第十三話 幸福な日々
それから数日後、わたしは港町の一角にある古い建物の二階、その法律事務所を訪れていた。階段を上がると、木製の扉の上に金文字で看板が掲げられている。
扉を開けると、木と紙の匂いが入り混じった落ち着いた空気が迎えてくれた。
代表の弁護士は恰幅のいい、白髪交じりの男性だった。
イリヤさんに紹介されると、わたしの名前と簡単な経歴を聞き、「人柄が大事だ」と言って笑みを浮かべてくれた。
面接というよりは世間話のようなやり取りのあと、彼は机の引き出しから鍵を取り出し、わたしの手にそっと置いた。
「明日から来なさい」
ただそれだけの言葉が、長く乾ききっていた心に、ひとしずくの水を落としていく。
居場所なんてもうどこにもないと思っていたのに、扉を開けてくれる人がいた。
翌朝から、わたしは受付の席に座った。
木枠の窓の外では港の風が旗を揺らし、遠くで船の汽笛が低く響く。
最初は手も心もぎこちなく、手紙を封筒に入れるだけで何度も確認をした。けれどここの人たちは、急かすでもなく、優しい声でやり方を教えてくれる。
仕事を覚えるほど、わたしの毎日は形を持ち始めた。朝の通勤路、事務所の窓から見える港の光、昼下がりの書類の匂い。何もなかった日々に、少しずつ色が戻っていくのを感じた。
イリヤさんは、いつも変わらない穏やかさで接してくれた。
お昼時になると、「外の空気を吸いましょう」と声をかけ、近くのカフェに連れ出してくれる。仕事終わりにも、港沿いの食堂や小さなレストランに案内してくれた。
温かい煮込み料理を味わったり、一つのパイを二人で分け合ったり。そういう時間の中で、わたしは彼の人柄を少しずつ知っていった。
彼はいつも真っすぐで誠実な人だった。話を聞くときは最後まで耳を傾け、嘘のない目でこちらを見てくれる。
わたしがまだ慣れない仕事に戸惑っているときも、根気強く教えてくれて、どんな小さな疑問も決して面倒くさそうな顔は見せなかった。
季節がめぐり、海の匂いに混じって秋の冷たさが漂いはじめた頃、わたしたちは自然と恋仲になった。
ある日、港を歩いていて、ふと彼の手がわたしの手に重なり、そのまま離れなかった。
手と手が触れ合ったまま、わたしは言葉を探すより先に、胸の奥がじわりと熱くなっていくのを感じた。イリヤさんの視線がそっとわたしの顔を捉え、その目に宿る優しさにふいに息を呑んだ。
秋の名残が港を黄金色に染める頃、仕事終わりにイリヤさんと並んで帰る道は、落ち葉の絨毯のようだった。
海から吹く風に葉が舞い上がり、冷たい空気から守るように彼がわたしの肩に外套をかけてくれた。
ある夕暮れには市場で栗を買って、その場で紙袋から分け合って食べた。手のひらを温める熱さと甘い香りが、胸にまで広がっていくようだった。
初めて雪が降った日、わたしは傘を持ってくるのを忘れてしまった。帰り道、彼は自分の傘にわたしを入れてくれて、肩がふれあう距離で並んで歩いた。
本格的な冬が訪れ、港の近くでクリスマス市が開かれた。屋台には温かいワインや焼き菓子、編み物のマフラーが並び、ランタンが波間に揺れていた。わたしが赤い毛糸の手袋を手に取ると、イリヤさんは「あなたに似合う」といって贈ってくれた。
寒さが深まるとともに、わたしたちの関係も一層強く結ばれていった。
冬の終わりのある日、海辺の静かな小道をふたりで歩いていた。波の音が穏やかに響き、冷たく澄んだ空気が頬を撫でる。夕暮れの淡い光が水平線を染めて、世界が金色に包まれていた。
イリヤさんが突然立ち止まり、わたしの前に膝をついた。波が砂浜を洗う音だけが、冷たい空気の中でやわらかく響く。
「どうか、この先の人生を共に歩んでくれませんか」
胸が激しく高鳴り、言葉を飲み込みそうになる。わたしは涙が溢れそうになりながら、ゆっくりとうなずいた。
「はい」
胸の奥に溢れ出した感情がこらえきれず、頬を伝う涙に変わった。心の底から幸せが染み渡り、もうこれ以上何も望まないと思った。
「……わたしでよければ、ずっとそばにいてください」
そう告げると、彼はそっとわたしを抱きしめた。凍てつく冬の風の中で、初めての口づけを交わした。唇に触れた温かさは、冬の冷え切った空気をすべて溶かし去ってしまうかのようだった。
イリヤさんは少し照れくさそうに笑って言った。
「キスをしたのは初めてだ」
わたしも、あなたが初めてがよかった。そうしたら、きっともっとずっと素敵だった。でもそんなこと絶対に知られたくなくて、ただ顔を少し赤らめて、にっこりと微笑みながら言った。
「わたしも」
わたしの言葉に、彼はほっとしたように目を細め、もう一度ぎゅっと抱きしめてくれた。
肩越しに見える海は冬の夕暮れの色を帯び、鉛色の波間に薄く光が落ちていた。
潮の匂いと、彼のコートから漂う香りが入り混じり、わたしはその瞬間を、人生で一番幸福な日だと思った。
それからわたしたちは正式に婚約をした。式は初夏のころに挙げることに決まった。
昔、どこかで聞いたことがある。六月に結婚する花嫁は幸せになれる、という言い伝え。わたしも、そうなれるのだろうか。
義理の父母となるイリヤさんのご両親は、とても優しい方たちだった。
お父様は同じく弁護士を務めていらっしゃって、子どもの頃は厳しく育てられたと前に聞いたことがあったから、挨拶の日はどうしても緊張してしまった。
けれどお二人はわたしを快く受け入れてくださって、両親が亡くなっていて身寄りがないことを話しても、変わらず穏やかに微笑み返してくれた。
「これからは、私たちの娘になるのだから」
言葉は春の光のようにわたしの心に沁みわたり、希望の種のようなものが芽吹くのを感じた。
仕事場の人たちも、わたしたちの婚約を知ると口々に祝福してくれた。暖かな声が、過去の孤独や不安をかき消してくれる。
お昼休みにはご近所のお花屋さんが花束を持ってきてくれたり、同僚が「式当日は泣くかもしれない」と笑って言ったり。
毎日がたくさんの祝福で満ちていた。いつか遠い昔に夢見た「普通の幸せ」が、いま確かに手の届く場所にあるのだと、胸がじわりと震えた。
しばらくして、わたしのもとに大きな箱が届けられた。
箱を開けた瞬間、ふわりと空気が香りを含んだようにやわらぎ、中から純白のウェディングドレスと、繊細なレースのヴェールが姿を現した。
陽の光を受けるたび、布は雪のように澄み切った輝きを放ち、その縁を縫う糸は細やかに光を宿していた。
持参金も、式の支度も何一つ用意できないわたしに、彼のご両親が仕立ててくださったものだと知ったとき、胸の奥が熱く震えた。
指先で布をそっと持ち上げると、その重みさえも幸福そのもののように感じられた。
——この姿を、お母さんとお父さんに見せたかった。
おじさまとおばさまにも。
きっと、みんな喜んでくれただろう。微笑みながら、わたしの手を握ってくれただろう。そう思うと胸の奥からこみ上げてくるものがあって、ヴェールを胸に抱いて、ひとり静かに涙を落とした。