第一話 孤独な少女
その日の空はとても遠くて、泣きたいくらいきれいな色をしていた。
冬の雲は白く光って、まるで冷たいガラスの向こうに貼りついているみたいだった。町は雪で真白に覆われて、わたしの靴の音だけが、ぎゅっ、ぎゅっと通りに落ちていく。
教会の鐘がゆっくりと鳴っていた。音は大きな翼を広げた鳥のように降りてきて、わたしの肩をそっと撫でながら遠ざかっていく。その響きの中で、わたしは両手をポケットに入れてうつむきながら歩いた。
家というものは、もうわたしの後ろにはなくて、前にもなかった。お母さんとお父さんがいなくなってから、そこはもうなんの意味ももたない場所になってしまった。
けれど——伯爵さまとその奥さまが「一緒に暮らしましょう」と言ってくれた。お母さんとお父さんの古いお友達だという二人。わたしは名前だけを知っていて、顔は覚えていなかった。
駅前で馬車を待っていると、風が頬を切るように冷たくて、わたしは父の古いマフラーをぎゅっと顔に押し当てた。毛糸の匂いは少し埃っぽくて、でも安心する匂いだった。
伯爵さまのお家はどんなところなのだろう。大きな暖炉があるのだろうか。甘いパンの匂いはするだろうか。それとも静かで、わたしが歩く音まで響いてしまうような場所なのだろうか。
白い息が空に溶けていくのを、何度も見送ったころだった。角を曲がってやって来た黒い馬車が、雪をやさしく蹴り上げながら近づいてくる。
扉が開き、厚い毛皮の外套をまとった紳士と、その腕に手を添えた夫人が降り立った。二人はわたしを見つけると、すぐに笑みを浮かべ、雪を踏む音も軽やかに歩み寄ってきた。
「あなたがナターリヤね。……最後に会ったのは、あなたがまだお母様の腕に抱かれていた頃かしら」
奥さまの声は、寒さの中でも春のようにあたたかかった。わたしは小さくうなずき、差し出された手に自分の手を重ねた。冷たさと温もりが入り混じった指先が、ぎゅっと包まれる。
毛皮の匂いと雪の匂いに包まれながら馬車へと導かれ、柔らかな座席に腰を下ろす。窓の外では、街の家々がゆっくりと後ろへ流れていった。
「君と年の近い息子がいる。きっと、すぐに打ち解けられるだろう」
伯爵さまの低く落ち着いた声が、馬車の中にやわらかく響く。
わたしと同じくらいの年の男の子。どんな子だろう。どんな髪の色をしているだろう。笑うとどんな顔をするのだろうか。まだ知らないのに、もう少しだけ会いたくなっていた。
馬車は町を抜け、白い大地の中を進んでいく。道の両側には雪を抱いた並木が続き、枝先で氷がきらきらと光っている。車輪の音と馬の吐く白い息だけが、静けさの中でときおり溶け合った。
ふいに奥さまがわたしの膝に毛布を掛けてくれた。毛糸のぬくもりに、いつの間にか頬のこわばりもほどけていく。
「もうすぐ見えてきますよ。あれが、あなたの新しい家です」
窓の外を指さす奥さまの声に顔を向けると、遠くにいくつもの明かりが瞬いていた。それは雪の中で金色に燃える小さな星の群れのようで、近づくたびに輪郭が大きくくっきりと形を成していく。
やがて雪の中にそびえるお屋敷の姿が現れた。広い屋根は雪をかぶり、窓の向こうでは炎のような光がゆらめいている。馬車が正面の階段の前で止まると、伯爵さまが外套を翻して降り、手を差し伸べてくれた。
「さあナターリヤ。ようこそ——我が家へ」
その言葉とともに、私は雪のきらめく大地に降り立った。背後で扉が閉じる音がして、馬車の中の静けさが遠ざかっていく。目の前にはまだ見ぬ家と、これからの日々が広がっていた。
厚い扉が開かれると、外の寒さと入れ替わるようにして、暖かな空気と柔らかな光が流れ込んできた。
足を踏み入れた瞬間、雪で冷えきった頬や指先に、火のそばに置いた紅茶のようなぬくもりがじわじわと広がっていく。
玄関は高い天井にシャンデリアが輝き、磨き上げられた床には深紅の絨毯が敷かれていた。天井や壁の装飾は絵本の中でしか見たことのないような美しさで、わたしは思わず見上げたまま立ち止まってしまった。
「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」
執事らしい年配の男性が、深々と頭を下げた。黒い服に白い手袋をしていて、その動きは静かな水面のようにゆるやかだった。
「ナターリヤ、こちらへ」
奥さまに促され、わたしは小さくうなずいて赤い絨毯の上を歩きだした。足音は絨毯に吸いこまれ、外で踏んだ雪のきしむ音とはまるで違う。
そのとき、階段の影からすっと人影が現れた。
思わず足が止まり、心臓がひとつ強く鳴る。影はゆっくり形を持ちはじめ、やがて階段の手すりに指をかけた少年が姿を見せた。
「母上、この子が?」
はっきりとした声だった。わたしと同じ子どもの声のはずなのに、なぜだか少し大人びた響きがあった。
「ええ」
奥さまは柔らかく微笑んだ。
「今日から私たちの家族になるの」
その微笑みに、わたしは息を吸い、かすかに頭を下げた。ぎこちない動作だったけれど、それ以外にどうしていいのかわからなかった。
「……ナターリヤ・ソロヴィヨワともうします」
言って、顔を上げて、少年をそっとうかがう。
髪は夜の闇をそのまま編みこんだように黒く、瞳は雪の白さを切り裂くように深い色をしていた。
果てしなく続く黒——まるで雪の中にぽつんと浮かんだ、星のない夜を見ているようだと思った。
「俺はルスラン。よろしく、ナターリヤ」
彼は短く名を告げ、右手を差し出した。
わたしは少し戸惑いながらも、その手をそっと取った。ひんやりと冷たかった指先に体温が触れて、じんわりと温もりが広がっていく。
奥さまは優しく微笑み、そっと背中を押して廊下の方へわたしを促した。ルスランも何も言わず、階段の方からついてくる。わたしは二人に導かれるように、屋敷の奥の広い部屋へ足を踏み入れた。
そこには大きな窓があって、外の雪明かりが淡く床に落ちていた。壁には古い絵画が並び、分厚いカーテンが外の冷たい風を遠ざけている。
ほどなくして、お屋敷のメイドらしい女性が音も立てずに入ってきた。手には銀のサモワールが抱えられ、磨かれた金属の表面には暖炉の火がやわらかく映り込んでいた。
サモワールからティーカップに紅茶が注がれ、湯気とともに香りが広がる。今まで飲んだどの紅茶よりも香りが豊かで、胸の奥まで染みていくようだった。メイドの女性は小さな皿に赤いすぐりのジャムをのせ、わたしの前にそっと置いた。
「どうぞ、ご一緒にお召し上がりください」
勧められるまま、スプーンで少しジャムをすくい、紅茶に溶かす。
甘酸っぱさが香りと混ざり合い、ひとくち口に含むと、喉をつたって体の奥まであたたかくなった。外では風が木々を揺らしているのに、この部屋の中はまるで別の国みたいに穏やかだった。
ふと、お母さんとお父さんの顔が浮かんだ。
ふたりがいた家は、もうどこにもない。優しくわたしを呼ぶ声も、もう聞こえない。
ここで……わたし、やっていけるのだろうか。
思うと胸の奥がきゅっとなったけれど、ティーカップを両手で包み込むと、その痛みは少しだけ和らいだ。
わたしはカップを覗き込み、紅茶の表面に揺れる自分の影を見つめる。
伯爵さまも奥さまも——それにルスランも、わたしを暖かく迎え入れてくださった。ここでなら、もしかしたら……もう泣かないでいられる日が来るかもしれない。
心をかすめた予感にそっと顔を上げると、湯気の向こうで、暖炉の火がゆっくりと揺れていた。
その赤い光は、ずっと冷たいままだった胸の奥に、小さな種火のようにぽつりと灯った。それはまだ心もとない明かりだけれど、消えずにそこにあり続けるのかもしれないと、なぜか思えた。