第十一話 逃避
ルスランは時折、わたしを社交の場に連れ出した。わたしが表に姿を見せないことで、不審に思われるのを避けるためだろう。
夜会の一幕、わたしは重厚な扉のすぐ脇に立ち、淡く揺れる燭台の光が照らす絨毯を見下ろしていた。
周囲の声がざわめき、華やかな装いをまとった男女が笑い合い、会話を交わす。
しかしその賑わいの中にあって、わたしの耳は無意識に遠くから漏れ聞こえる言葉に敏感に反応してしまった。
「聞いたか? オルロフ伯爵とエリン侯爵令嬢に縁談が持ち上がっているらしい」
思わず目を見張る。耳に届いたその言葉は、ワルツの旋律よりも、シャンデリアの光よりも鮮明だった。
「エリン侯爵夫妻も大いに乗り気だそうだ。すぐに正式に纏まるんじゃないか?」
心臓の奥がひどく跳ね、それから、全身の血が急速に冷えていく。胸の奥がざわつき、思わず指先が震える。わたしはその場に固まってしまいそうだった。
——ルスランに、縁談。
何を感じているのか、自分でもわからない。
これは怒りなのか。わたしを屋敷に閉じ込め、手紙すら検閲し、好き勝手に扱ってきた人間が、人並みの幸福を手に入れようとしていることへの、どうしようもない怒りなのか。
それとも、胸の奥で蠢くのは別の感情なのか。奪われるような、置き去りにされるような、どうしようもない喪失感。
噂話の声は幾重にも重なり合って、わたしはこの豪華な広間の片隅で、まるで見えない鎖に繋がれた鳥のようにじっと動けずにいた。
「そういえば……伯爵には養妹がいなかったか?」
「ああ、いたな。……とびきり美しい娘だったが——養妹とは名ばかりで、結局のところはただの情婦だろう」
その囁きは小さな刃のようにわたしの胸を刺した。声は遠く、しかし確かにわたしの鼓動と共鳴して胸に響き渡る。
確かに今のわたしは、わたし自身でも認めざるを得ないほどに、その言葉の通りかもしれない。
広い屋敷で贅を凝らした貢ぎ物を与えられ、気まぐれに体を暴かれる。それを情婦と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうと、自嘲の念が胸を満たしていく。
「血のつながらぬ女が同じ屋敷にいるとなれば、エリン侯爵令嬢が快く思うはずがない」
追い討ちのように、さらに冷たい言葉が落ちる。人々の声は風のようにわたしの頬を撫で、心の奥深くまで冷え込ませる。
わたしは立っているだけで息が詰まりそうだった。笑顔で杯を交わす人々の輪の中に自分がいることが急に耐えられなくなり、そっと視線を伏せる。
足元の絨毯に刺繍された金糸の模様が、やけに眩しく目に刺さる。ワインの香りや香水の甘い匂いが混じり合い息苦しさが増して、気づけば足は無意識に扉の方へと向かっていた。
厚い扉を押し開けると、外気が頬に触れた。夜気は薄く冷たく、喧噪から一歩離れただけで世界が変わったように静かだった。
石畳を伝って歩き、月明かりの中、庭の奥へと進む。誰もいない片隅の影の濃い場所まで来ると、わたしはようやく立ち止まった。遠くから漏れ聞こえる音楽と笑い声は、もう別世界の出来事のように淡く響く。
満開の花々が夜風に揺れ、その香りがほのかに漂ってきた。甘い芳香に、ふと遠い日々が胸をよぎる。
リフカの川辺——美しい湖へつながる水面がきらめき、風に金色の草が揺れていた。ルスランと並んで石を投げ、水面に小さな輪がいくつも広がっていく。
未来につらいことは何ひとつないと、手放しに信じていたあの頃。陽の光は惜しみなく降り注ぎ、世界はわたしたちを祝福してくれているように思えた。
だけどいつからか、世界はわたしに牙を剥くようになり、優しさは影を潜めてしまった。
おじさまとおばさまが亡くなってからというもの、わたしの毎日はつらいことばかりだった。逃げ場のない日々の中で、わたしは籠の底で羽を畳んだまま動けなくなっている。
もう、どこにいても、わたしには居場所はないのかもしれない。
これからどこへ向かえばいいのだろう。わたしが求められる場所はどこにあるのか。何を望み、何を手放せば、ほんの少しでも人生を愛せるのだろう。
ここは、わたしがいるべき場所じゃない。
この煌びやかな牢獄は、わたしのためのものではない。
その言葉は一度わたしの心の表面に浮かび上がった途端、白い雪に落ちた血のように染み渡って、もう拭い去ることはできなかった。
帰りの馬車の中、わたしは暗い窓に映る自分をじっと見つめていた。揺れる街頭の明かりが、幽霊のような顔を淡く照らしては消す。
翌日からわたしは準備を始めた。誰にも悟られないよう、何気ない仕草の中にすべてを紛れ込ませながら。
衣服は嵩張るので最小限、夜の冷えをしのげるものだけを選び、丁寧に畳んで奥に隠す。貴金属は持ち出せばすぐに足がつく——だから代わりに、小さな銀のブローチや指先に収まるほどの細かい装飾品を、柔らかな布で包み袋に収めた。
ルスランが部屋を訪れるたび、わたしはこれまでの硬い態度や露骨な拒絶を捨て、従順な仮面を被った。
話しかけられれば微笑みを返し、腕を取られれば逃げずにその温もりを受け入れる。自ら檻の中で翼を畳んで見せることで、彼の疑いを溶かしきるために。
日々の中で、わたしは隠れて観察を続けた。
鍵がいつ誰の手に渡るのか。使用人たちがどう配置され、どの時間にどの廊下を通るのか。廊下の床板の中で、どこがわずかに軋むのか。
メイドや執事たちが深夜に動くのは、暖炉の火の調整や、朝食の仕込みのためだけだと知る。足音の数は少なく、やがて階下で消えていく。そして、廊下が最も静まり返るのは午前二時——その一瞬の、闇がいっそう濃くなる時刻をわたしは頭の中で何度もなぞった。
その夜も、わたしはいつものように従順を装った。
ルスランが伸ばした手が頬を撫で、その指先がわずかに熱を帯びているのを感じながら、わたしは心の奥底で冷たく数を数える。
——あと少し。もう少し。
こんなことには決して慣れたくなかったけど、慣れてしまっていた。
肌を這う感触や、耳元に落ちる低い声に、心を切り離す術ばかりが上手くなっていく自分が、何よりも嫌だった。
外では風が木の枝をかすかに揺らしている。闇の中で枝と枝が触れ合う音が、鈍く乾いた拍子を刻むたび、わたしの胸の奥で別の鼓動が早まる。
やがて、彼の呼吸が肩にかかるのを感じた。最初は規則的な吐息、次第にその間隔が長く、深くなっていく。
ぬくもりを伝えていた手が、わたしの体からゆっくりと離れる。
わたしはゆっくりと上体を起こした。床板に足を下ろす瞬間、わずかな軋みが耳に届く。思わず息を止めて背後を振り返るが、ルスランは微動だにせず、安らかな寝顔を闇に浮かべている。
布袋を手に取り、そっと部屋を出る。廊下の空気はひやりとしていて、肌の上をすべるように通り過ぎていく。
遠くの暖炉の火の名残が、壁にうっすらと赤い揺らめきを投げていた。
階段を降り、鍵のある場所へ。手探りで金属の感触を確かめると、その冷たさが指先から腕へと走り、背筋を緊張させる。
扉の向こうは夜の匂い。湿った土と枯葉、そして冷えた空気が一度に押し寄せる。わたしは肩を抱き、月の光を避けながら庭の影を抜けた。
もう振り返らない。一歩ごとに、鳥籠の向こうの世界が近づいてくる。