第十話 籠の鳥、野の鳥
その日、外は鈍い雲に覆われていて、粉をまくような細かい雪が音もなく降っていた。わたしは廊下を歩いていて、吹き込む冷気に何となく玄関先のほうへ視線を向けた。
ちょうどメイドのひとりが扉を開けて、外套の裾を揺らしながら郵便配達員から手紙の束を受け取っているのが目に入る。
白や茶色の封筒がいくつも重なっていたけれど、その中に、すぐに目を引く封筒があった。
優しい水色の紙に花模様が細く印刷され、封の部分には見慣れた丸みを帯びた筆跡が走っている。間違いない。寄宿学校時代の友人からだった。
胸の奥がふっと温かくなって、気づけばわたしは玄関の方へと足を運んでいた。
「それ、わたし宛ての……」
声をかけながら、自然に手を伸ばす。
しかしメイドはわたしの指先より早くその束を胸に抱え、少し微笑んで落ち着いた口調で言った。
「いえ、こちらのお手紙は、先に旦那様にお届けいたします」
ごく当たり前のことを告げるように、彼女は言った。まるで、わたしがそれを知っていて当然だと言わんばかりに。けれど、わたしの胸には理解ではなく疑問が走った。
「……どういうこと?」
その瞬間、メイドの表情にわずかな乱れが生じた。
眉がほんの少し上がり、口がためらうように開いて、そして閉じる。落ち着いていた声色が、急に細くなる。
「あの……ナターリヤ様へのお手紙は、まず旦那様のお部屋にお通しするように、とのご指示で……わたくし、そのように承っておりましたので……」
彼女の困惑が、玄関先の冷えた空気の中で重く漂う。
わたしは状況をなんら理解できなかった。混乱と戸惑いが胸を押し潰し、視界がぼやけてゆく。
どうして? 何のために? 疑問は次々と浮かんでくるのに、答えに繋がる糸口はまるで見つからない。
まさか——これまで全部、わたしに届いた手紙は、ルスランの元へ運ばれていたというのか。
脳裏に、寄宿学校の友人たちから届いた手紙が浮かぶ。それに——あの青年からのお茶の誘いも。彼の、不器用な文字で綴られた「お会いできたら嬉しい」という一文も。
雪の冷たさが足首から這い上がってくるような心地で、わたしはその場から動けなくなった。
その夜、玄関の向こうから響く足音に気がついたとき、わたしは震えながらもその先に歩み寄った。
扉が開き、外套を脱ぎながらルスランが入ってくる。その姿を認めた瞬間、わたしは声を振り絞った。
「……わたしの手紙を、勝手に読んだの?」
声は震えていたけれど、はっきりとした響きで彼に届いたはずだった。
しかしルスランは驚いた様子もなく、淡々とした声で答えた。
「危ない誘いがあれば困るだろう。俺は君の後見人なんだから」
その言葉は、まるで冷たい鉛の塊のようにわたしの胸に落ちて、音もなく潰れていった。
無機質で感情のかけらもないその響きは、わたしが必死に紡ごうとした言葉のひとつひとつを踏みつけにして、消し去ってしまうように思える。
どうして——どうしてわたしの話を聞いてくれないの?
どんなに言葉を並べても、どんなに声を震わせても、あなたの耳には届かないの?
そんな問いが胸の奥でうずき始める。小さな痛みがじわじわと広がり、次第に押しつぶされそうな絶望となってわたしを包み込んだ。
「ルスラン——」
それでも続けようと口を開く。しかし言葉を紡ごうとした瞬間、彼の口から予想もしなかった言葉が零れた。
「もうルーシャとは呼んでくれないのか」
その言葉に、わたしは目を見開く。何が起きたのかわからなくて、理解が追いつかなかった。
この人は、何を言っているのだろう。わたしの言葉に耳を傾けるどころか、まるで嘲笑うかのように呼び名を引き合いに出す。
胸の中で怒りと屈辱がたちまち沸き上がり、熱い波となって体を満たした。
わたしにあんなことをしておいて、よくもそんなふうに。よくも、よくも——わたしを、馬鹿にしないでよ。
わたしは怒りに震える手を握りしめて、ルスランを睨みつけた。けれど、目の前にある彼の黒い瞳を見た瞬間、恐怖に胸が凍りつく。
くり返される苦しみの夜を思い出す。底知れぬ闇が広がり、わたしを飲み込もうとするような絶望が蠢いていた。
何も言えなかった。唇を動かそうとしても、声が出ない。
——わたしは視線を逸らし、孤独と恐怖に押しつぶされそうになりながら、暗い屋敷の奥へと身を隠すことしかできなかった。
それから、ルスランは目に見えてわたしの外出を制限するようになった。
以前よりも頻繁に、庭に出ることさえ許されない日が増えていった。窓の外に広がる世界は遠くなり、季節の移ろいさえもわたしの肌には届かない。
その代わりとでも言うように、ルスランは様々な贈り物をわたしに届けさせた。上質な刺繍糸や流行の本、香り豊かな花束や美しい調度品の数々。
けれどどんなに美しく輝く宝石も、華やかな贈り物も、わたしの凍り付いた心を溶かすことはできなかった。
檻のようにわたしを取り囲む贈り物を目にして、わたしはようやく理解した。彼は自分の都合で作り上げたこの狭い世界に、わたしを閉じ込めようとしているのだ。
春の近づいた、柔らかな昼下がりのことだった。まだ冬の冷たさが残る空気の中に、ほんの少しだけ暖かな陽射しが差し込み、淡い光の粒が部屋の隅々までそっと溶け込んでいた。
その日、わたしの部屋にひときわ大きな箱が届けられた。
重厚な木箱の蓋を開けると、そこにはまるで宝石のように輝く金色の鳥籠が収められていた。
鳥籠の中では美しい小夜啼鳥が羽を震わせていた。細い首をくるりと回しながら、澄んだ瞳でわたしを見つめ返してくる。
そのときふと、いつか聞いた御伽話が頭に浮かぶ。小夜啼鳥に変えられ、金色の鳥籠に閉じ込められていた娘。
もしわたしが彼女だとしたら、わたしの赤い花はどこにあるのだろう。わたしを助けてくれる人はどこにいるの。
この美しい小鳥は自由なのか、それとも囚われの身なのか。
窓の外に広がる世界を知っているのだろうか、それとも知らずに、ただこの金色の檻の中に閉ざされているだけなのだろうか。
そんな思いに囚われているうちに、窓辺をそよぐ風がカーテンを優しく揺らした。
風はほんのわずかな力を帯びていて、そのせいか、鳥籠の扉がいつの間にか少しだけ開いていたのだろう。
気づかぬままわたしは、その扉の隙間から小鳥がふわりと羽ばたくのを目にした。
小夜啼鳥は躊躇いなく窓の外へと飛び去った。羽の一枚一枚が太陽の光を受けて煌めき、風に乗って青空へと溶けていく。わたしはただ目を見開いてその姿を追った。
ほんの一瞬、胸に小さな痛みが走る。あの小鳥を逃してしまったと思ったのだ。けれどすぐに気づいた。小鳥は束縛から解き放たれ、いままさに自由を手に入れたのだと。
だが、その幸福はあまりにも短く終わった。空のどこからか、鋭く重い影がゆっくりと降りてきた。
大きな翼をひろげた鷲が音もなく小鳥に迫る。鋭い鉤爪が羽ばたく小さな命を捉え、一瞬にしてその自由を奪ってしまった。
「あ……!」
わたしの目の前で、小夜啼鳥は大空へ飛び去ることなく、力なく連れ去られてしまった。わたしの瞳に映るのは、もはや戻らぬ小さな命の残像だけだった。
冷たい鋭い翼に包まれて、空に消えた小夜啼鳥の姿にわたしは思う。
籠の中にいれば、少なくとも生きていられたのかもしれない——美しい金色の檻は、自由を奪う牢獄であると同時に、厳しい世界から守ってくれる温かな殻でもあったのだろうか。
閉じ込められたまま、外の荒波にさらされずに、日々を穏やかに過ごすこともできたのではないか。羽ばたくことをあきらめて、囚われたままでいることの方が——。
けれど、わたしの心はそうは言わせてはくれなかった。
囚われながらも、深く刻み込まれた自由への渇望は、鳥籠の扉の隙間からこぼれ落ちる光のように、決して消え去ることはなかったのだ。
生きながら死んでいるような、そんな魂の叫びが胸の奥で震え続けている。
わたしはどこへ向かえばいいのだろう。誰が、この儚くて壊れやすいわたしの羽根を、再びそっと包み込み、守ってくれるのだろう。