生きるとは、戦い続けることである
エルキドとグレイスが家に帰れたのは、アルマティオスの駆除、つまりグラディアの死亡から、五日も経ってからだった。グレイスをゆっくり休ませたいところだったが、帰ってからはマスコミがしつこく家に押し寄せて落ち着かない。英雄の死亡とアルマティオスの駆除という大事が重なったわけだし、彼らも仕事なので仕方がないというのはわかるが、とても相手をしている気分ではない。エルキドは、マスコミの訪問があるたびに、相手をする気がない旨を扉越しに一言だけ告げ、あとは無視を貫徹した。
マスコミのほかに、エルキドやグレイスの友人の訪問も何度かあった。お悔やみを言いに来たり、慰めに来たりしてくれた彼らは、玄関を通す。ほとんどは遠慮して、家に上がっていこうとはしなかったが、そんな中でレックスは例外だった。
「先輩が帰ってきたって聞いて、会いにきました。ずっと会えなくて僕……」
思い出してみると、ひと月以上も学校へ行っていない。レックスとはその間会っていない。彼の気持ちを考えれば、顔を見なくてもその辛さは想像がつく。エルキドは、レックスを自分の部屋に入れた。
「ごめんなさい。こういうのは迷惑だってことはわかってるんですけど、どうしていいかわからないんです。会えなかった時間が辛くて……死ぬことも、考えました」
エルキドを好きになる人間は結構いるが、ここまでという者はほかにいない。エルキドに依存している、とも言える。レックスの気持ちが、ほかの人間のものとはずいぶん違うことは前々から気づいてはいたものの、どうしていいかはわからず、おそらく逃げていた。高校を卒業し、エルキドと会うことのなくなったレックスがその後どうなるかは、想像するのが恐ろしい。レックスがそうなることに耐えられないエルキドは、彼と一生を共にすることも視野に入れていた。
「厚かましいお願いだということはわかっていますが、そばにいさせてもらえないでしょうか。恋人じゃなくても、どんなかたちでもいいんです」
「その願いを聞いたとして、俺があんたをそばに置きながら、ほかの誰かと結婚することになったら、あんたは耐えられるか?」
レックスは放心したように目を見開く。答えを聞くまでもなかった。
レックスの願いは命に関わるほどのものだが、クリスの求婚は国家に関わるほどのものだ。両方は選べないし、どちらか一方を選ぶことは困難を極める。
試してみるか、とエルキドは考えた。
クレオは、エルキドが今後、任意の相手の恋愛感情を自由に操作できるようにした、と言った。人の心をいじるような能力は決して使うまいと思ったのだが、早速使うことになってしまったことに、エルキドは自嘲する。クレオの言ったことが嘘であるということはないだろう。わざわざあんな、普通の人間が決して入ってこられない場所に夜中に来て、あんな嘘をつくことに意味があるとは思えない。
どうやればエルキドに与えたという権限を行使できるかの説明は受けていない。説明がないということは、説明の必要がないということだろう。エルキドはレックスの気持ちが、一般的な恋愛感情になってくれるように願い、また念じてみた。おそらくは権限を行使することを意識するだけでいいのだろうが、口にも出してみる。
「あんたの俺への気持ちは、ただの恋だ。だから少し辛いかもしれないが、それを失っても元気に生きていける」
「そんなこと……」
「卒業まではもうしばらくあるし、卒業しても会いたきゃ会える。少し時間をとって考えてみてくれ。俺なしで生きる道は、きっと見えてくる」
レックスは、納得ができていない表情をしている。エルキドに与えられたという力は、すぐに効果が現れるものではないのだろうか。
「レックス」
沈んだ表情で帰ろうとするレックスに、エルキドは声をかけた。
「好きになってくれてうれしかった。ありがとう」
一ヶ月以上ぶりに、管理局に行く。夜中に幽霊みたいに王の寝室に現れて変な権限を与えて挨拶もなしに消えたクレオは、そのまま姿を消して、もしかしたら二度と会えなかったりするのかもしれないとエルキドは思ったのだが、しかしクレオはエルキドの隣席で仕事をしていた。
「いるとは思わなかった」
エルキドはクレオに声をかけ、席に着いた。
「いるに決まってるじゃないか。溜まってる仕事を振ろうと思って待ち構えてたんだ」
クレオは、作業に関する大量の書類をエルキドの机に置いた。
「ずいぶんな量だ」
「最近また忙しくなってね。メールでもこれとは別に作業の指示を出してるから見ておいてね」
「まだあるのか」
「ここのみんなで使うマクロがいくつか欲しいんだけど、作れそうなのは君しかいないんだ。君なら全部合わせても三週間程度あればできるだろ。簡単にでいいから計画を立てて見せてね」
エルキドは二十分ほどで三週間の計画を立て、プリントアウトしてクレオに渡した。それから振られた作業に取り掛かる。三十分ほど黙々と作業をしたところで、クレオが声をかけてきた。
「なんであんな権限の使い方をしたのかな」
「上手くいったのか、あれは?」
「彼、依然として君のことが大好きではあるけど、もう前ほどじゃない。人の、自分への好意をわざわざ小さくするなんて」
「現在の俺のことはかなりわかるんだろ。俺が何を考えているか、わかるはずだろ」
うーん、とクレオは唸って眉根を寄せた。
「君の心の動きは知ることができるんだけどね、その根拠になっている部分に関することは、ラプラスの悪魔には知り得ないことなんだよね」
気になる発言だ。ラプラスの悪魔が知り得ない、いわゆる例外がどんなものであるのか、例外には何らかの共通点があるのか、あるとしたらどんなことなのかを、アルは知らないようだった。それをクレオは知っているのかもしれない。ラプラスの悪魔と言っても、クレオはどう考えてもただのラプラスの悪魔ではないので、アルが知らないことを知っていてもおかしくない。
「ラプラスの悪魔に知りえない例外というのを持った人間には、共通点があるのか?」
「うん」
「どんな?」
クレオは少し考えて、答えた。
「少し昔に、神が自分の力を地球上にばら撒いたんだ。力と言っても種みたいなもので、それを受け取っても特別な力を得られる人は少ないんだけど」
「少し昔と言うのは、千年くらい前か」
例外が発生したのはホロコーストのころだというアルの言葉と今の話を組み合わせると、そういうことになる。クレオの言う力とか種とかいうのが、おそらくラプラスの悪魔の例外だろうから。
「それと、その種というのは遺伝する。おそらく一定の確率で」
「うーん、文句なく正解」
「他人事みたいに話したのがごまかすつもりかどうかは知らないが、その神というのは、あんただな」
エルキドも聞いたことがない、神の力の種の話を知っていること。その話がアルの話との辻褄が合い、おそらく嘘ではないこと。さらにクレオがエルキドに人智を超えた能力を付与した事実を総合すれば、そうとしか考えられない。
「本当にすごいよね、君」
「神の一部であるその種の持ち主については、ラプラスの悪魔でもわからないことがあるというわけか」
神は、全知であるはずのラプラスの悪魔をも凌駕する、ということだろうか。
「僕が神ということになると、僕に聞きたいことがけっこう出てくるかな?」
エルキドは常にいくつも疑問を抱えて生きている。だが、水という物質がどうして特別な振る舞いをするのかとか、宇宙がどのように始まったのかとかを、彼に聞く気はない。そういうことは、人が科学を用いて解明することが面白いのであって、神に答えを教えてもらうべきことではない。
彼に聞きたいことは、とりあえず一つだった。
「死者を蘇らせる手段はあるか? 神にならそれができるか?」
「死は神にとっても不可逆変化だ。残念だけど」
それが本当かどうかはわからない。だが本当は可能であっても、決してやる気はないのだろう。
「疑ってる?」
「若干」
「死という現象、あるいは命というモノについては、生物学的にも物理学的にも、正確な定義はできてないでしょう。そんなもの操作できる?」
「安っぽいごまかし方だな。それは現在の人智の範囲での話だ。将来的にも、あるいはラプラスの悪魔や神にとっても同様であることを俺に説明できるか?」
クレオは唸る。
「そもそもラプラスの悪魔が存在している以上、この世は唯物論に従うことになるはずだ。たとえば人の心のある状態と素粒子の状態が一対一に対応するのでなければ、ラプラスの悪魔が人の心を知ることはできない。人が命を持った状態とそうでない状態との間にも、物理的に明確な違いがあるはずだ。神であれば、物理的に生前の状態を再現することによって人間を蘇らせることができてもおかしくない、と思ったんだが」
「なるほど」
クレオは圧倒されたように笑った。笑ってごまかしているように見えた。
「できるけどやりたくないというのであれば仕方がない。何十億もいるうちの一人に過ぎない人間の命や願いを、神がその主義だか信念だかを曲げてまで掬い取ることはないだろうからな」
「君の言うことはいちいちおどろくほど的を射ているが、今のは一つだけ間違っている」
「なにが?」
「君やグラディアさんは、僕にとっては単なる何十億分の一じゃない。親友と、その母親だ」
そんなに関わりがあったわけではないクレオがそのように思っていることは、意外であった。
グレイスが発作的に大掃除を始めた。どういうつもりなのか正確にはわからないが、何か普段と違うことをして、気を紛らわせようとしているのではないだろうか。意識的になのか無意識になのかはわからないが。
どちらにしても、何かをしようとしているのは悪いことではない。エルキドは勉強をしようとしていたが、やめて大掃除に付き合うことにした。
グレイスは、溜まった埃を取ろうとして、家具を次々に移動させているが、散らかしているようにしか見えない。元に戻すことを考えて動かしているか、それどころか元の位置を覚えているかすら、かなり怪しい。
「ちょっと、そこにそんなものを置いたらこっちを運べないって」
「もう、うるさい。エルちゃんはミイちゃんにご飯あげてきなさい」
先ほどから台所で、ミイがしつこく鳴くのが聞こえてくる。エルキドが台所でミイに餌をやって戻ってくると、グレイスは箪笥を動かそうとして苦戦していた。
「もう、なんで動かないのこれ」
「静止摩擦係数と垂直抗力の積が、ママさんの力の進行方向成分より大きいからだ」
わざとわかりにくい言い方をする。
「わけわかんない」
口を尖らせるグレイスの表情がおかしくて、エルキドは軽く笑った。
「エルちゃんのほうが力あるんだから運んでよ」
「バトルできない人は不便だな」
エルキドは戦闘ができる人間の中ではかなり非力だが、それでも箪笥を動かす程度なら容易い。床を傷つけないように、持ち上げて運ぶことにする。
「せいしまさつなんとかいうのが、大きくなかったらどうなるの?」
「摩擦係数が極端に小さければ、箪笥は氷の上を滑るように……」
言いながらエルキドが箪笥に力を加えると、箪笥は氷の上を滑るように移動した。
「止まれ」
エルキドがそう言うと、箪笥は止まった。グレイスがどんなにがんばって箪笥を押しても引いても、それからは動かなかった。
エルキドは、行ったことがなく、その場所を誰からも聞いたことがないクレオの家に、まっすぐ向かった。何年生きているかわからず、またいろんな国に行ったことがあるという発言をしていたクレオの家は、おそらく仮住まいのようなものだと思われるが、見た感じは普通の住宅だ。エルキドの家よりも二回りほど小さい。
必要もないのに、おそらく洒落で備えられているインターホンを、ばかばかしいと思いながらも鳴らす。まるでそれを聞いてエルキドが尋ねてきたことを知ったかのように、クレオが出てくる。
「おや、よくうちがわかったね」
「そうだ。なぜ俺はあんたの家がわかるんだ?」
「それは僕に聞くこと?」
そういうふうには見えないが、とぼけているのだろうか。
「俺に付与した権限は、任意の対象の恋愛感情を操作するだけのものだったはずだな」
「そうだよ」
「では、それ以外のことができるのはどういうことだ?」
「それ以外って?」
エルキドは足元の石を二個拾って、一個ずつ放して自由落下させた。一個目の石は普通に落ちたが、二個目の石はその数倍の加速度で落ちた。クレオは目を見開く。
「あんたがこういうことをしようとすれば、どうやる?」
「万有引力定数を変えてしまうか、あるいは地球の重力加速度だけを変えるかな、空間的に範囲を絞って。……まさか、そういうことをしたのか?」
「なぜ俺が、宇宙を支配する定数をいじるような、神みたいな権限を持っているんだ?」
「知らないよ、僕は」
「あんたが俺にあの変な権限を寄越したのと一緒に、あんたと同等のすべての権限を寄越したんじゃないのか」
「誓って言うけど、僕は恋愛感情を操作する以外の権限を与えてはいない。少なくとも、意識的には」
おそらくクレオは嘘をついていない。わざとすべての権限を与えておいて、いまさら必死にそれを否定するのは不自然だ。
「じゃあ、無意識にとか、うっかり余分な権限を寄越したんじゃないのか。今まで誰かに何らかの権限を与えて、そういうことはなかったのか」
「いや、誰かの権限をいじるなんてこと、初めてだったし」
エルキドは呆れた。あまりにもあっさりと、人智を超えた力を渡してきたものだから、そういう経験が何度も、少なくとも何度かあるものだと思っていた。
神が人に自分と同等の権限を与えるのは簡単なことなのだろう。おそらくそれはコンピュータのシステムのようなもので、すべての権限を持った管理者であれば、誰かの権限を認めることができるようなことなのだろう。誰かに対して、いくつの権限を与えるかの数値を入力する際にうっかり桁を二つ間違えて、予定の百倍の権限を与えてしまった、というようなことを、クレオはやらかしたのではないだろうか。
「でも、権限が大きくなるのはいいことだろ。なんで怒ってるの? 怒ってるよね?」
「さっき、自分にそういう権限があることを知らずに、摩擦係数をいじってしまった。どの物質に限定するとか、どの範囲に限定するとか、条件を意識しなかったから、宇宙のすべての物質間の静止摩擦係数と動摩擦係数が小さくなったかもしれない。そういう状態が三秒間続けば、世界がどれだけ混乱するか想像できるか?」
多数の死者が出ることも考えられる。エルキドにはそれが恐ろしかった。
「そういう混乱は起きてないよ。まあ、それはたまたまだから危なかったかもしれないけど、今後気をつければ大丈夫」
「一番の問題は、俺がそんな絶大な権限を持っていることだ。何でもできるということがどんなに恐ろしい、あるいはつまらないことかわかるか? 知識の権限も解放されたらしく、ラプラスの悪魔とまではいかないが、人智を超えた莫大な知識が流れ込んできている。神のあんたはそれでいいんだろうが、俺は一介の人間なんだ」
「わからないよ。何事も、できないよりできたほうがいいし、知らないより知っているほうがいいだろ。そもそもいろんなことを知りたいというのは、君の願いだったじゃないか」
何でも知っているクレオには、エルキドの憂いがわからないらしい。
「どういうわけか俺は、生物の、特に人間の死に極端に弱い」
「知ってる。種の持ち主はそうなる傾向があるみたいだね。元々神がこの宇宙を、生命を創った、つまり生かそうとする存在であるから、その性質を受けて死を厭うようになるんだと思う。と言っても当の僕は、君やママさんほど、死に弱くはないんだけど。元々ラプラスの悪魔と同じ知識の権限を持っていて、すべての生物の死が見えてしまうから、弱いと困るんだよね」
「そんな俺が、あんたと同等の権限を持ったらどうなるか考えてみろ。たとえばあんた、地球上の有害鳥獣と呼ばれる動物をすべて死なせるという操作ができるだろ。あんたがそれをせずに、涼しい顔をしていられる理由や事情は知らないが、俺にはそれがない。俺はその操作を行うかどうか、大いに悩み、苦しむことになる。人間が殺されることは極力避けたいが、そのために動物を殺したくはない。それがすべての有害鳥獣となると、生態系が狂うことも考えられる。そんな俺が、王に求婚されていて、前向きに考えていることも考えてみろ。こんな権限を持った者が、王配になることが許されるか? アルフレアが、神を擁する国になってしまうことと変わらないんだぞ」
「やっぱりよくわからない。使わないほうがいいと思った力は使わなければいいと思うんだけど、そこまで言うなら、権限を奪おうか?」
「できるならぜひやってくれ。クリスさんの寝室であんたと会うまでの、普通の人間と同じ権限の状態に戻してくれ。権限があるうちに何をしておくべきだったという後悔が絶対に生じないとも言えないから、できれば記憶も消して、権限に関することはなかったことにしてほしい」
「……できない」
権限を奪うと言った直後にそう言ったので、一瞬からかわれた気になったが、そうではなかった。どうやら、権限を奪う操作をしようとしたのにできなかったらしい。
「どういうことだ?」
「特異点化しているんだ」
電話がかかってきた。それがクリスからエルキドへのものだということはわかっていたが、グレイスに取らせた。グレイスとクリスはそれなりに両想いで、エルキドへの電話の際にたまたまグレイスが出ると、いつもある程度の時間、親しげに話をするからだ。未亡人同士ということで、クリスにはグレイスと結婚してもらい、エルキドは彼女の義理の息子としてアドバイスをするのもありではないか、と思ったのは一瞬だけ。グレイスのような常識知らずの変人が王妃になることは、王室の沽券にかかわる。
「結婚の件、お考えいただけただろうか」
エルキドが電話に出ると、クリスは挨拶もそこそこにそう言った。問題が起きました、とエルキドは前置きした。
「結婚については、実はかなり前向きに考えていたんです。ですが、詳しくは言えませんが、このままでは王配になれない事態が生じて。問題が解決する見込みは、かなり低いと言わざるを得ないんですが、どっちにしろ、もう少し待っていただかなくてはなりません」
「もう少し、とは?」
「見当がつきませんが、とりあえず一年ほどは。王が配偶者を喪った直後に再婚するというのもあまり体裁がよくないし、ちょうどいいと思うのですが」
「その問題というのは、どうしても詳細をお教えいただくわけにはいかないのだろうか」
「いずれ話すかもしれませんが、今はちょっと。家庭の事情だとでも思ってください」
「そうか」
「いちおう言っておきますが、もしもほかに結婚したい相手ができたら、俺には遠慮しないでくださいね」
「お心遣い、感謝する」
電話を切ると、エルちゃん、とグレイスが声をかけてきた。
「クリスちゃんと結婚するの、やめちゃったの?」
グレイスは、エルキドに恋人か配偶者ができることを心待ちにしている。そのことを利用して、グラディアを喪った彼女を慰めるために、クリスに求婚された話を持ち出したのだが、このままではそれが裏目に出てしまう。
「問題って、何かあったの? 家庭の事情って、もしかして私のせい?」
クリスに話した家庭の事情、すなわちクレオがエルキドの権限を操作することができなくなったのは、おそらくエルキドがクレオと同等の権限を持ったことで、この世界の中で、クレオと同等の扱いをされることになったからであった。元々、神であるクレオは、人間と同様に暮らしていながら、神の権限が作用しない例外、いわゆる特異点であった。そうでなければ、たとえば神が神でなくなることが可能になるなど、いろいろと不都合が生じるからだろう。その特異点たる条件は、「クレオであること」ではなく、「神の権限を持つこと」あるいはそれに伴う何かであり、エルキドはその条件を満たしてしまったのだろう。そのため特異点として扱われ、クレオの一切の操作を受け付けなくなってしまったのだ。この世界における特異点の判定の仕方を、クレオが設定したのかどうかはわからないが、これは致命的なバグである。
「家庭の事情は嘘、言い訳だよ。ママさんのせいなんかじゃ全然ない。俺の問題だ」
自分が神と等しくなってしまったことなど、グレイスには話せない。すぐには気づかないだろうが、しばらく考えて、それが深刻な事態であることに気づいてしまえば、それはグラディアの死以上に彼女を苦しめることになるだろう。
最大の問題は、人が持っていて神が持たない権限が一つだけあることだ。「死」である。神は死ねないのだ。神の権限を得ることで流れ込んできた莫大な知識によれば、クレオはこの宇宙の始まりよりも前から生きていた。クレオが宇宙を開闢したならそれは当然ではあるが、空間と時間を同等とする相対性理論を応用すれば、宇宙を開闢したクレオが宇宙よりも若い可能性を考えることができなくはない。しかしそれは、流れ込んできた知識によって否定されてしまったのだ。
誕生してから百三十八億年と言われる宇宙より長い時間を、神であるクレオは生きている。エルキドはそのクレオと同等になってしまった。
ナナを喪ったクリスと同様に、アルマティオスの被害による国民の悲しみは一年やそこらで癒えるものではないだろうが、混乱は一ヶ月もすればある程度収まっていた。クリスとしては珍しく、しばらく仕事をせずに休みたいと考えていたのだが、保健福祉省から困った報告を受けてしまっていた。アルマティオスのような衝撃的な脅威ではないものの、深刻な人命の問題であることは同様だ。ここ一ヵ月半ほどの間で、有害鳥獣との遭遇によるものだけでなく、それ以外の事故、病気など、その原因を問わず、死亡率が増えているというのだ。問題は、その原因がまったく不明であることだった。統計学者によれば、偶然や誤差の範囲である可能性は現実的には皆無と言ってもいいほどに、明らかな増加の仕方であり、必ず何らかの原因があるはずであった。
クリスはエルキドに電話して、口止めしたうえで事情を話し、意見を求めた。部外者で一般人で高校生である彼に頼りすぎているという意識はあったが、何かがわかる可能性があるなら、手段を選んではいられない。だが今回は、エルキドもまったく有用な意見をくれなかった。相談するクリスのほうも、統計上の事実以外はわからないことばかりだったので仕方がないと思うのだが、気のせいか今回に限って、エルキドはあまり積極的に考察してくれなかったように思われた。先に電話に出たグレイスがいつものようにクリスを笑わせてくれただけに、いつもと少し違うエルキドのことが余計に気になった。
エルキドに流れ込んできた知識は、現在のことについてはすでにラプラスの悪魔と同等と言えるほどのものになっていた。当然、クリスから国内の死亡者が不自然に増加している事実を聞く前からそれを知っていたし、それが国内だけでなく全世界で同様に起きていること、さらには人だけでなくほかのすべての動物にも及んでいることも知っていたが、その原因はエルキドの知識の中にはなかった。しかし、今のエルキドの知識の中にないこと自体がヒントでもある。現在のことについてはラプラスの悪魔とほぼ同じ知識を持つエルキドが知らないということは、それはラプラスの悪魔の知りえないことであるということだ。ラプラスの悪魔にとっての例外は、神の力の種の持ち主。その要素の持ち主の中で、今回の件の原因になり得そうなのは、人間の死亡率を高める操作を行えるであろうクレオしかいない。エルキドはクレオに会うため、再び彼の家を訪ねた。神の権限を使いたくないエルキドは、前回のように徒歩でクレオの家に向かい、インターホンで彼を呼び出した。
「なぜいたずらに人や動物を殺す? 俺へのいやがらせなのか?」
「やっぱり僕がやってるってばれちゃったんだ」
わからないわけがない。
「これは、第二のホロコーストか? 千年前のホロコーストは、ごく短時間できわめて多くの生物が死亡したものだと認識しているので、様子は違うようだが」
「ああ、そっちも僕がやったってわかっちゃったのか」
クレオはエルキドから目を逸らした。
「もう一度聞くが、なぜだ? 前回にしろ今回にしろ、人や動物を殺すことに何の意味がある? あんたは命を創るほうの存在じゃなかったのか」
「たとえばなんだけど、筋書きが全部わかっちゃってるドラマがあるとして、それを見る気になるかな?」
「俺はあまり見る気にならないが、それは人によるだろ」
関係ない話のようであるが、ここまであからさまに話を逸らすことはないだろうから、関係ある話なのだろう。とりあえずエルキドは素直に話に応じることにした。
「僕もどちらかと言うと見る気にならないほうなんだよ。増して筋書きのすべてが、登場人物ならその一挙手一投足すべてが、プランク長程度のずれもなくわかりきっているような物語は、まったく面白いと思えない。そんな物語に、百億年以上も、さらにそれと比べ物にならないほど長い時間付き合わされるとしたら、辛いと思うだろ」
わずかなずれもなくすべてがわかるというのはラプラスの悪魔で、百億年以上という規模の時間は宇宙の年齢。それを考えれば、クレオが何の話をしているのかがわかる。
「その物語というのは、この世界の、この宇宙の変遷というわけか。だがラプラスの悪魔でもわからないことはある。そこまでわかりきった物語ではないだろう。あんたの知識は、まさかそういうことまでカバーするのか?」
おそらくそういうことはないだろう。クレオにもわからないこと、予測できないことはあった。それが演技だったとは思えない。
「わからないことがあるのは、僕がそうなるようにしたからだよ。わかることばかりだと辛いから」
ラプラスの悪魔の例外は、クレオが意図して作ったということだろうか。
「この宇宙には厳密な運命が存在するはずだな。あんたがわからないことを作ろうとすることも予め決まっていて、それはラプラスの悪魔の知識に含まれているはずではないのか? わからないことを作るなんて、不可能なはずだが」
「僕がこの宇宙の卵を創って、それを突っついて開闢したわけだけど、それは当然宇宙の外側から行った操作だ。元々僕は、この宇宙の一員ではないんだ。宇宙に運命が存在するのは、ある状態が、それより過去の状態の結果として起こるからだ。今の宇宙の状態が正確にわかれば、そこから計算して百年後の宇宙の状態を知ることができる。それがラプラスの悪魔だけど、それは宇宙を一つの系として、その外側からの影響を受けないことが前提になっている。百年経つ前に外側からの影響を受ければ、百年後の状態は、当然計算結果と違うものになる」
宇宙の運命が決まっているのは、それは宇宙という一つの系の中だけで考えるからだ。宇宙の外側から何らかの操作を加えられることがあれば、当然宇宙の中の情報だけで計算したものとは違う結果が生まれる。
「そうか。あんたは元々この宇宙の外の存在であるから、ラプラスの悪魔が認識できる範囲の外にあった。だからあんたや、あんたの一部である神の力の種の持ち主については、ラプラスの悪魔でも完全に知ることができないのか」
「そういうことだね。だから当然、僕や種の持ち主のしたことの影響が大きくなるほど、ラプラスの悪魔にわからないことが増えてくる。それは、少なくともこの宇宙に限って言えば、決まりきった運命を変えることになる。僕は、どうなるかわからない世界を見たいんだ」
この宇宙の外側には世界があり、クレオは元々そこに住んでいたのだ。クレオが元々いた世界を外側の宇宙として、それを一つの系と考えれば、この宇宙を含めた外側の宇宙全体の運命は決まっているのかもしれない。あるいはその外側の宇宙も、さらに外側の影響を受け、運命が変わることがあるのかもしれない。どちらにしても、この宇宙に限定して考えれば、クレオという宇宙の部外者の影響で、運命は刻々と変化しているのだ。
「要するにあんたは、どうなるかわからない物語を作って楽しむために、夥しい人や動物を殺しているわけだな」
エルキドは悪意を持って、端的にまとめた。
「否定できないけど、そうせざるを得ない気持ちはわかるだろ。始めたのはつい最近のことだよ。それまでずっと、退屈な時間を耐えてきたんだ。百億年をはるかに超える時間だ」
それはエルキドにも想像ができない。クレオを強く責めることができなかった。
「だが、あんたが何かをすれば……何もしなくても存在するだけで、その影響は出るはずだろ。カオス理論に従えば、外の世界から石ころ一個、埃一粒、素粒子一個を持ち込んだだけでも、未来は大きく変わるはずだ」
「初期値鋭敏性ね。でも、そういう微小の影響の結果が大きくなるまで、いったいどれだけ待たされると思う?」
「何かをするにしても、殺戮以外にいくらでも手段はあるだろ」
クレオは少し間をおいて答える。
「こういう言い方をすればまた反感を買うんだろうけど、僕から見て、この宇宙の生物と非生物の差って、あまり意味がないんだ。言ってしまえば、生き物を殺すことをなんとも思わない。殺害という行為は、その対象の物体の物理的状態を変化させることでしかないんだ。そのわりに、生き物が死ぬことによる未来への影響は大きい。生き物を殺すことは、効率よく未来を不明確にすることなんだ」
クレオが人や動物を殺すことが、悪意によるものではないというのは厄介なことだ。本人は悪いことだと思っていないし、どう説得しても悪いことだと思わせることはできそうにない。
「言い訳や正当化をしようというわけではないんだけど、ホロコーストと呼ばれている、今から千年くらい前に行った操作は、未来をわからなくする以外にも理由があった」
エルキドは何も言わず、目で話を促した。
「あれより前の世界って、荒れてたんだ。人と人、国と国が争って殺し合うことがたまにだけどあった。いわゆる戦争だな。それだけじゃなくて、いろんな困ったことが横行していた。同性に恋愛感情を抱くことを罪悪とされたり、女は女らしくしなければならなかったり、罪のない一人の人間を大勢の人間が悪意を持って集中的に苦しめたり、相対性理論によって確立された原子力を真っ先に兵器に応用してあまつさえそれを人間に向けて使ったり……そんなことが想像できる?」
クレオは珍しく、かなり興奮している。自分にとって、その命があまり大きな意味を持たない人間たちについて語っているのにしては、おかしい。
「恥ずかしながら想像ができない。俺には、女らしさという言葉の意味すら理解できない。ホロコースト以前の情報については、まだ俺に流れ込んでいる知識でカバーしきれていない部分があるのかもしれないが、それにしてもあんたの話には不可解な部分が多すぎる。それ以前にあんたの憤り、とても他人事について話しているようには見えん。それは、あんたがあんたの世界で経験したことじゃないのか?」
クレオは、エルキドから逸らした視線をしばらく宙に向けたまま固まっていたが、やがてふっと笑って表情を緩めた。その目には涙がにじんでいる。
「何でもわかるんだね、君は。ホロコースト以前の人間たちを見て、僕が元々いた世界のことを思い出させられた。イラっとしたから、そのときにいた人や動物を殺した。数にして、全体の九十五パーセントくらい」
「イラっとしたから、か」
気持ちは、わかるとまでは言えないが、ある程度想像できる。
「でもね、そうなっちゃった世界を初期化して、やり直してほしいっていう願いもあったんだよ。だからこそ人間を含む多くの種を、絶滅はさせなかった。それから千年経ってみると、幸運にもこんなにも平和で美しい世界になった」
「この、人間と動物が殺し合う世界が、平和か?」
「平和どころか理想に近い世界だ。他種の動物が殺し合うのは自然の摂理。クリスさんも似たようなことを言っていたし、君もその言葉には納得できただろう。動物が生きるために他を殺すのは、仕方ないという言葉も不適切なくらい、当たり前で正しいことだ。でも、同種の動物、たとえば人と人とが悪意で殺しあったり傷つけ合ったりすることは怖ろしく不健全だ。一部の例外を除けばそれがないこの世界は、平和な理想郷だ」
「理想の世界になったなら、もういいだろう。これ以上生き物を殺して変化を持たせたら、またイラっとする世界にもなり兼ねない」
「それは放っておいても同じだよ。すでに、予測できない未来はある程度用意されている。それはもしかしたら、ひどい未来かもしれない。でも、完全にわかりきっている未来よりはいい。僕は、先がどうなるかわからない世界の中で、美しい人や国を見つけたいんだ。だから今は、この美しい世界を崩壊させない程度に、見えない未来を広げる。その結果、イラっとすることがあったら、その都度リセットすればいい」
それは結局、この世界の人や動物の命が、クレオの手の中にあることになる。彼の気持ちはまったくわからなくはないものの、彼の都合や気分によって多くの人や動物が殺されるという状態を持続させることは、どう考えても好ましくない。だが、説得は通じない。エルキドが取るべき行動は限定されている。
「俺は、あんたを殺さなければならない」
人を、それもおそらく親友と呼ぶべき相手を殺さなければならない。こんなに辛いことはない。グラディアの死と、どちらが辛いだろう。
「やっぱりそうなるんだね。僕、君のことはかなり好きだったんだけどな」
「俺もあんたのことはかなり好きだ。残念だ」
「でも、どうやって? 今の君は任意の相手を死なせる操作ができるだろうけど、僕と君自身は例外だよ」
殺さなければならない事実とは別に、そこも悩むところだ。少なくとも今のエルキドの知識の中に、クレオを殺す方法はない。
「でも君なら何か思いつくのかもしれないね。それなら僕は、それを阻止するために君を殺さなければならないのか」
とは言え、当然クレオにも、エルキドを殺す手段はない。神の権限を得たばかりのエルキドは、有している権限や知識はクレオよりも少ないようだが、互いに特異点であり、互いの操作をまったく受け付けない点では同じだ。
クレオがエルキドに対し、「死」「消滅」「忘却」「猫化」などといった、いくつかの操作を試みたことがわかった。
「やっぱりだめか」
「ネコにはなってみたかった気がするな。残念だ」
特異点の状態や性質を直接操作して変更することはできない。では、外部からエネルギーを加えればどうなるだろうか。つまり神の権限など使わずに、普通に動物を殺すときと同じやり方をする。もう必要ないのだが習慣で腰に差している剣を抜き、クレオを斬りつけた。剣はまったく抵抗を受けることなく、クレオの体を通り抜ける。
「君も同じだと思うけど、僕は自分の体が外部からのエネルギーの影響を受けるかどうかを選択することができる」
それなら、エネルギーの影響を受ける状態でいるときもあるということだ。そもそも、そうでなければ管理局でパソコンのキーを叩くことができない。影響を受けないということは、影響を与えないということでもあるからだ。影響を受ける状態になるまで待ってから攻撃する、と言っても、こちらが待ち構えていれば、クレオがその状態になってくれることはないだろう。
「君を殺すことは不可能か、困難を極めるが、心を傷つけることはできるな。この点で、僕のほうが少し有利かもしれない」
「なんということを……」
エルキドはその場にへたりこんでしまった。クレオがそうしようとする可能性を、エルキドは考えなければならなかった。わかっていれば防ぐことができた事態だ。
クレオが行ったのは、「地球上のすべての生物について、各々十パーセントの確率で死亡する」という操作だった。対象の数が十分に多いので、これは数にしてほぼ十パーセントの生物を死なせることと同義であった。
失われた命は戻らない。せめてまた同じようなことをされないように、エルキドは対策を講じた。地球上のすべての生物について、性質や状態を直接操作されないようにプロテクトを施す。プロテクトは、かけた本人にしか解除できない。
「僕には何もできなくなった。今は事実上、君が唯一の神だというわけだな」
歯を食いしばって震えていたエルキドは、かろうじて立ち上がった。
「やはり、どうあってもあんたを生かしておくわけにはいかん」
上手くいく見込みは低くても、試せることはとりあえず試す。剣で斬りつける程度のエネルギーは無効でも、もっと大きなエネルギーをぶつければ、ある程度は影響を与えられるかもしれない。クレオだって人間だ。そうでなくても生物だし、そうでなくても有機物だし、そうでなくても物質であり、あらゆるエネルギーの影響を一切受け付けないということは、原理的にありえない。
この場で莫大なエネルギーを扱うわけにはいかないので、エルキドは、自分とクレオを百億光年ほど離れた場所に移動させた。特異点である二人が移動という操作を受け付けない可能性はあり、その場合は、元の位置と行き先という「場所」のほうを一時的に入れ替えるつもりでいたが、その必要はなかった。特異点が受け付けない操作は、その対象自身の状態や性質を変えるものだが、位置はこれに含まれないらしい。位置情報を直接変えてしまう操作なので、その移動にかかる時間は距離に依らずゼロだ。
周囲は光や空気すらほとんどないような暗黒にして虚無の空間であったが、二人が互いを認識するのに視覚に頼る必要はないし、意思の疎通のために音声による会話に頼る必要もない。
「こんな真似をするなんて、直前まで予測ができなかった」
「次の手は予測できているか?」
周囲にあるものは、空気とも言えないくらいごく薄い、水素やヘリウムといった、いわゆる星間ガスのみ。何でもいいからモノが欲しかったエルキドは、希薄な星間ガスのほか、比較的近くにある小さな星を、寄せ集めた。総量にして、地球一個と同程度の質量を集める。それらの物質をある程度引き寄せると、それらは、それら自身の引力により引き合い、一つの巨大な塊になった。
「わからない。そんなものを弾丸にしてぶつけようと言うのか」
それでも、日常のレベルからはありえない莫大なエネルギーになるが、エルキドはそのような小規模なエネルギーを扱うために、わざわざこんな場所まで来たのではない。
「質量とエネルギーが等価であるというのは、あんたが定めたルールか?」
「僕はそんなに頭がよくない。この世界のルールのほとんどは、僕がいた世界のものを流用したものだ」
「それが丸写しのルールだとしても、この世界で神として最大限の知識の権限を持っている以上、そのルールを把握しているはずだな。この質量がどの程度のエネルギーと等しいのかもわかるだろう」
十グラム程度の質量と等しいエネルギーがあれば、町一つを滅ぼすことができるだろう。それよりも桁が二十六個ほど大きなエネルギー、ということになる。そこにある物質をすべてエネルギーに変換する、ということは人には技術的に実現不可能だが、神の権限を用いれば、その物質の状態を操作することで容易に可能となる。
「恐ろしいことを考えるな、君は」
恐ろしいと言うわりには、クレオは冷静だ。エルキドはその態度に構わず、惑星様の塊と化した大質量の物質を熱エネルギーに変換する操作を実行した。
わずかに期待した結果が得られるなら、実行してから一秒もしないうちに、エルキドもクレオも、その体を構成している粒子が原子よりも微細なレベルで崩壊しているはずだったが、案の上二人に変化はない。
「正直僕も自信がなかったけど、今の僕たちは、その大小に関係なくエネルギーの影響を受けないんだね」
ビッグバンの数十秒後の宇宙の温度に匹敵する極超高温の中で、音声でないクレオの言葉が発せられる。
それが物質であるかぎり、ある程度以上のエネルギーを加えれば崩壊するというのは、当然の物理法則だ。しかし例外的にその法則が当てはまらないからこその特異点。エルキドからすればこの結果は、正直なところ自明であったのに近い。言わば無駄な抵抗だ。
どんなに莫大なエネルギーを加えても傷一つ付けられないクレオだが、どうしても殺さなければならない。エルキドは必死で知恵を絞った。剣を受け付けなかったので運動エネルギーは無効。地球一個分の質量と等価の熱エネルギーを受け付けなかったので熱エネルギーも無効。これと同等の、極端に大きな運動エネルギーは試していないが、どう考えても熱エネルギーと同様に通じない。クレオが言ったように先ほどの惑星様の塊を弾丸にして飛ばしても、あるいは剣を光速にごくごく近い速度で振っても、効果があるとは思えない。焼いても斬っても、おそらく殴っても……と考え、エルキドは思った。殴るということは試していない。
普通は、剣で斬るのも拳で殴るのも、運動エネルギーである点ではまったく同じだ。だがエルキドとクレオの間において、この二つは少し違うように思える。剣は通常の物質だが、二人の肉体はこの世界において特異点なのだ。この世界で、通常の物質は特異点に物理的影響を与えないように定義されているようだが、特異点同士が物理的にどのように振舞うかの定義については未確認だ。自分の体を使って直接打撃を加えればどうなるか、まったくわからない。これは試す価値がある。
エルキドはクレオの頬を、思い切り殴った。先ほどエルキドが発生させたエネルギーとは比べ物にならないほど小さな、そして強烈な一撃。このエネルギーにより、特異点であるクレオは、空気抵抗や重力の影響がほとんどない宇宙空間で、物理法則に従って、等速直線運動をしばらく続けた。
突然王宮の門前広場に現れた二人が乱闘しているという報告を、クリスは受けた。報告してきた官に案内されて現場に行ってみると、まず目についたのは人だかり、それから人だかりの中心にいる、件の二人の頭髪であった。純黒の頭髪の少年が、純白の頭髪の青年を殴る。白髪の青年もある程度抵抗しているようだが、主に黒髪の少年のほうが手を上げている。彼がこのような行為に出ることはあまりにも考えにくいので別人かと思ったが、頭髪だけでなく顔もよく見知ったものだった。
「エルキドさん! どういうことだ。一体、何をなさっている」
クリスが声をかけると、エルキドと、相手の青年が同時に彼女を見た。群集もその声を聞き、何人かは彼女の名を口にした。
直後に起きた現象を見て、クリスは目をしばたたいた。それまでエルキドに殴られていた青年は、次の瞬間にはクリスに近い位置にいたのだ。五十メートル程度の距離を、一瞬にして移動していた。文字通り目にも留まらぬ速度だったのかもしれないし、テレポーテーションかもしれないが、もちろんどちらにしても人間業ではない。
「クリスさんに何か用でも?」
青年のありえない移動についてなんとも思っていない様子のエルキドは、言いながら彼に歩み寄る。
「強がるな。君が彼女をどれほど大切に思っているかは、わかっているつもりだ」
鼻血とそれ以外の多少の出血をしている顔を手で押さえ、息を乱しながら、青年は言った。
「人質のつもりか。それにしても、わざわざこんなところまで来る必要はなかろうに」
「彼女の危険についての情報を得るにしても、権限によって得られる情報と視覚によって得られる情報では感覚が違う」
「クリスさんは危険になどさらされてはいない」
「彼女の状態を操作できなくても、外部からエネルギーを加えて殺傷することは容易だ」
青年が足元の石を拾ってそう言ったかと思うと、その石は青年の掌から、勝手にクリスに向かって飛んできた。それはすさまじい速度であり、クリスにはかろうじて認識はできたものの、避ける間がなかった。利き腕を撃ち抜かれた、と思った。だがその石はクリスまで届くことはなく、いつの間にかクリスから遠ざかる方向に向かっていた。すさまじい速度を保ったまま、その石は遠くに消えた。
「これは……」
何らかの方法で石を飛ばしたらしい青年は、呆然としている。
「局所的に空間の曲率を変えただけだ。おどろくようなことではないだろう」
エルキドの言葉の意味が、正確にではないもののクリスにはわかった。おそらく、石自体はまっすぐ飛んでいたものの、空間のほうが曲がったため、石が方向を変えたように見えたのだ。先ほどの青年と同様、エルキドも人間業でないことをやったらしい。
「俺の権限も知識もあんたより弱いが、意地でもこれ以上は思い通りにさせんぞ」
「権限と知識が弱い分を、知恵で補っているんだな。参ったな……僕はけんか慣れしてないし、総合的に明らかに弱いみたいだ」
「そうみたいだな。こちらとしては僥倖だ」
青年に歩み寄ったエルキドは、その襟首をつかみ、顔面を殴った。つかんだ襟首は離さず、続けて数回殴る。それから襟首を離し、青年は地面に倒れ込む。倒れた青年をさらに殴ろうと近寄ったエルキドを、クリスは遮った。
「クリスさん」
「彼が私を襲い、あなたがそれから助けてくださったことは、なんとなくだがわかった。あなたが大した理由もなく人に暴力を振るうはずがないこともわかっている。だが目の前で国民同士が争っているのを見過ごすことはできない。事情をお話しいただきたい。彼に非があるのなら、多少法を超えても、私が司法省に裁かせる」
クリスは、白髪の青年が、法では裁ききれない悪事を犯したために、やむを得ずエルキドが手を上げていると考えた。それがよほどのものであれば私怨ということもありえなくはないが、筋の通った考え方をする彼が恨みを抱くのであれば、それは正当な恨みであるはずだ。何度も相談に乗ってもらい、唯一の親友であり、求婚までした相手である彼のためであれば、勅令を強行する覚悟もある。
しかし、エルキドは首を横に振った。
「すいません。こればかりは、俺がやらないといけない」
エルキドがそう言った次の瞬間には、彼も白髪の青年も、クリスから少し離れた場所に移動していた。先ほどと同様の、通常ありえない移動だった。それなりに腕に覚えのあるクリスだが、自分には到底歯が立たない圧倒的な力のようなものを、そこに感じた。
クリスには、エルキドが涙を流しながら青年を殴り殺すところを見ているのが精一杯だった。
今までのエルキドがそれを隠していたにしろ、前回彼に会ってから今までに何かがあったのにしろ、今の彼に何らかの人智を超えた力が備わっていることは間違いなさそうだ。
彼の力とは関係なく、彼がクレオというらしい白髪の青年を殴り殺したところを目の前で見た以上、逮捕して取り調べないわけにはいかなかった。エルキドの力の詳細についてはまったくわからないが、その力を使えば、おそらく捕まらずに逃げることが可能だったはずだ。しかしエルキドは素直に逮捕に応じた。できれば取調べはクリスに直接やってほしいと言うので、そうすることにした。クリスのほうが、ぜひとも話を聞きたかったのだ。クリスは、王宮の地下室でエルキドと二人きりになった。本意ではなかったが、扉には外側から鍵をかけさせている。
「このようなところで申し訳ないが、来客用の部屋や私の執務室でというわけにはいかないので」
「ええ、わかってます」
「この程度の声であれば外には漏れないのでご遠慮なく話していただいて構わないが、大きな物音がしたり私が悲鳴を上げたりすれば、外で待機している者に聞こえる。私自身もそれなりに腕に覚えはあるので、妙なことは考えないでいただきたい」
「クリスさんの強さは昔からよくわかってますよ」
クリスは自分の戦闘能力について公にはしていないので首を傾げたが、直後に、彼が洞察力の異能者であることを思い出す。彼なら、クリスの体を服の上からでも少し見れば、その筋力や運動能力がわかるのだろう。
「では、事情をお聞かせ願えるだろうか。できるだけ詳しく」
「申し訳ありませんが、取調べに応じる気はありません。ここに来たのは、俺のほうから話があったからです」
「それは通らない。非常に残念だが、あなたは犯罪者だ。話していただけないと、あなたをここから出すことができない」
エルキドは答えない。
「事情を聞かせていただかないわけにはいかないが、その前にあなたのお話を伺うのは構わない。どのようなことだろうか」
「結婚できなくなりました」
「……こちらとしても、罪を犯してしまった者と結婚することは、王として難しい。だがなぜだ? なぜあのようなことを?」
「彼は、この世界の神でした」
エルキドが本気で言ったのか、すぐには判断できなかった。
「彼はその権限を用いて、多くの人や動物を殺していて、今後もそれを続けるつもりでした。彼にも事情はあったんですが、俺にはそれが耐えられなかった」
クリスは話についていけなかった。エルキドがそれに気づかないはずはないのだが、構わず続ける。
「神である彼を殺すことができたのは、俺も神と同じになってしまったからです」
「ちょっと待ってくれ、お話があまりに……」
「すぐに飲み込めないことはわかっているので、あえて一度に話しました。クリスさんは俺を信用してくれているから、俺が嘘をついていないことくらいはわかっているはずです。あとは、ゆっくり飲み込んでください」
確かに、彼の言っていることは不可解だとは思ったが、嘘をついているとはほとんど思わなかった。嘘をつくならもっともらしい嘘をつくだろう、ということもあるのだが、自分はそれだけ彼を信用しているのだろう、とクリスは思った。彼が神と同じだと言うならその証拠を見せてもらえばいいと思ったのだが、それは先ほどのけんかのような戦闘で、すでに見せてもらっていた。彼は確かに、何らかの人智を超えた力を持っている。それが神の力だと彼が言うのなら、そうなのだろう。
「神が王に力を貸すわけにはいかない。一国の君主が強すぎる力を行使することが好ましくないことは、クリスさんならわかるはずです。今後は、今までみたいに相談に乗ることは、あまりできなくなります」
「お会いすることも、難しくなるのだろうか」
クリスにとってエルキドは、ただの便利な人ではなく、親友なのだ。国政などのアドバイスを受けられなくても、会うことは続けたい。
「会ったり電話したりすることくらいは問題ない、と言いたいところですが、そうすればかならず神の権限や知識に頼ってしまうことになりますので」
「そうか……」
これまで、あまり頼るべきでないエルキドに頼ってきてしまっただけに、否定できない。その自信もない。
「基本的に、神の力で人間や動物に利益や害を与えるつもりはありません。でも、クリスさんが本当に困ったとき、本当にどうしようもなくなったときには、助けに来ます。友達なんだから、それくらいはいいと思う」
「ありがとう」
クリスはエルキドと握手を交わした。手を離した次の瞬間には、彼は姿を消していた。
エルキドが家に帰ると、グレイスがミイの遺体を抱きかかえて、大声で泣き喚いていた。エルキドに気づくと、エルちゃん、と涙に濡れた声で呼びかける。
「どうして死んじゃったのかわからないの」
エルキドは何も言わずに、テレビを点けてチャンネルを変えた。ニュース番組をやっている。グレイスは、エルキドが自分にそれを見せようとしていることを理解し、泣き声を抑えてテレビを見た。ついさっき、国内の至る所で多くの人間や動物が死んだという話をしている。あまりにも大きいその被害の原因も規模も今のところは不明。
「アルフレア中って言ってるけど、世界中で起きた。被害は、すべての生き物の十パーセントだ。ミイは、たまたまそれに当たってしまった」
「何なのそれ? どういうこと?」
「この世界の神に当たる人物が、そういうことをやったんだ。その神を、さっき俺が殺してきた」
神がクレオであることは、言わないでおいた。彼は、エルキドが好きな相手だとグレイスは思っているから、言えば余計なショックを与えてしまうだろう。
「その人、どうしてそんなことをしたの?」
「……悪い奴だったからだ」
クレオの事情や気持ちを説明することは難しい。だがそれ以上に、ミイを殺した者に、それなりの事情があることを理解させるべきでないと、エルキドは思った。ミイは悪い奴に殺された。そう思って、その犯人を憎んでいたほうが、グレイスにとっては楽だろう。
「だから、エルちゃんがやっつけたの?」
「うん」
「エルちゃん、神様より強いんだね」
エルキドは答えなかった。
「それって、エルちゃんも神様みたいになっちゃったってこと? エルちゃんも、その悪い神様みたいなことができるようになったの?」
「できるけど、できるだけだ。俺はそんなことしない」
「神様って……ずっと死なないの?」
グレイスにしては、恐ろしく鋭い質問だ。エルキドが隠しておきたかった、決して言及したくなかった部分だ。グレイスの表情を見れば、不死が忌むべきことであることを、十分に理解していることがわかる。我が子を思う気持ちが想像力を助長した、ということだろうか。
クレオは死んだので神が死なないわけじゃない、というのはごまかしになってしまう。クレオは自分と同等の権限を持ったエルキドに殺されたのだから、例外中の例外だ。今この宇宙に、エルキドと同等の権限を持った者は存在しないので、同様の神の死を再現することができない。いつでも無条件でエルキドを信じてくれるグレイスに自分の都合で嘘をついたりごまかしたりすることは、決してできない。少し難しい話になるよ、とエルキドは前置きした。
「この世界に、永遠に続くものはないと俺は思ってる。形あるものはいつかは壊れる、命あるものはいつかは死ぬ、って聞いたことある? エントロピーが増大する、って言い方をするんだけど、たとえば俺という人間が、いつまでも俺のままでいるっていうのは、ありえないはずのことなんだよ」
グレイスは難しい顔をして聞いている。エルキドは、すべてを理解してもらうことを期待して話しているのではない。
何だか難しい話をしているけど、要するにエルちゃんはずっと死なないわけじゃないということらしい。エルちゃんが嘘をついたり間違ったりするわけがないから、エルちゃんがそう言うのならそうなんだ。
そういうふうに理解してもらおうと思ってのことだ。
「エルちゃんがエルちゃんじゃなくなるって、どういうこと?」
「いつかは死んで、死体になる。死体も、その辺にいる動物とか細菌に食べられて、人間の体とは別のものになる。その別のものは、また誰かの命の元になって、生まれ変わる。それをしばらく繰り返した後、ばらばらになって宇宙に散らばるんだ。もちろんママさんも、ほかの人間も、母さんもミイも同じ」
「エルちゃんは、みんなと同じ?」
「そういうこと。だから、なんにも心配いらない」
グレイスを心配させまいとして言った言葉だが、そう言ってみると、なんとなく自分でもそうなんだと思えた。
きっと俺もいつかは死ねる。
事件が起きたのは、ちょうど最後にエルキドに会った日だ。それから一週間ほどすれば、ある程度の情報がクリスの元に集まっていた。死亡者については、外傷も内臓の損傷も毒物も確認できず、死因は不明。死亡したのは人間だけではなく、確認できる範囲のあらゆる生物の種に渡り、少なくとも人間については、わかっている範囲では各市区町村できれいに約十パーセントずつ死亡している。
今回よりもはるかに大きな規模の、同様の事件は過去に起きており、それはホロコーストと呼ばれている。今回の事件は、第二のホロコースト、といったところだろうか。エルキドから個人的に事情を聞いたクリスは、これはクレオがやったか、クレオとエルキドとの戦いの際に起きたトラブルではないかと考えた。しかしこれは誰にも話せない。話せば、エルキドから聞いたことまで話さなければならなくなる。クレオやエルキドが神であるというような話を信じてもらうことは困難だろうし、またあまり言うべきことでもないと思う。エルキドは特に口止めをしてこなかったが、クリスがいたずらに口外しないと信じてくれてのことだろう。
まだ推定であるが、死亡者は人間だけで五億五千万人。ナナを失った自分と同じ傷を負った者は、一体どれだけの数になってしまうのだろう、とクリスは考える。一部からは暴君とまで言われた父の政治を憂い、あまりにも強引すぎる手段で本来よりも早く即位したクリス。結果、国と国民の生活を豊かにすることができたわけだし、そのことは今でも後悔してはいない。しかし最近になって少し、しんどいと思う。玉座から逃げ出したいと思うことが、クリスにもある。
最近は戦ってばかりだった。非常事態や事件が続き、その対応に迫られてばかり。だが考えてみれば、その前から、即位する前から、戦っていた。クリスだけでなく、すべての国民が、すべての人間が、すべての動物が、戦っている。食うために、あるいは身を守るために、つまり生きるために他の動物を殺す。戦闘ができない人間も、おそらく同じなのだ。動物に襲われる危険や、それ以外の死の危険は常にあり、絶対に安全な時間など、誰にも一瞬たりともない。神ですら死んだそうなので、例外はないのではないだろうか。
人の世が続く限り、死別はなくならない。動物によって、あるいは事故や病気で、大切な人を亡くした傷。こういう痛みとも、生きている限りは戦っていかなければならないのだな、とクリスは思う。おそらく、生きることはすなわち戦うことなのだ。悲しいくらいにいつまでも戦い続けることなのだ。
戦い続ける人々のさだめを変えるような大それたことは、クリスにはできない。それができる力をおそらく持ち、本当に困ったときには助けに来てくれると約束してくれた親友は、現れない。現れないなら、彼に助けを求めるべきときではないのだろう。ということは、今を自分たちの、人間の力だけで乗り切れるということだ。クリスは、クリスにできるあらゆる手段を用いて、戦い続ける人々を助けていけばいい。それが、王たるクリスの戦いだ。
ノックの音がして、マリが入ってきた。
「失礼致します、陛下。陳情の方がいらっしゃっていますが」
「マリさん。今日の私は、少し疲れている」
「さようでございますか。でしたら、丁重に追い返して参ります」
いや、と言ってクリスは微笑んだ。
「疲れているから、栄養剤をいただきたい」
「本日、二本目でございますが」
言いながらもマリは、冷蔵庫からカフェイン入り栄養剤を取り出し、クリスに手渡す。クリスはこれを一気に飲み干した。
「子を作るのはもう少し先になるな」
またしても先延ばしになってしまうが、第二のホロコーストによる混乱が落ち着いたら、今度こそ作ろうとクリスは思った。自分の跡を継ぐ、小さな戦士を。
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