第十二話 雨宿り
顔を深く覆い、わたしはただ歩いた。
遠く、もっと遠く——夜の闇がわたしを抱きかかえるように包み、その中をひたすら進んだ。背後で屋敷は沈黙し、あの部屋も、あの寝息も、もう耳に届かない。
朝が白んでくるころ、わたしは小さな駅にたどり着いた。待合所の端に腰を下ろし、指先で切符を握りしめる。行き先は、どこか遠く。
どこで降りるかも決めないまま、鉄の車輪が刻む音に身を委ねた。窓の外では夏咲きの野が流れていき、やがてそれが山に変わり、町に変わり、また野へ戻る。
持ち出した小さな装飾品たちは、布袋の底で静かに触れ合っている。あるものは銀の細工、あるものは古いガラスのブローチ。旅の途中の町ごとに、そのいくつかを売ってはわずかな金銭に変えた。
いくつもの夜を越えてついにたどり着いたのは、海の見える古い街だった。
石畳は長い年月を経て角が丸く、潮風は路地の奥まで入り込み、家々の壁に塩の匂いを染み込ませている。港には帆船が並び、マストの間を渡るロープが海鳥の影とともに揺れていた。
——ここなら、あの人の目も届かない。
人波に紛れて駅舎を出て、そう自分に言い聞かせながらも、足音が背後から追ってくるような気がして何度も振り返ってしまう。
宿は港から少し離れた古びた下宿屋を選んだ。装飾品を売って得たお金で、数日分の部屋代を先に払う。部屋は狭く、窓の外には瓦屋根と青空が見えるだけだったけれど、鍵が内側からかけられることが何よりの安らぎだった。
それからわたしは仕事を探し始めた。港に近い市場、喫茶店、仕立て屋。けれど、どこも既に人手が足りているか、あるいは身元を問われて躊躇せざるを得なかった。
港町の空模様は移ろいやすかった。
朝、窓辺から見た海は春の陽射しを受けて銀色に輝き、遠くの水平線まで晴れ渡っていたはずなのに、昼を少し過ぎた頃から潮の匂いを含んだ風が湿り気を帯び、雲が足早に集まってきた。
まるで気まぐれな誰かの心のように、市場の通りを歩いている間に空は一面の鉛色へと変わってしまう。
最初の一滴が頬に落ちたかと思うと、すぐに叩きつけるような雨音が頭上から降り注いだ。港町の雨は容赦がない。
粒は大きく、風と混じって斜めに吹き付ける。髪は瞬く間に重くなり、外套の肩口まで湿っていく。
慌てて雨宿りできそうな軒を探しながら路地を曲がったとき、向かいから駆けてきた人影と正面からぶつかってしまった。
「あっ——」
衝撃と同時に、相手が抱えていた鞄が地に落ち、中から白い紙束が雨の中へ散らばった。
雨粒がインクを滲ませ、紙の端が波打っていく。わたしは反射的にしゃがみ込み、両手でそれらをかき集めた。
「ご、ごめんなさい!」
息を切らしながら声を出すと、目の前の男性も同じようにしゃがみ、濡れた書類を抱え込むように拾っていた。
「いえ、僕が前を見ていなくて……!」
彼の手とわたしの手が、一枚の紙の上でぶつかる。互いに軽く息を呑み、同時に引っ込めた。
降り続く雨が肩や髪を重くし、視界の端では水溜まりに波紋が広がっている。
雨が髪を頬に貼りつけ、紙を持つ指先は冷たく、時折風にさらわれそうになる書類を追いかけるため、膝を濡らして石畳に手をつく。
すべてを鞄に戻し、ようやく顔を上げたとき——視線がぶつかった。
葦のような淡い亜麻色の髪が、濡れた額に貼りつき、雨粒を光らせている。雨空を閉じ込めたように深い色を湛えた瞳が、じっとこちらを見つめていた。
わたしは息を飲み、その一瞬の沈黙に耐えきれずに「わたしはこれで」と小さく告げて立ち上がる。
歩き出そうとした瞬間、背後から呼び止める声が響いた。
「あの!」
振り返ると、彼は鞄を抱えたまま少し息を弾ませていた。
「よろしければ……お詫びにお茶でも。あ、雨宿りにもなりますし」
後半は、ほんのわずかに急いで付け足したような響きだった。
雨はまだ止む気配を見せず、路地の向こうは白い靄に包まれ、行き交う人々も足早に軒下へと消えていく。
気がつくと、わたしは小さく頷いていた。 彼の誘いに応じたのは、雨に困っていたから——それだけ、と自分に言い聞かせながら。
カフェの扉を押し開けると、頭上で小さな鐘が澄んだ音を立てた。
中は外の荒れた空模様が嘘のように穏やかで、磨き込まれた木の床からはほのかに甘い香りが漂っている。壁際のランプが柔らかく灯り、雨に濡れた空気がコーヒーの香りに溶けていく。
向かいに座った彼は、濡れた前髪を手櫛で払ってから、落ち着いた声で言った。
「イリヤ・ヴァシレフスキーと申します。近くの法律事務所で弁護士をしているんです」
そう言って、胸ポケットから取り出した名刺をわたしのほうへ滑らせる。名刺の端には細かな雨のしずくがついていて、それが一瞬きらりと光った。
「お詫びと言ってはなんですが……困ったことがあれば、なんでも相談しに来てください」
その言葉に、わたしは少し首をかしげる。弁護士先生にお世話になるようなことが、この先あるのかしら。
けれど——困っている、といえば、まさに今だった。
ここに来てからずっと仕事は見つからず、宿代や食費はじわじわと減っていく。これ以上長くはもたないだろう。
そう思った瞬間、胸の奥で渦巻いていた思いが、意識するより早く唇から零れ落ちていた。
「……仕事」
彼が小さく瞬きをし、「え?」と問い返す。
「いえ、その……」と言葉を濁したものの、わたしは沈黙に耐えきれず、視線を伏せたまま続けてしまった。
「仕事を探していて……でも、なかなか見つからなくて」
自分でも、どうして見知らぬ人にこんなことを打ち明けているのかわからなかった。
けれど、窓を叩く雨音と、ほのかなコーヒーの香りに包まれたこの空間が、わたしの中の警戒心を溶かしてしまったのだ。
まるで、外の荒れた天気から守られるこの一角だけが、わたしの本音を安全に外へ出せる場所になってしまったみたいに。
わたしの声はかすかに震えていたけれど、イリヤさんは真面目な表情で耳を傾けていた。その沈黙が責めるものでも哀れむものでもないことに、少しだけ救われる気がした。
彼はしばらく考えるように視線を落とし、カップの持ち手を指先でなぞってから、ふっと小さく笑った。
「でしたら、お役に立てるかもしれません」
わたしは一瞬、耳を疑った。思わず何度も瞬きをする。
「うちの事務所で、受付を探しているんです。来客の対応や書類の整理ができる方を」
そう言って、彼は真剣な眼差しでわたしを見つめた。
「もしよければ、僕から話を通します」
雨音が一瞬遠のいたように感じた。
胸の奥に、かすかな熱が広がる。これまで閉ざされていた扉が、音もなく開く瞬間を、まさに今迎えているようだった。
「……本当に、そんなことをしていただけるんですか?」
「もちろん。今日出会ったのも何かの縁ですから」
イリヤさんは穏やかな笑みを浮かべ、あくまで自然な調子で答える。
わたしは指先で名刺の角を撫でながら、小さく息を吸い込んだ。
——希望の光って、こういうふうに射し込んでくるものなのだろうか。
長く暗い場所を歩き続けて、もう光なんて忘れてしまったと思っていたのに。