Epilogue 贖罪
初めて彼女を目にしたとき、世界がほんの一瞬、息を止めたように感じた。
少女の姿をしているのに、その顔立ちは精巧な人形のように整っていて、まるで彫刻家が時間をかけて作り上げたようだった。金の髪が風に溶けるように舞い、青い瞳は遠い湖水の深みを覗かせる。
見つめるものすべてを吸い込むような無垢な光に、理屈では説明できない衝撃が胸を貫いて、息を呑むしかなかった。
一緒に過ごすうちに、俺の心は次第に彼女で満たされていった。守らずにはいられないという気持ちが、次第に“恋”という名前を帯びていった。
傷つけるもの、苦しめるもの——すべてから彼女を遠ざけたかった。
胸の奥に温かく膨らむ感情と、同時に芽生えた独占的な欲求。誰にも渡したくない、誰にも触れさせたくない——そんな思いが、いつの間にか理性を押しのける勢いで心を満たしていった。
月日は無情に流れ、彼女は日に日に美しさを増していった。少女の面影を残していたあどけない笑顔も、やがて誰の目にも際立つ華となった。
やわらかな金の髪は光に揺れ、青い瞳は何かを求めるように光を宿して、端正な顔立ちは見る者の心を惹きつけずにはおかなかった。
俺はその変化を、恐怖と羨望を抱えながら見つめていた。無垢で、手を触れることさえためらうほどの美しさを持った彼女を、他の男の視線に晒すことなど、とても耐えられなかった。
弄ばれ、泣き、傷つくくらいなら——世間知らずのままでいてくれたほうが、どれほどいいだろう。
胸の奥では、いつか名実ともに隣に並ぶ日を夢見ていた。言葉にできるものではなかったけれど、胸の奥で強く、確かにそう決めていた。
その想いの裏には、激しい独占欲と焦燥が隠れていた。誰かが彼女に近づけば俺の心は瞬時にざわめき、理性を失いそうになった。
彼女のすべてを守りたくて、手放したくなくて、愛と独占が絡み合った複雑な感情に胸を焼かれながらも、それを必死で抑えつけた。
だが、運命は残酷だった。両親が亡くなったあの日から、世界は一変した。
身も心も疲弊し、眠れぬ夜が続く中で、ナターリヤの存在がただひたすらに俺を突き動かした。彼女を守らなければ——その思いが俺を支配し、気づけば何もかもを必死でこなしていた。すべては彼女を守るための義務であり、同時に自分を保つための拠り所でもあった。
しかし、相続に関する書類を確認していたとき、全ての秩序が音を立てて崩れ落ちた。両親は、ナターリヤが寄宿学校を卒業した年に、正式に彼女を養女として迎え入れていたのだ。書類の文字を追う手が震え、胸の奥に凍りつくような感覚が広がった。俺たちは「兄妹」であり、婚姻など到底許されない関係になっていた。
ナターリヤを妹として見たことなど一度もなかった。けれど現実が、俺の理性と欲望を同時に揺さぶった。彼女がいつか家を出て、他の男のものになる——そう考えるだけで、俺の理性は砂の城のように崩れ、夜ごとに暗い衝動が心を満たした。
そしてあの夜、彼女が部屋を訪れた日——抑えきれない感情に身を任せてしまった。
あの時の自分の行動は、言い訳の余地もない暴挙だった。
しかし、どうすれば彼女を手元に置いておけるのか——その答えを、狂おしいほど必死に求めた結果だった。嫌われ、拒絶される恐ろしさよりも、そばを離れてしまうことの恐怖の方が、遥かに心を押し潰していた。
娼婦のように扱われてもなお、ナターリヤは決して穢れなかった。
夜の底でも澄んだ瞳に刺し抜かれ、俺の手が彼女を汚していくたびに、彼女はより高潔に、より美しくなっていくようにさえ見えた。
こんなことを永遠に続けることはできない。日ごとに募る執着と独占は、彼女を苦しめ、そして自分を蝕む。どんなに心を閉ざしても、いつか自分も、彼女も、耐えられなくなる。その現実を、俺は痛いほど理解していた。
ある日を境に、ナターリヤは変わった。目を伏せ、問いかければ素直に応じ、俺の指示に逆らわなくなった。俺は、その変化が何を意味するのかすぐに理解した。心が折れたのではない。諦めたのでもない。
従順さの裏にあるのは、心を深く潜らせ、逃げ出す機をうかがっている目だ。
だから、逃してやろうと思った。こんな最低な男から離れて、幸せになってほしかった。俺には与えられない幸福を誰かが与えてくれるなら、それでいいと本気で思った。
だが、まさか——。
縁談を断った侯爵家の娘が、あんな手段を取るとは思ってもみなかった。
ナターリヤが逃げた先で、そこで出会った男と婚約していたことを、俺はその時初めて知った。俺の知らないところで、彼女はもう新しい未来を掴みかけていたのだ。
にもかかわらず、その芽は一通の手紙によって容赦なく踏みにじられた。あの女は、縁談を断った俺への腹いせと、己の退屈しのぎを同じ秤に乗せて楽しむような人間だった。
ナターリヤの心は、きっともう折れてしまったと思った。原因は明白だった。俺が全てを奪い、壊した。
幸せになってほしかったのに、その道を自ら塞いだのは、ほかならぬ俺自身だった。
再会の場で、俺は酷い言葉を吐いた。心からそう思っていたわけじゃない。憎ませたかったのだ。
憎しみを生きる糧にしてほしかった。怒りでもいい、俺への憎悪でもいい、それが君を生かすのなら。
彼女の手が俺の喉を掴み、冷たい力が加わった。視界が揺らぎ、肺が焼けるように苦しくなったとき、不思議と恐怖はなかった。
俺は兄だ。死ねば、財産はすべて妹である彼女のものになる。これは償いだった。彼女の未来を守れるのなら、命など惜しくはない。
視界の端が暗く塗りつぶされ、耳鳴りが遠くで響く。だが、やがて彼女の手から力が抜け、空気が一気に肺へと流れ込んだ。
焼けつくような喉の痛みとともに、俺はナターリヤが俺を殺せなかったことを知った。
帰ってきたナターリヤは、もう昔のようには笑わなくなった。
かつて、ほんの些細なことで声を立てて笑っていたあの姿は、もう記憶の中にしか存在しない。花の香りに頬をほころばせ、暖炉の火を前に目を細め、夕暮れの色に感嘆の息を漏らす——そんな無邪気な表情は、もう二度と見られなくなった。
俺は、できることをなんでもした。傷つけることしかしてこなかったこの手で、今度は彼女のために動くと決めた。
——許してくれ、ナターリヤ。
その言葉は、何度も喉の奥まで込み上げてきては、声にならずに飲み込まれていった。
許しを請うには、俺がやってきたことはあまりにも酷すぎた。彼女を痛めつけ、縛り、奪い、信頼という名の最後の拠り所まで踏みにじった。
罪が消えることはない。たとえ千回、万回と手を尽くしても、俺が刻みつけた傷は消えやしない。
赦される日など、訪れるはずもない。それでも、贖いのために手を伸ばすことをやめるわけにはいかなかった。
ある日の午後、窓辺に立つナターリヤの横顔を、遠くからそっと眺めていた。
金糸を束ねたような髪が傾きかけた陽を透かし、細やかな光の粒を宙に漂わせている。風はなく空気は静まり返っているのに、その髪だけが淡く震え、まるで見えない水面の上に浮かんでいるかのようだった。
そのときだった。
ふと長い睫毛がぱちりと揺れ、大きな青の瞳が見開かれる。まるで予期せぬ光景が遠くに現れたかのように、澄みきった湖水の色が一瞬にして揺らぎ、輝きを宿した。
そして、静かに——しかし確かに——涙がこぼれた。光をすくい上げたような透明な雫が、頬を伝い、首筋へと落ちてゆく。
俺は彼女の視線を追うように、窓の外へ目を向けた。
そこには、一人の影が立っていた。淡い陽に溶けそうな葦色の髪が、夏の終わりの風にそよぎ、細い光の帯を揺らしている。
旅の塵を纏いながらも、その眼差しはまっすぐこの屋敷を見上げていた。
次の瞬間、ナターリヤは息を呑む音さえ残さず、駆け出していた。
その姿を、俺はただ黙って見つめた。呼吸が浅くなるのを感じながら、胸の奥で何かが音を立ててほどけていく。
軽やかな足音が廊下に響き、空気を切り裂くように遠ざかる。
やがて、玄関の扉が外気を抱き込むように大きく開かれる音が、屋敷全体に反響した。
——ああ。長く待ち続けたその瞬間が、ようやく目の前にあった。
これが、俺の贖罪の日だ。