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第十四話 原罪

 その日、外は春の終わりを思わせる穏やかな光に満ちていた。

 アパートの小さなテーブルで裁縫道具を広げ、ヴェールの端に留め金を縫い付けながら、わたしは来たる式の光景を心の中に描いていた。

 港町の教会、海風に揺れる花々、イリヤさんの笑顔——そんな想像の中に沈んでいると、不意に硬い音が扉を叩いた。


 来客の予定はなく、誰だろう、と首をかしげながら立ち上がる。

 扉を開けると、そこに立っていたのはイリヤさんのご両親だった。


「どうされたんですか?」


 思わずそう声をかけると、お父様はゆっくりと手にしていた封筒をわたしの方へ差し出した。


「今朝、こんなものが家に届いてね」


 白い封筒は何度か折り目をつけられたように、ところどころ皺が寄っていた。受け取る指先に、嫌な予感がまとわりつく。

 封を開き、一枚の紙を広げた瞬間、吐き気が喉の奥を押し上げた。


 そこには、わたしの名と共に——かつて貴族の屋敷で囲われ、愛人として暮らしていたという内容が、行を埋め尽くすように書き連ねられていた。

 中には聞いたこともない出来事やありもしない関係も混じっていたけれど、同時に、確かに胸を抉るような“覚えのある”一片も含まれていた。


 その瞬間、わたしの胸の奥で、ある名がひそやかに震える。あの人だ、と。ルスランだ。血の気が引き、絶望の波が全身を覆った。

 すべてを知って、わたしの人生を壊そうとしている。そうとしか考えられなかった。

 過去の過ちも、誰にも話せず抱えてきた痛みも、すべてが今、白い紙の上でさらされ、光の中で暴かれてしまったのだ。

 紙面の黒い文字がじわじわと滲み、視界の端が暗く染まっていく。息が詰まり、何かを否定しようと口を開けても、声が出なかった。

 お母様はわたしを見つめ、ひとつ小さく息を吐いた。


「これは……ただの作り話だと、信じたいのよ」


 お父様が、重く口を開いた。深く刻まれた眉間の皺が、彼の言葉の重みを先に伝えてくる。


「だが、息子の将来を思えば……このような影が残るのはあまりに危うい」


 わたしの胸が、ゆっくりと締めつけられていく。言葉が何も出てこない。

 お父様は視線を外さず、低く、しかし決して揺らがない声で告げた。


「どうか、息子から身を引いてくれないか」


 その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちる音を、わたしははっきりと聞いた気がした。

 指先に力が入らず、紙はするりと床へ落ちた。そこに書かれていた、吐き気を催すほど細かく綴られた言葉——身に覚えのないでたらめと、忘れたくても忘れられない事実が、冷たい刃のように交互に胸を刺し続ける。

 拾おうとすれば、その紙に触れた瞬間、自分が何者なのかを突きつけられる気がして、どうしても手が動かなかった。

 呼吸の仕方さえ忘れてしまったかのように立ち尽くし、足元から広がる暗闇に、静かに呑み込まれていく感覚だけが全身を支配していた。




 次に扉を開けたとき、外ではしとしとと雨が降っていた。相変わらず、港町の空は移ろいやすい。

 細く長い雨脚が屋根や石畳を叩き、空気には濡れた土と若葉の匂いが満ちていた。廊下の向こうに立つ彼の姿は、淡い雨の幕の中に溶け込んで、それでもなおはっきりとわたしを見つめていた。


「……あんなもの、気にしなくていい」


 雨音の合間に届いた声はやわらかく、それでいて揺るぎなかった。幾度となく、わたしを救ってくれた愛おしい声。


「僕はあなたを愛しています。第一、証拠もない出まかせを信じるわけがない」


 胸の奥が波立ち、張り詰めた糸が切れそうになる。ほんの一瞬、このまま縋ってしまおうかと思った。

 だけど、その先に広がる未来を思い描くと、足はどうしても前へ出なかった。


 もし、あの手紙を送ったのがルスランなら——この人を、あの人の影に近づけてはいけない。何をされるかわからない。その危うさを、わたしは骨の髄まで知っている。

 それに、もう、嘘を重ねたまま隣に立つことはできなかった。

 あなたがいつもわたしにそうしてくれたように、わたしもあなたに誠実でありたい。


「ごめんなさい」


 雨粒が庇から落ち、細い糸のように地面へ吸い込まれていく。わたしの言葉も、ああして消えてしまえばいいのにと、ふと思った。


「あなたにだけは、知られたくなかった……」


 その瞬間、彼の表情から光がゆっくりと消えていった。

 信じられない、とも、受け入れたくない、ともつかない、あの深い絶望の色——それはわたしがこれから先、一生忘れられない傷になるだろうと思った。

 外では雨が降り続いている。雨粒は石畳に小さな輪を広げ、消えてはまた生まれていった。




 こうして、結婚は破談になってしまった。

 その瞬間から、わたしの足元は音もなく崩れ、どこまで落ちても底のない闇へと沈んでいくようだった。

 こうなってしまえば、もう受付の仕事に戻ることもできない。別の土地で新しい人生を始める——そんな力さえ、わたしには残っていなかった。

 行く先を変えても、きっとルスランの影は追ってくる。どこまでも、どこまでも。海を越えてさえ。


 初夏の陽射しの下、イリヤさんと並んで歩く自分の姿を何度も夢に見た。あのウェディングドレスを身に纏って、手をつなぎ笑い合い、将来を語り合う幸せな光景。

 それはあまりにも美しく、あまりにも遠くて、目が覚めるたびに現実に打ちひしがれた。


 あれから何日が経ったのかすらわからないまま、暗い部屋の中でわたしは膝を抱え、着るはずだった純白のウェディングドレスを胸に押し当てて泣いていた。

 柔らかな布の感触がわずかな慰めになるかと思ったけれど、現実の痛みは布の向こうにあって、温もりにすらなり得なかった。

 死んでしまいたい、と思った。この世界にわたしが生きる意味はきっと、もうどこにもない。死んでしまおうか、と頭の片隅で繰り返す。


 わたしがいったい、何をしたというのだろう。

 わたしはただ幸せを願っただけで、ただ愛する人の隣に立ちたかっただけなのに。

 それなのにわたしの存在が、無垢な愛情を汚してしまった。愛してくれる人の瞳に、わたしがもたらした苦しみの影を映してしまった。

 すべてを壊してしまったのは、わたし自身なのか、それとも運命なのか。答えはない。虚空に投げつけられた言葉はどこまでも消えずに胸に残り、痛みを増すばかりだった。


 そんなとき、不意に扉を叩く鋭い音が響いた。かすかなノックではなく、重みのある力で、部屋全体に響き渡る音だった。

 思わず息を止め、震える手でドレスを抱きしめ直す。誰——。声に出すこともできず、ただ耳を澄ませた。


 次の瞬間、ドアノブがゆっくりと回る音がした。鍵をかけ忘れていたことに、血の気が引く。

 胸の奥で心臓が強く打ち、頭の中で何も考えられなくなった。

 まさか。まさか。まさか、あの人が。ルスラン——その名を思い浮かべるだけで、呼吸さえままならなくなる。

 息を整えようとするけれど、涙と嗚咽で声は出ず、指先はドレスの布を握る力で痺れてしまう。

 鼓動が耳に響き、冷たい汗が背中を伝う。心臓が跳ね上がり、全身の毛穴が凍るような感覚に包まれた。逃げたい、消えたい、でも足が動かない。

 ドレスの白さがわずかに闇の中で浮かび、泣き顔を覆う。

 薄暗い部屋の角に、影が滑り込む——わたしは布を握りしめたまま身を固くし、息を潜めるしかなかった。

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