
「お前が、あのムーングレイを殴れ! 命令だ!」
「そ、そんな……そんなこと、できません……」
ネーブはオタオタと手を彷徨わせ、消え入りそうな声で訴える。
彼女が着ている服はボロボロで、後ろの従者の方がまだマシな格好をしている。
原作通り、ネーブは養子という名の奴隷として扱われているのだ。
魔法の才能が開花するまで、この地獄を耐え抜き、やがてその怒りが爆発した時、ネーブはラスボス『赫の魔女』へと変貌する。
ネーブの髪の色が赤いため、その名がついた。
俺のように赤い髪は珍しく、どこに居ても目立つ。
そして赤という色を象徴するように、火炎魔法特化のボスでもある。
だが、今のネーブには、その猛々しさは微塵もない。
ただ怯える、哀れな子犬のようだった。
「この役立たずがっ!」
ボカッ!
鈍い音が響いた。
ケウダの大きな拳が、ネーブの小さな頭を容赦なく殴りつけたのだ。
「あぅっ!」
痛みに顔を歪め、両手で頭を押さえてうずくまるネーブ。
その瞳には涙が溜まり、震える体からは絶望が滲み出していた。
俺の胸の奥で、怒りが静かに、だが確実に沸騰した。
(俺への恨みを晴らすために、抵抗できない妹を道具にし、挙げ句に暴力を振るうだと……? 反吐が出るな……)
「……俺に恨みがあるなら、自分で来い。その図体は飾りか? 他人を痛めつけたところで、俺の髪の毛一本すら揺らせんぞ」
「うるせぇ! このっ、こいつもっ!」
ボカッ!
ケウダは苛立ちを爆発させ、再びネーブを殴りつけた。
「いたいっ……!」
またも、小さなネーブを殴るケウダ。
……ネーブは、こういう環境で育ったのか。
こういった地獄を何年も過ごし、心を壊され、絶望の果てに義兄ケウダを殺すのだろう。
だが、兄のケウダを殺させたらネーブの力を開花させることになる事に繋がるかもしれない。
面倒だが、ケウダを殺させるわけにはいかん。
「おい。その少女を殴るのをやめろ」
「あぁ!? テメェには関係ねぇだろうが! こいつは、こうでもしなきゃ動かねぇんだよ!」
逆上したケウダが、さらに大きな動作で拳を振り上げた。
――バシッ!
振り下ろされる寸前の拳を、俺の掌が完璧に受け止めた。
「なっ!? なんだよ!?」
「殴るなと言ったはずだ。……条件を出そう。今後、その少女に一切手を上げないと約束するなら、俺を一度だけ殴らせてやる」
「「「「 えっ!? 」」」」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
ケウダどころか、ネーブも、その従者も。
そしてクロエやコレットまでもが、驚愕に目を見開いている。
「て、てめぇ……正気か!? いいぜ、じゃあ、遠慮なく殴らせてもらおうじゃねぇか!」
「「 レヴォス様!? 」」
背後のクロエとコレットが慌てて詰め寄ろうとするのを、俺は片手で制した。
「下がっていろ。……こいつに一発殴らせるだけで話が済むなら、安いものだ」
ここでクロエとコレットが出て来ては面倒ごとが大きくなる。それは避けたい。
ケウダが狂喜に満ちた顔で、大きく右拳を引き絞る。
「てめぇが言ったんだからな!」
ケウダが拳を振り上げた。
俺は、微動だにせず、その場に立ち尽くした。
――ドガッ!
衝撃が、俺の右頬を襲った。
口の中に、鉄の味が広がる。
だが、俺は足を踏ん張り、倒れることだけは拒絶した。
……重みすらない。雑魚の攻撃とは、これほどまでに軽いものか。
体格差を考えれば吹き飛ばされてもおかしくないはずだが、憎悪だけで放たれた未熟な拳など、俺の肉体には蚊に刺された程度の影響しかなかった。
「ふ、ふん! ざまぁねえな! ムーングレイのガキが、口ほどにもねぇ!」
ケウダは勝ち誇ったように笑っている。
俺が怯んだと勘違いしているらしい。
これでいい。
ケウダもこれで満足し、少しでもネーブのラスボスへの覚醒を止めることが出来るのならば安いものだ。
だが、俺に駆け寄って来たのは――他ならぬネーブだった。
「だ、大丈夫ですか!? わたくしのせいで……!」
ネーブは震える手で、俺の口元に付いた血を、自分のボロボロの袖で必死に拭おうとする。
その瞳には、申し訳なさと困惑が入り混じっていた。
「おいネーブ! そいつに構うな!」
「で、でも……」
「俺の言うことが聞けねぇのか!」
再び、ケウダがネーブに手を上げようとする。
俺は、その心胆を叩き折るように低い声で、地を這うような咆哮を上げた。
「おいッ!!!」
俺の声に、ケウダの動きがピタリと止まり、その顔から血の気が引いていく。
「……約束は果たしてもらう。もし今後、その少女に指一本でも触れてみろ。その時は、貴様をこの世から抹消してやる。……わかったか?」
「くっ……! い、行くぞ! お前ら!」
逃げるように背を向け、去っていくケウダ。
ネーブも慌てて駆け出したが、一度だけ立ち止まり、俺の方を向いて深く深く頭を下げた。
その背中を見送りながら、俺は安堵の溜息を漏らす。
(ふぅ……これで少しはネーブの『ラスボス化』を抑えられたか。何より、あんな小さい子が理不尽に殴られるのは、見ていて胸糞が悪いからなぁ……)
ケウダたちが去るのを待って、呆然としているクロエとコレットに声をかけた。
「戻るぞ。こんな場所に長居は無用だ」
「「 はい! 」」
部屋に戻るやいなや、二人は泣きそうな顔で、次から次へと治療薬や冷却材を俺の顔に注ぎ込んできた。
「もういい、大したことはないと言っているだろう」
「しかし、レヴォス様。口元に傷が……血が付いておりましたので……」
クロエもコレットも手が震えている。
まるで、俺の命が尽きかけているかのような慌てようだった。
「ふん。こんなもの、傷のうちにも入らん」
俺にとって、この程度の痛みはどうでもいい。
それよりも深刻な懸念があった。
シークランス家は、腕利きの暗殺者を雇っていることで有名だ。
かつて俺を狙った連中もそうだ。
今日の屈辱を晴らすため、ケウダが今夜にでも暗殺者を差し向けてくる可能性は極めて高い。
今の学園は新入生の準備で、部外者の出入りが激しい。侵入は容易だ。
俺自身の身は問題ない。
だが、クロエとコレットは別だ。
二人の寝室は俺の隣だが、窓からの侵入や魔法による攻撃、爆薬などの遠隔攻撃を防ぐには、距離がありすぎる。
一瞬の遅れが命取りになる。
このケウダの仕打ちを見ていれば、二人ともそれくらいの危険性は分かるだろう。
……仕方が無い。
「……おい。クロエ、コレット」
「はいっ!?」
「な、なんでしょうか?!」
必死に手当てをしていた二人が、俺の声に顔を上げる。
「二人とも……今夜は、俺の寝室へ来い。要件は……言わなくても分かっているな?」
「「 え……? 」」
俺の言葉に、クロエとコレットの動きが止まる。
途端にその顔が、見る見るうちに耳元まで真っ赤に染まっていった。
(二人とも、やっぱり怖いんだろうな。暗殺者が来るかもしれないなんて、普通なら震えて眠れないはずだ。なら、俺が一番近くで守ってやるしかない!)
クロエとコレットは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
そして、凄まじい決意に満ちた瞳で俺を見据えた。
「「 承知……いたしました! 」」
その二人の声は、かつてないほど力強く熱が宿っていた。




